捏造ではない――その根拠 日韓各紙の報道  

 

1991年当時、日韓各紙の報道で「挺身隊」は慰安婦と同じ意味で使われ、「強制性」は金学順さんの発言と多くの報道に示されていた。植村記事と各紙報道の歩調に大差はなく、植村記事が突出していたわけではない。

 

櫻井氏が植村氏の記事を「捏造」と決めつけた根拠としてあげたのは、植村記事Aの前文にある「女子挺身隊の名の戦場に連行され」という表現だった。櫻井氏は、第1回口頭弁論の法廷でこう語った。

「初めて名乗り出た慰安婦を報じた植村氏の記事は世紀のスクープでした。しかし、それからわずか3日後、彼女はソウルで記者会見に臨み、実名を公表し、貧しさ故に親によってキーセンの検番に売られた事実、検番の義父によって中国に連れて行かれた事実を語っています。同年8月15日付で韓国の「ハンギョレ新聞」も金さんの発言を伝えています。しかし植村氏が報道した「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たという事実は報じていません」

「植村氏が聞いたというテープの中で、彼女は果たしてキーセンの検番に売られたと言っていなかったのか。女子挺身隊の名で戦場に連行されたと本当に語っていたのか。金学順さんはその後も複数の発言を重ねています。8月14日の記者会見をはじめ、その同じ年に起こした日本政府への訴えでも、彼女は植村氏が報道した「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という発言はしていません」。=櫻井よしこ「意見陳述書」2ページ


要約すれば、「金学順さんはキーセンに売られて慰安婦になった、挺身隊は戦時下の勤労動員制度に基づくもので慰安婦ではない、強制連行されたとは言っていない、だから捏造だ」というのである。
これに対して植村氏は、同じ第1回口頭弁論でこう述べた。

「櫻井さんは「慰安婦」と「女子挺身隊」が無関係と言い、それを「捏造」の根拠にしていますが、間違っています。当時、韓国では「慰安婦」のことを「女子挺身隊」と呼んでいたのです。他の日本メディアも同様の表現をしていました。例えば、櫻井さんがニュースキャスターだった日本テレビでも、「女子挺身隊」という言葉を使っていました。1982年3月1日の新聞各紙のテレビ欄に、日本テレビが「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」というドキュメンタリーを放映すると出ています」。=植村隆「意見陳述」3ページ


金学順さんの名乗り出は当時の韓国と日本の新聞でも大きく報じられた。植村氏はそれらの記事を証拠として提出し、当時の報道では挺身隊は慰安婦と同じ意味で使われていたこと、強制性は金さんの発言と多くの報道に示されていることを論証した。

証拠として提出された報道記事は次の通りである。 
金学順さんの名乗り出と記者会見に関する報道
1991年8月15日付北海道新聞朝刊社会面トップ記事、東亜日報、京郷新聞、ハンギョレ新聞、8月16日付朝鮮日報、8月14日放送韓国MBCテレビ、8月18日付北海道新聞朝刊1面連載記事、9月28日付毎日新聞、12月7日付産経新聞、12月13日付毎日新聞、1993年8月31日付産経新聞
女子挺身隊と慰安婦をめぐる報道(韓国人女性が挺身隊として強制連行されて慰安婦とさせられたとの趣旨を表現するもの)
1987年8月14日付読売新聞、1991年6月4日付毎日新聞、7月12日付毎日新聞、8月24日付読売新聞、12月3日付読売新聞

韓国紙報道の一例は次のようなものである。
1991年8月15日付東亜日報(甲59)
「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私が、こうやってちゃんと生きているのに、日本は従軍慰安婦を連行した事実がないと言い、韓国政府は知らないなどとは話になりません。」 解放から46年ぶりに国内在住者としては初めて、日本の統治下で日本軍の従軍慰安婦という辱めを受けた証人が歴史の表に現れた。」(中略)「金さんが従軍慰安婦として連れて行かれたのは、満16歳になった1940年春。早くに父をなくし母も再婚したため、13歳で平壌の某家に養女として入った。金さんが平壌キーセンの検番[技芸を教え、キーセンを養成する組合]を終えた年に、養父は金さんをもう一人の養女(当時17歳)と共に、日中戦争が熾烈を極めていた中国中部地方に連れて行った。養女を利用して日本軍相手の「営業」をしようとした養父は、日本軍の銃剣に一銭も受け取れず、彼女たちを日本軍に引き渡した。金さんらは部隊内の慰安所に強制的に収容された。」(中略)「金さんは「挺身隊自体を認めない日本を相手に告訴したい心境」だとして、「韓国政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして、日本政府の公式の謝罪と賠償を受けるべきだ」と力を込めて語った。
同日付京郷新聞(甲60) 
14日、女性団体連合事務所で挺身隊問題対策協議会(代表尹貞玉)が設けた記者会見に現れた彼女は、「やられたことだけでも身震いがするのに、日本人が挺身隊という事実自体がなかったと言い逃れすることにあきれ証言することになった。」と明らかにした。1924年、中国の吉林省で金ダルヒョン、安ギョンドン氏の一人娘として生まれた彼女は、早くに父親を亡くし、母も再婚すると、養父の手で育てられた。14歳の時から、平壌妓生検番に通った。17歳になった年に養父とともに満州に行った金ハルモニは、日本軍にとらえられ、従軍慰安婦として生活するようになった。

