集会・講演・支援 渡辺美奈氏講演
札幌訴訟の第5回口頭弁論の後に開かれた報告集会で、渡辺美奈氏が講演をした。渡辺氏は東京・新宿にあるアクティヴ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」wamの事務局長で、日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の共同代表もつとめている(2016年12月16日、札幌市教育文化会館)。
講演 渡辺美奈 「慰安婦」問題の現在 |
先日、wamに爆破予告のハガキが届きました。文面は「爆破する 戦争展示物撤去せよ 朝日赤報隊」。警察への被害届と別に「言論を暴力に結びつけない社会」の実現を各メディアに呼びかけたところ、植村裁判を支える市民の会から心強い応援声明を受け取りました。
■正論、櫻井らが名指しでwam攻撃
wamは、女性国際戦犯法廷(2000年)を提案・主導した松井やよりさんの遺言で05年に開設しました。この法廷で有罪とされた日本軍性奴隷制の責任者、天皇裕仁ら9人の写真パネルなどを常設展示しています。当初から様々な攻撃を受けてきましたが、ユネスコの世界記憶遺産に「日本軍『慰安婦』の声」の登録申請が5月末公表されてから、様相が変わって来ました。
登録を推薦した日本側委員会の住所と代表はwamとダブります。産経新聞や月刊誌『正論』、週刊新潮などに櫻井よしこらが名指しでwam攻撃を書き続けています。ネットに「日本の中の敵はこいつらだ」という書き込みもあります。爆破予告は初めてでしたが、支える会の声明で、みんなが関心を持って見てくれていると感じました。ありがとうございます。
この運動に20数年かかわっていますが、植村隆さんの名前を聞いたのはバッシングが始まっていた数年前です。その後朝日新聞の慰安婦問題検証特集が出ましたが、中途半端で奥歯に物が挟まったような説明でした。けんかの仕方を知らず、ヤクザ相手に「話せば分かる」と出掛けてボコボコにされた、ナイーブなエリート集団という感じです。
昨年1月、植村さんが東京地裁に提訴した日の報告集会で「これは報道の自由の問題だ」「民主主義の問題なんだ」と強調する発言が大変気になりました。勝つためには色々な闘い方があります。しかし「慰安婦」問題は、女性に対する重大な人権侵害であること、日韓の首脳が両国の安全保障についても話し合えない事態を生んでいるという問題意識を、感じられませんでした。
■70年代には「慰安婦」報道はあったが議論はなかった
韓国に住んでいる元朝鮮人従軍慰安婦の証言を初めて書いた植村さんの朝日新聞記事(1991年8月11日付)は、韓国紙に転載されることもなく、運動に影響を与えることはなかった。3日後に金学順さん本人が名乗り出た記者会見は韓国で大きく報道されましたが、読売新聞も毎日新聞もほとんど書いていません。
1970年代から新聞、テレビの報道、ルポ、書籍などで「慰安婦」として被害を受けた女性たち(渡辺さんはそれぞれのケースを説明)の具体的な存在が、顔や住所と一緒に紹介されてきました。ベストセラーになった本もあります。しかしちゃんとした議論がされず問題性を理解されずに来たため、この記者会見が日本できちんと報道されなかったのだと思います。
韓国で自ら名乗り出た日本軍「慰安婦」は初めてだったし、自分たちが受けた被害の責任を追及して日本政府を東京地裁に訴えた(91年12月)のも金学順さんたちでした。被害者が名乗り出たことは様々な国で報道されました。新聞を読めない人には、ラジオが有効な名乗り出呼び掛けの手段でした。
しかし「何で今ごろ」「安心できる人がちゃんと聞いてくれるだろうか」「周囲に知られ、さげすまれないか」「話した後ほったらかしにされるのでは」等々、呼び掛けに反応できなかった人は少なくなかった。被害女性を支える運動がないところでは、名乗り出られないのです。でもフィリピン、台湾、インドネシア人などの女性150余人が名乗り出ました。
wamで第14回特別展「地獄の戦場 ビルマの日本軍慰安所」を開催中です。朝鮮半島から連行され慰安所で17歳になった女性の証言、大英帝国戦争博物館所蔵の日本軍駐屯地勤務規定、慰安所利用規定、軍指定の慰安所配置図、そこに入れられた女性の国籍や定休日表が展示されています。名乗り出がなく、ビルマ人女性の被害実態は分かっていません。
日本軍侵攻地域の慰安所はインドから東南アジア、南洋諸島まであり、船などで連れてこられました。目的地に到着させるには「いい仕事がある」「看護婦になれる」など夢を持たせる必要がありました。現地調達したインドネシアやフィリピンでは移動させる必要はありません。でも「意に反する連行」であることは同じでした。
「慰安婦」の総数は想像がつきません。日本兵300万人の侵攻地域で兵100人に1人の割合だったのか、200人に1人か、それとも30人に1人かで計算するしかなく「数は分かりません」と答えています。
■来年4月に「慰安婦」博物館会議を開催
インドネシア展を昨年度開きました。女性たちの被害証言と、元兵士が戦後書いた手記から「慰安婦」をどう記憶しているか比べるため、同じサイズで並べました。ある元軍医は、慰安所の部屋に入った兵士が出て来るまでの時間をストップウォッチで計ったら平均5分だったと書いていました。
鶴見俊輔は「18歳ぐらいの真面目な少年が戦地から日本に帰れないことが分かり、現地で40歳の慰安婦にわずか1時間でもなぐさめてもらう。そのことにすごく感謝している。そういうことが実際にあったんです。この1時間のもっている意味は大きい。私はそれを愛だと思う」と97年に回想しています。
ある女性は突然家にやってきた5人の日本兵に「駐屯地で働け」とトラックに乗せられたこと、1年ぐらいで部隊は移動したが性病になっていたため残され、3カ月かかって帰宅したと証言しています。楽しそうに思い出している兵士の手記と被害女性の証言の、どっちを戦争の記憶として伝えたいか考えてもらうため、何の説明もつけませんでした。
「慰安婦」問題は90年代になって、戦時性暴力問題という国際的うねりに結びついていきました。旧ユーゴスラヴィアやルワンダの内戦は民族浄化という虐殺、おびただしい集団強姦を伴いました。しかし戦争によって女性に集中する性暴力の責任を女性が問うには、戦争が終わり、告発しても殺されない程度の平和が必要です。だからこれまで責任者は裁かれてきませんでした。
戦時性暴力が追及を受けずにいるのは、未来の戦争で起きても処罰されないということです。しかしアジアの女性たちは顔を見せ、堂々と50年前の被害を告発しました。内戦が続く旧ユーゴの被害者と日本軍「慰安婦」の出会いなどが国際的うねりとなり、人道に対する罪、戦争犯罪を犯した個人を訴追する国際刑事裁判所の誕生(98年)となりました。
「慰安婦」などなかったことにしようとする風潮が広がっており、被害の実態とその歴史を伝える日本軍「慰安婦」博物館の役割は、極めて重要になってきました。韓国、日本、中国、フィリピン、今月開館した台湾と計8館があります。博物館同士で情報を共有し連帯した活動を起こしていく場として来年4月1日、第1回日本軍「慰安婦」博物館会議を東京で開きます。みなさんのご支援をどうぞよろしくお願いします。
凡例▼人名、企業・組織・団体名はすべて原文の通り実名としている▼敬称は一部で省略した▼PDF文書で個人の住所、年齢がわかる個所はマスキング処理をした▼引用文書の書式は編集の都合上、変更してある▼年号は西暦、数字は洋数字を原則としている▼重要な記事はPARTをまたいであえて重複収録している▼引用文書以外の記事は「植村裁判を支える市民の会ブログ」を基にしている
updated: 2021年8月25日
updated: 2021年10月18日