金学順さんの記者会見に日本のメディアは参加していないが、記者会見の前に北海道新聞ソウル特派員の喜多義憲氏は単独インタビューを行い、次の記事を書いた。
同日付北海道新聞(朝刊社会面トップ記事)
戦前、女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌辱されたソウルに住む韓国人女性が14日、韓国挺身隊問題対策協議会(本部・ソウル市中区、尹貞玉共同代表)に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた。(中略)この女性は「女子挺身隊問題に日本が国として責任を取ろうとしないので恥ずかしさを忍んで」とし、日本政府相手に損害賠償訴訟も辞さない決意を明らかにした。」(中略)「この女性はソウル市鍾路区中信洞、金学順さん(67)=中国吉林省生まれ=。学順さんの説明によると、16歳だった1940年、中国中部の鉄壁鎮というところにあった日本軍部隊の慰安所に他の韓国人女性3人と一緒に強制的に収容された。「養父と、もう1人の養女と3人が部隊に呼ばれ、土下座して許しを請う父だけが追い返され、何がなんだか分からないまま慰安婦の生活が始まった。」(学順さん)。

北海道新聞のこの記事の内容は、植村氏が書いた記事Aとほぼ一致する。

喜多氏は札幌地裁の証人尋問で「ほとんど同じ時期に同じような記事を書き、植村さんは捏造と非難され、一方は不問に付される。これは死刑判決であり、私刑であり、言いがかりだ」と語った。

植村記事が捏造ではないことを証明する決定的な証言ではないか。

 


金学順さんの名乗り出はどう報じられたか

札幌地裁判決は、植村記事A、Bが書かれた当時の状況を20ページにわたって記している。これは、櫻井の記述の真実性と真実相当性を検討するためにまとめられた「前提事実」の重要部分である。櫻井が植村記事を捏造と決めつける根拠とした「平成3年訴状」「ハンギョレ新聞」「月刊宝石」が、この中で順次、明示されている。また、植村が反証として提出した「北海道新聞」ほか日韓各紙の記事多数が、慰安婦を挺身隊として報道した記事とともに明示されている。後段では、「吉田清治証言」と朝日新聞社第三者委員会についての言及があり、最後に櫻井の取材経緯が付け加えられているが、その項では櫻井の薄い取材ぶりがよくわかる。

 

以下は、札幌地裁判決書、26~46ページの全文。見出し、本文とも原文のママ。書式は変更してある。判決文にある「週刊宝石」は「月刊宝石」を指す。

 


 

(札幌地裁判決書 26~46ページ、全文引用開始) 

 

原告が本件記事Aを執筆するに至るまでの経緯

(ア)原告は、昭和57朝日新聞社に入社し昭和62年夏から1年間、同社に籍を置きつつ韓国の大学の語学学校で年間韓国語の勉強をし、その後、平成元年11月から大阪社会部で勤務をするようになった(甲93【1頁-3頁】

(イ)原告は、平成2年夏、2週間、慰安婦問題の取材のため韓国を訪れ、従前から慰安婦問題を取り上げていた尹貞玉(以下「尹」という)からも協力を得て取材を進めたが、元慰安婦に対する取材を行うことはできなかった。なお、尹は同年11月に韓国挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」という)を立ち上げた。(甲93【4頁】)原告は、この取材活動を通じて、本件遺族会の常任理事を務めていた梁順任(義母)の娘と知り合い、平成2月、同人と婚姻した(甲9【4、8頁】。)

(ウ)原告は平成3年夏頃ソウル支局長から、尹ら挺対協が元慰安婦の聞き取り調査をしているとの情報を得て、同年10挺対協の事.務所で、金学順氏の発言が録音されたテープを聞くとともに、尹からも聞き取りを実施した。原告は、ソウル支局での2年間の取材結果に加え、同日に取材したメモや録音を元に本件記事Aを執筆した。(甲93【5頁、原告本人【7~11頁、弁論の全趣旨)

(エ)平成11日付け朝日新聞大阪本社版朝刊社会面にはトップ記事で、原告が執筆した「思い出すと今も涙 韓国の団体聞き取り」というタイトルの本件記事が掲載され同月12日には同東京版朝刊で字数を削ったものが掲載された(前記前提事実())

 

北海道新聞記者による金学順氏への取材及び記事の執筆

 平成3年7月当時、北海道新聞ソウル支局駐在記者であった喜多義憲(以下「喜多」という。)は、北海道新聞社本社から、ソウルから太平洋戦争開戦50年の連載記事の第1回分の記事を出せるかと問合せを受け、自ら従軍慰安婦問題を提案して取材を開始した。喜多は同年13日夕刻ないし同月14日午前取材先であった挺対協の手から元慰安婦の女性がインタビューに応じるとの連絡を受け、同日、金学順氏に対するインタビューを実施し、これを基に以下の記事を執筆し、北海道新聞紙上に掲載された。(甲94【2頁~5頁】)

(ア)平成3年8月15日付け北海道新聞朝刊社会面トップ記事甲24)

 「戦前、女子挺(てい)身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌(りょう)辱されたソウルに住む韓国人女性が十四日、韓国挺身隊問題対策協議会(本部・ソウル市中区、尹貞玉・共同代表)に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた。(中略)この女性は「女子挺身隊問題に日本が国として責任を取ろうとしないので恥ずかしさを忍んで…」とし、日本政府相手に損害賠償訴訟も辞さない決意を明らかにした。」(中略)「この女性はソウル市鍾路区中信洞、金学順さん(六七)=中国吉林省生まれ=。学順さんの説明によると、十六歳だった一九四〇年、中国中部の鉄壁鎮というところにあった日本軍部隊の慰安所に他の韓国人女性三人と一緒に強制的に収容された。「養父と、もう一人の養女と三人が部隊に呼ばれ、土下座して許しを請う父だけが追い返され、何がなんだか分からないまま慰安婦の生活が始まった。」(学順さん)」。

なお、この記事には、「従軍慰安婦」の用語解説として、「旧日本軍直轄の管理売春制度によって戦場に連れて行かれ、兵士を相手に強制売春させられた女性。日中戦争下の一九三八年ごろから大規模に始まり、その主な対象は植民地下の朝鮮の未婚女性だった。初めは日本人業者が警察官らと村を回りだまして連れ去るケースが多かった。四三年からは「女子挺身隊」の名で動員され、一般勤労のほか、多くが慰安婦とされた。戦後、戦場に置き去りにされた。」との囲み記事が付されているが、同囲み記事部分は、喜多ではなく、北海道新聞本社の関係者が執筆したものである(証人喜多義憲【30頁、31頁】)。

(イ)平成3年8月18日付け北海道新聞朝刊1面連載記事(甲62)

 「先月下旬、李朝の宮殿「徳寿宮」の裏手にある韓国協会女性連合会事務局(ソウル市中区)に、中年女性に伴われた小柄なハルモニ(おばあさん)が前触れもなく訪れた。応対した韓国人女子挺身隊(従軍慰安婦)問題担当の事務局員方淑子さんは、広島での被爆体験を持つこの中年女性とは顔見知りだった。しかし、初対面のハルモニが「私は女子挺身隊だった」と切り出した言葉に思わず息をのんだ。金学順さん、平壌出身の母親を持ち一九二四年小卜I(中国東北地方)吉林省で生まれた。太平洋戦争開戦の前年四〇年中国北部の鉄壁鎮というところで妓生(キーセン=日本の芸者に当たる)になる修行をしていた当時一六歳の学順さんは、日本軍部隊に義父とともに突然呼び出され、慰安所で厳しい監視下に置かれた。」

 

金学順氏の共同記者会見

 金学順氏は平成3年8月14日ソウル市内で記者会見を行った。その記者会見の内容を報じた韓国の新聞社の記事及び韓国のテレビ局による報道には、以下のような内容が含まれていた。甲甲甲59(枝番を含む。以)から甲61ま、甲102、甲105、イ2、乙イ27)

(ア)1991年8月15日付け東亜日報(甲59)

 「「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私が、こうやってちゃんと生きているのに、日本は従軍慰安婦を連行した事実がないと言い、韓国政府は知らないなどとは話りません」 解放46年ぶりに国在住者としては初めて、日本の統治下で日本軍の従軍慰安婦という恥ずかしめを受けた証人が歴史の表に現れた。」(中略)「金さんが従軍慰安婦として連れて行かれたのは、満16歳になった1940年春。早くに父をなくし母も再婚したため、13歳で平壌の某家に養女として入った。金さんが平壌キーセンの検番[技芸を教え、キーセンを養成する組合]を終えた年に、養父は金さんをもう一人の養女(当時17歳)と共に、日中戦争が熾烈を極めていた中国中部地方に連れて行った。養女を利用して日本軍相手の「営業」をしようとした養父は、日本軍の銃剣に一銭も受け取れず、彼女たちを日本軍に引き渡した。金さんらは部隊内の慰安所に強制的に収容された。」(中略)「金さんは「挺身隊自体を認めない日本を相手に告訴したい心境」だとして、「韓国政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして、日本政府の公式の謝罪と賠償を受けるべきだ」と力を込めて語った。」

(イ)1991年8月1京郷新聞(甲60)

 「14日、女性合事務所で挺身隊問題対策協(代表 尹正玉)が設けた記者会見に現れた彼女は、「やられたことだけでも身震いがするのに、日本人が挺身隊という事実自体がなかったと言い逃れすることにあきれ証言することになった。」と明らかにした。1924中国の吉林省で金ダルヒョン、安ギョンドン氏の一人娘として生まれた彼女早くに父親を亡くし、母も再婚すると養父の手で育てられた。14歳の時から平壌妓生検番に通った。17歳になった年に養父とともに満州に行った金ハルモニは、日本軍にとらえられ、従軍慰安婦として生活するようになった。」

(ウ)1991年8月16日付け朝鮮日報(甲61)

 「日本政府が存在の事実を否定している従軍慰安婦「挺身隊」の韓国内の証人が初めて現れた。「16歳の幼い年で中国の奥地に連れて行か、日本軍慰安婦として苦痛を受けた私がこうやってちゃんと生きているの、そのような実はなかったなどとは話になりません」。50年以上も胸の奥にしまっておいだ恨みを、歴史の名で証言すると名乗り出た金学順さん(66・女・ソウル鍾路区忠信洞1)は14、韓国挺身隊問題対策協議会事務所で自らが体験した「朝鮮女子挺身隊」の実情を告発した。「1940年、日中戦争が熾烈を極めていた中国中部地方の鉄壁鎮という場所に、わけも分からず売られて行きました。中国人が戦争の最中に捨てて行った民家を慰安所に仕立ててあったのです。」

(エ)1991年815日付けハンギョレ新聞(甲105、乙イ2、乙イ27。訳文は甲1052によった。)

 「17、花のような年齢で、5カ月あまりの間、日本軍人たちの従軍慰安婦を経験した金学順(67・ソウル鍾路区忠信洞1・写真)おばあさんが14日午後、韓国女性団体連合会事務室で惨状を暴露する記者会見を持った。」(中略)「「今も『日章旗』を見るだけで嫌な気持ちになり、胸がどきどきします。テレビや新聞で、最近も日本が従軍慰安婦を連行した事実はないと言う話を聞くと、悲嘆に暮れます。日本を相手に裁判でもしたい心情です。」」(中略)「1924年満州吉林省で生まれた金さんは父親が生後100日で亡くなってしまい、生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった。3年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れられていった所が、華北のチョルベキジンの日本軍300名余りがいる小部隊の前だった。私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした。その後、5カ月間の生活はほとんど毎日、4~5名の日本軍人を相手にすることが全部でした。」(中略)「挺対協は「金さんの証言をはじめとして生存者、遺族などの証言を通じて歴史の裏側に埋もれていた挺身隊の実相が明らかにされなければならない」と強調した。」

(オ)1991年8月14日における韓国MBCテレビによる報道(甲102)

 「日帝(日本帝国主義)の野蛮な蛮行である挺身隊、その挺身隊出身の恨(ハン)多き女性が今日46年ぶりに国内では初めて当時の状況を証言しました。満16歳で日中戦争の最前線である激戦地に連行され、日本軍慰安婦とならざるを得なかった金学順ハルモニをキム・ミョンジュン記者が会いました。」

「記者:こうしてご自身の話を吐露する決心をした動機は何ですか?」

「金学順:特に動機はありません。ずっと胸の中にしまってきたのですが、あまりに悔しくて。誰に訴えようか。」

「記者:最初に日本の軍人に連れて行かれた時の状況を少しお話ください。」

「金学順:軍人たちが行こうと言えば行かない訳にはいきません。行こうと言えば行くしかない。ついて行くしか。何も分からないし、軍人が行こうというのだから従わなければならないと思い、そのままついて行きました。」

 

金学順氏よる本政府への提訴と原る本件記事Bの

ア)本件遺族会の会員35名は、東京地方裁判所に対し、平成3年12月6日、日本国を被告とする「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」「平成3年訴う。)を提した。成3年訴訟の原、同年11月に本件遺族会に入会した金学順氏も含まれていた。(甲93【7頁~8頁】、乙イ43、乙口174【21頁、22頁

 平成3年訴訟に係る訴状中、金学順氏について言及した部分(乙イ4350頁以下】には次のような記載がある。「原告金学順(以下「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守や手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎮」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。」

(イ)原告は平成年訴訟の提訴に先立つ平成1125日平成3年訴訟の原告弁護団による金学順氏に対する聞き取りに同行し年訴訟の提訴後である同年1225日付け朝日新聞大阪本社版に本件記事Bを執筆した。本件記事B(甲6)には、次のとおりの記載がある。

「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と二人、誘いに乗りました。十七歳(数え)の春(一九三九年)でした。」、「平壌駅から軍人たちと一緒の列車に乗せられ、三日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました。」

、原、本件記事Bの作成、「平壌にあったキーセンを養成する芸能学校に入り、将来は芸人になって生きていこうと決心したのでした」と発言したことを聞いていたが、「キーセン学校」に通ったことと慰安婦にさせられたことは関係がないと考えて、本件記事Bは書かた。、1970年、80年代の日本人男性が韓国に行く「キーセン観光」は、「キーセン」に名を借りた売春行為のことをいうものであった。

以上、甲93【7頁、8頁】、乙イ1【11頁】、原告本人【14頁】

 

金学順氏に関する朝日新聞及び北海道新聞以外の新聞社の報道状況

 平成3年8月14日の金学順氏の共同記者会見の後朝日新聞及び北海道新聞以外の新聞において、金学順氏に関し、以下のような記事が掲載された。

(ア)平成3年9月28日付け毎日新聞(甲64)

 「八月下旬、うだるような暑さのソウルで、関係者の橋渡しで金学順(キム・ハクスン)さん(六七)に会った。」(中略)「父を早くに亡くしたキムさんは、中国の商人に引き取られ、旧日本軍に売り渡された。旧満州(現中国東北部)の慰安所に連行された時はまだ十七歳。どこに連行されたかもわからない。「日本兵に軍用トラックに乗せられ、これから自分はどうなるか、恐ろしくてたまらなかった。田舎道をひたすら走り、中国人の民家に着いた。それから悪夢が始まった」」

(イ)平成3年12月7日付け産経新聞(甲65)

 「太平洋戦争中、旧日本軍の従軍慰安婦として精神的、肉体的苦痛を強いられたとして国に対して補償を求める訴えを東京地裁に提訴した金学順さん(六七)が六日、大阪市浪速区の「リバティおおさか」(大阪人権歴史資料館)で記者会見し「日本の若い人たちに過去の侵略の歴史を知ってもらいたい。日本政府は従軍慰安婦の存在を認め、謝罪してほしい」と強く訴えた。金さんは十七歳の時、日本軍に強制的に連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として働かされた。」

(ウ)平成3年12月13日付け毎日新聞66)

 「太平洋戦争中、旧日本軍に強制的に駆り出された軍人、軍属、慰安婦だった韓国人と遺族らが日本政府に謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴した。十四歳以上の女性が挺身(ていしん)隊などの名で朝鮮半島から連行され、従軍慰安婦に。その数は二十万人ともいい、終戦後、戦場に置き去りにされた。金さんは十五歳の春、日本軍兵士にら致された。「挺身隊、勤労奉仕の名目すらなかった。『このやろう。朝鮮人』と殴って引っ張っていくだけだった。」」

(エ)平成5年8月31日付け産経新聞67)

 「今月十三日夜。韓国・ソウル市内東大門(トンデモン)に国際電話をかけた。相手は朝鮮人の元従軍慰安婦金学順(キム・ハクスン)さん(六九)。二年前、旧軍人らの同胞と総額七億円の補償を日本政府に求め、東京地裁に提訴した原告のひとりだ。」(中略)「太平洋戦争が始まった一九四一年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の三人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。十七歳の時だ。食堂で食事をしようとした三人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた。」

 

金学順氏に関する週刊誌報道(乙イ31)

 ジーナリストである臼杵敬子、平成4年1月5日に発行された「週刊宝石」2月号に「もうひとつの太平洋戦争 朝鮮人慰安婦が告発する 私たちの肉体を弄んだ日本軍の猟色と破廉恥」と題する記事(以下「臼杵論文」という。)を執筆した。同記事の中では、金学順氏の証言として、以下のような記述がされている。

 「私は、満州吉林で生まれました。父は独立運動家を助ける愛国者でしたが、私が生まれて百日後に死んだそうです。生活が苦しいために母は二歳になった私を連れて、生まれ故郷の平壌に帰り、親戚を頼ったのです。でも、母子二人の生活は相変わらず貧乏のどん底で、私は小学校四年までしかいっていません。母は家政婦、私は近所の子守をしながら細々と暮らしていたのですが、十四歳のとき、母が再婚したのです。私は新しい父を好きになれず、次第に母にも反発し始め、何度か家出もしました。その後平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。ところが、十七歳のとき、養父は「稼ぎにいくぞ」と、私と同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン(鉄壁鎮)だったと記憶しています。」

 

女子挺身隊と慰安婦を巡る著作及び報道の内容

(ア)日本政府による国家総動員法に基づく国民の勤労動員のうち、女性の勤労動員制度は昭和1611月の国民勤労報告協力令昭和18年の次官会議決定(女子勤労動員ノ促進二関スル件)などによって始められ、上記決定においては、女子を動員すべき職種として、航空関係工場、政府作業庁、公務員の男子徴用や男子就業の制限・禁止により女子の補充を要するものを定め、新たに「女子勤労挺身隊(仮称)」を自主的に組織する制度を採用することが定められた。その後昭和19年の女子挺身勤労令により、法的強制力のある女子挺身隊制度が設けられたが、同令において「女子挺身隊」とは「勤労常時要員としての女子(学徒勤労令の適用を受くべきものを除くの隊組織」と定義され同令1条)、女性が女子挺身隊として行う勤労協力は、国等が指定する者の行う命令によって定められる総動員業務についてこれを行わせると規定されている(同令。このように女子挺身隊とはこれらの勤労動員制度に基づき国家総動員法条が規定する「総動員業務」総動員物資の生産修理配給輸出輸入又は保管に関する業務等をいう。同法2条、3条参ついて工場なで労働に従事することを指すものである。(乙イ9か乙イ12まで)

 これに対し、慰安婦ないし従軍慰安婦とは、太平洋戦争終結前の公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性などの呼称のひとつであり女子挺身隊とは異なるものである乙イ18145頁】乙イ20【281頁】乙イ141頁】乙口174【24頁以下、358頁以下、366頁以下】)。

(イ)もっとも、韓国国内においては、挺身隊と慰安婦とを混同して理解されており、日本国内において刊行された書籍においても、日本軍が朝鮮人女性を女子挺身隊として徴用したとする内容の著作が存在した。

このうち、吉田清治(以下「吉田」とヽう。)の「朝鮮人慰安婦と日本人」(年3月1日イ7)び「私戦争(昭和58年7月31日イ8)する著作は、田自身が、陸軍部隊の要請に基づく動員命令書により朝鮮人女性を女子挺身隊として徴用し、慰安婦とすることに関与したと告白する内容であり、特に後者は、徴用に当たり暴力的手段を用いたことに言及するものであった。吉田の著作を除く他の人物による著作では、女子挺身隊と慰安婦との関係に関する記述は、いずれも伝聞に基づく形でされたものであった。(甲57、甲58、イ7、イ8、弁論の全趣旨)

(ウ)日本国内における報道でも、「韓国では「挺身隊」は「従軍慰安婦」と同じと考えられているため、一連のマスコミ報道で韓国民の多くは「戦時中の日本は韓国から小学校まで従軍慰安婦として引っ張っていった」と受け止めている」平成16日付け産経新聞。乙イ13)、「韓国のマスコミには、挺身隊イコール従軍慰安婦としてとらえているものが目立ち、韓国民の多くは「日本は小学生までを慰安婦にしていた」と受け止めている。」同日付け朝日新聞。乙イ14)として両者を別のものとして報じる例もあったものの昭和50年代から挺身隊と慰安婦とを混同する報道も多く見られた。

 また、日本国内の報道の中には、「日中戦争から太平洋戦争にかけて「女子挺身隊」の名で連行され日本兵相手に売春を強いられたという朝鮮人従軍慰安婦問題の真相を解明し、日本政府の責任を問うために結成された韓国の挺身隊問題対策協議会」(平成3年8月24日付け読売新甲63)、「昭和一七年以降「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが、多数強制的に徴発されて戦場に送り込まれた。」(和62年814日付け読売新聞。甲20、甲70)「尹元教授によると、朝鮮人従軍慰安婦は一九三七年から終戦まで朝鮮各地から集められ、その数は十万とも二十万人ともいわれる。当初は十七歳から二十歳までの女性だったが、戦争が激しくなると、十四歳から三十歳以上、中には子持ちの女性も「女子挺身隊」の名目で強制的に戦地に送られ、日本兵の相手を強要された。」(平成3年6月4日付け毎日新聞。甲21、甲71)「また「女子挺身隊」などの名目で徴発された朝鮮人女性たちは自由を奪われ、各地の慰安所で兵士たちの相手をさせられた。」同年12日付け毎日新聞。甲22、甲72)、「第二次大戦中に「女性挺身隊」として強制連行され、日本軍兵士相手に売春を強いられたとして、韓国人女性三人を含めた韓国人被害者三十五人が今月六日、日本政府を相手取り、一人当り二、総額7億の補償請求訟を東京起こす。」(同年12月3聞。甲73)のよう、韓女性身隊として強制連行されて慰安婦とさせられたとの趣旨の表現をするものもあった。

(以上について、甲19ら甲25ま、甲56、甲63、甲69から甲76ま、甲95、甲103、乙イ13、イ14、イ44ら乙イ51まで)

(エ)朝日新聞も昭和57年頃から平成3年頃までの間朝鮮人女性が女子挺身隊の名目で慰安婦として強制連行されたとの趣旨の記事を掲載していた。このうち昭和57年9月2日の記事は吉田を朝鮮人の強制連行の指揮に当たった動員部長であると紹介した上、朝鮮人女性を狩り出し、女子挺身隊の名で戦場に送り出したとする吉田の供述を初めて掲載したものであり、昭和58年12月24日、平成3年5月22日、同年10月10日にそれぞれ掲載された記事にも国家総動員体制のもとで軍需工場や炭鉱などで働く労働力確保のための報国会の動員部長として多数の朝鮮人女性を強制連行したとの吉田の供述(以下、朝鮮人女性を女子挺身隊の名で強制連行したとの趣旨の吉田の供述をまとめて、単に「吉田の供述」という。)が掲載されている。(乙イ1【5頁以下】、乙イ44から乙イ46まで、乙イ50)

 

 

吉田の供述に対する疑問点の指摘、本件記事A日新聞の対応

(ア)拓殖大学教授であった秦郁彦(以下「秦」という。)は、平成4年3月末、吉田が「私の戦争犯罪」において朝鮮人女性を強制連行したと記述する済州島において実地調査を行うなどして雑誌新聞などを通じて、吉田の供述内容の信用性に対する疑問点を指摘するようになった。以後、吉田の供述に疑問を呈する報道や記事も増加するようになった。

イ1【5頁イ18、イ23、乙口174【235頁下】)

(イ)西岡は、「文芸春秋」1992年4月号に掲載された「慰安婦問題とは何だったのか」と題する記事の中で本件記事A及び本件記事Bについて以下のような記述をした乙イ17乙イ36)

 「植村記者は韓国への留学経験もあり、韓国語に堪能な記者である。昨年六月にはその留学体験を記した本も出版している。そんな植村記者の書く金さんの体験は、悲惨の一言につきる。「地区の仕事をしている人」に騙されて、わずか十七歳で従軍慰安婦にされた―従軍慰安婦制度の残酷性を告発するのに、これ以上の体験はないと言えるだろう。ところがである。こうした植村記者の記事は実は重大な事実誤認を犯しているのだ。しかもそれはどう考えても間違えようのない類の誤認である。金さんが会見をした翌日、韓国各紙はこれを大きく扱った。すでにその記事の中で金さんの経歴について、韓国紙は「生活が苦しくなった母親によって十四歳のとき平壌にあるキーセンの検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れられていった所が、北中国の日本軍三百人余りがいる部隊の前だった」(『ハンギョレ新聞』九一年八月一五日)とはっきり書いているのである。もちろん、たとえキーセンとして売られていったとしても、金さんが日本軍の慰安婦として苦汁を舐めたことに変わりはない。しかし、女子挺身隊という名目で明らかに日本当局の強制力によって連行された場合と、金さんのケースのような人身売買による強制売春の場合では、日本軍ないし政府の関与の度合いが相当に違うことも確かだ。それはとりもなおさず、記事を読む人々に従軍慰安婦というものを印象づけるインパクトの違いとなる。まして「挺身隊」イコール「慰安婦」という俗説が通用している韓国のことを考えれば、金さんが挺身隊という名目で、日本の国家権力によって強制的に連れていかれたかどうかは、事実関係の上で最も重要なポイントの一つだろう。会見の四日も前に金さんの存在をスクープした植村記者が、そうした事実を果たしてほんとうに知らなかたのだろうか。まし、提訴後の弁護士同行取材の折にも、韓国語に堪能な植村記者はそうした韓国内の報道を知らずにいたのだろうか。それだけではない。高木弁護士たちが一二月六日に東京地裁に提出した訴状にも金さんは「十四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、十七歳(数え)の春、『そこへ行けば金儲けができる。』と説得され、(中略)養父に連れられて中国へ渡った」ことが、しつかり記されているのである。これでは、植村記者はある意図を持って、事実の一部を隠ぺいしようとしたと疑われても仕方がないと私は思う。まして最も熱心にこの問題に関するキャンペーンをはった朝日新聞の記者が、こうした誤りを犯すことは世論への影響から見ても許されない。」(乙イ17【160頁~162頁】。同旨のものとして乙イ36【44頁~47頁】)(中略)「さらに、筆者の取材によれば、この植村記者は、今回の個人補償請求裁判の原告側組織である「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在、梁順任・常任理事の義理の息子なのだ。植村記者は梁常任理事の娘の夫なのである。つまり、彼自身は今回訴えた韓国人犠牲者の遺族の一員とも言えるわけで、そうであればなおのこと、報道姿勢には細心の注意を払わなくてはならないと筆者は思う。」(乙イ17【164頁】。同旨のものとして乙イ36【48頁、49頁】)

 以後西岡は雑誌などを通じて本件記事及び本件記事に対する批判を続け平成10年頃からは「捏造」との表現を用いるようになった(98【128頁~135頁】)

(ウ)朝日新聞は、平成9年3月31日け朝集記事にいて慰安婦問題を取り上げ、その中で、「吉田清治氏は八三年に、『軍の命令により朝鮮・済州島で慰安婦狩りを行い女性二百五人を無理やり連行した』とする本を出版していた。慰安婦訴訟をきっかけに再び注目を集め、朝日新聞などいくつかのメディアに登場したが、まもなく、この証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田氏は『自分の体験をそのまま書いた』と話すが、『反論するつもりはない』として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる」との記事を掲載した乙イ1【2、19頁】)。

朝日新聞は、後述する平成26年8月の検証記事掲載までの間、吉田の供述に関する過去の朝日新聞の報道や本件記事Aについて、上記以上の説明をしたり、これを訂正し、取り消したりすることはなかった(乙1【219頁】弁論の全趣旨

(エ)朝日新聞は平成26年8月5日付けで朝日新聞の過去の慰安婦報道に関する検証記事(以下「本件検証記事」という。)を掲載した。本件検証記事には、吉田の供述について裏付けが得られず、虚偽であると判断したとして、吉田の供述を掲載した記事を取り消す旨の記載がされているほか、朝日新聞が慰安婦問題に関する記事を掲載する際、「女子挺身隊」の名で戦場に動員されたとの表現を用いたことについて、「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同が見られたことから、誤用しました。」との説明が記載されている。

本件検証記事は、「元朝日新聞記者の植村隆氏は、元慰安婦の証言を韓国メディアよりも早く報じました。これに対し、元慰安婦の裁判を支援する韓国人の義母との関係を利用して記事を作り、都合の悪い事実を意図的に隠したのではないかとの指摘があります。」として、本件記事Aを取り上げた。本件検証記事のうち本件記事Aに関する部分では金学順氏の供述の録音テープヘの取材は当時のソウル支局長からの連絡がきっかけであり、義母の訴訟を有利にする意図があったわけではないとの原告の説明が掲載されている。また、同部分では、「11日の記事で「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』などと記したことをめぐり、キーセンとして人身売買されたことを意図的に記事では触れず、挺身隊として国家によって強制連行されたかのように書いた―との批判がある。」とした上で、「慰安婦と挺身隊の混同については、前項でも触れたように、韓国でも当時慰安婦と挺身隊の混同がみられ、植村氏も誤用した」との説明記載されているほか、本件記事Aで金学順氏キーセン学校にいて語るのを聞いた、本件記事Bでキーくだりに触れなかったことについては、キーセンだからといって慰安婦にされて仕方がないというわけではないと考えたとの原告の説明が記載されている。

(以上につい、甲26、甲98【220頁イ1【34頁以下】)

(オ)朝日新聞社は、朝日新聞社第三者委員会(以下、単に「第三者委員会」いう。)、平成26年10月9てき慰安婦報道に関して調査及び提言を行うことを委嘱した(乙イ頁】)。第三者委員会は朝日新聞社に対し、同年1222日報告書(以下「本件検証報告書」という。乙)を提出した。本件検証報告書においては、本件記事及び本件記事に関し以下のような記述がされている。1【16頁~18頁】)

 「1991年8月11日付記事(略)については、担当記者の植村がその取材経緯に関して個人的な縁戚関係を利用して特権的に情報にアクセスしたなどの疑義も指摘されるところであるが、そのような事実は認められない。取材経緯に関して、植村は、当時のソウル支局長から紹介を受けて挺対協のテープにアクセスしたと言う。そのソウル支局長も接触のあった挺対協の手氏からの情報提供を受け、自身は当時ソウル支局が南北関係の取材で多忙であったことから、前年にも慰安婦探しで韓国を取材していた大阪社会部の植村からちょうど連絡があったため取材させるのが適当と考え情報を提供したと言う。これらの供述は、ソウル支局と大阪社会部(特に韓国留学経験者)とが連絡を取ることが常態であったことや植村の韓国における取材経歴等を考えるとなんら不自然ではない。また、植村が元慰安婦の実名を明かされないまま記事を書いた直後に、北海道新聞に単独インタビューに基づく実名記事が掲載されたことをみても、植村が前記記事を書くについて特に有利な立場にあったとは考えられない。しかし、植村は、記事で取り上げる女性は「だまされた」事例であることをテープ聴取により明確に認識していたにもかかわらず、同記事の前文に、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」と記載したことは、事実は本人が女子挺身隊の名で連行されたのでないのに、「女子挺身隊」と「連行」という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与えるもので、安易かつ不用意な記載であり、読者の誤解を招くものと言わざるを得ない。この点、当該記事の本文には、「十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」との記載があり、植村も、あくまでもだまされた事案との認識であり、単に戦場に連れて行かれたという意味で「連行」という言葉を用いたに過ぎず、強制連行されたと伝えるつもりはなかった旨説明している。しかし、前文は一読して記事の全体像を読者に強く印象づけるものであること、「だまされた」と記載してあるとはいえ、「女子挺身隊」の名で「連行」という強い表現を用いているため強制的な事案であるとのイメージを与えることからすると、安易かつ不用意な記載である。そもそも「だまされた」ことと「連行」とは、社会通念あるいは日常の用語法からすれば両立しない。なお、当該女性(金氏)の経歴(キーセン学校出身であること)に関しては、1991年8月15日付ハンギョレ新聞等は、金氏がいわゆるキーセン学校の出身であり、養父に中国まで連れて行かれたことについて報道していた。また、1991年12月25日付記事(略)が掲載されたのは、既に元慰安婦らによる日本政府を相手取った訴訟が提起されていた時期であり、その訴状には本人がキーセン学校に通っていたことが記載されていたことから、植村も上記記事作成時点までにこれを了知していた。キーセン学校に通っていたからといって、金氏が自ら進んで慰安婦になったとか、だまされて慰安婦にされても仕方がなかったとはいえないが、この記事が慰安婦となった経緯に触れていながら、キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。植村による「キーセン」イコール慰安婦ではないとする主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった。」

(力)朝日新聞は平成26年1223日本件記事Aが前文において「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり」との部分について、「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません。」として、上記前文中「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」の部分を誤りとして、おわびして訂正する旨の記事を掲載した(甲98【221頁】)。

 

 ケ 被告櫻井による本件各櫻井論文を執筆するに至る経緯等

(ア)被告櫻井は、昭和55年から平成8年3月までテレビ番組のニュースキャスターを務めたが、その頃から、朝日新聞が報じる慰安婦問題に関心を抱いて、南北朝鮮情勢問題等を研究していた佐藤勝巳及び同人が設立した現代コリア研究所(以下「現代コリア」という。)に参加した西岡との間で意見交換をしたり、同研究所が発行する雑誌を定期購読していた(乙イ39、乙イ41)

(イ)被告櫻井は、ニュースキャスターとして、原告の署名入りの記事である平成11日付けの本件記事本件遺族会の会員が提訴した平成年訴訟等の報道に接していたところ平成4年1月5日に発行された臼杵論文において、金学順氏が慰安婦になった経緯について「女子挺身隊の名で連行されて」慰安婦となったと述べていないことを知った。また被告櫻井は平成現代コリアが発行する雑誌乙イ32から乙イ34まで乙イ37)及び文藝春秋に掲載された慰安婦問題に関西文(乙イ35、乙イ36)、秦が済州島で実施した調査結果の報告及び秦の論(乙イ18、イ38)読ん、秦に会って同人の研究内容等を取材し、日本軍による慰安婦の強制連行があったとする吉田の供述及び本件記事Aに疑問を深め、平成9年頃、平成4年1月当時宮沢内閣の官房長官であった加藤紘一、慰安婦問題に関するいわゆる「河野談話」を発した河野洋平、官房副長官であった石原信雄、外務省関係者、韓国の元駐日大使らに取材をし、これまでの取材や西岡らとの意見交換を踏まえた結果を平成9年4月号の文藝春秋に掲載した。(乙イ15、乙イ18、乙イ32から乙イ39まで、被告櫻井本人【2頁~4頁、27頁】)

(ウ)被告櫻井は、安倍政権が慰安婦問題に関する「河野談話」を見直すのではないかとの情勢を受けて、朝日新聞等が報じる慰安婦の報道を見直すべきであると考え、平成24年4月以降、本件各櫻井論文を執筆した。その際、被告櫻井は、原告及び朝日新聞に対して取材を申し込むことをしなかった。被告櫻井は、本件各櫻井論文を執筆するに当たり、これまでの取材や臼杵論文、西岡及び秦の各論文等から得た情報や知見のほか、平成3年8月14日、金学順氏が共同記者会見で述べた内容を報じたハンギョレ新聞の翻訳(甲105、乙イ2、乙イ27)を読んでいた。なお、被告櫻井は、本件遺族会の会員が提訴した平成3年訴訟の訴状については、平成8年又は平成9年頃に読んだことはあるが、本件各櫻井論文で執筆した内容と齟齬があることを認めている。(前記前提事実()、甲105、乙イ2、乙イ27、乙イ39、被告櫻井本人【2頁、7頁、8頁、11頁~14頁、20頁~22頁、34頁】)

 

原告による反論

 原告は、本件記事A及び本件記事Bを巡る批判に対する反論等を記載した手記を「文藝春秋」に寄せ、同手記は平成26年12月上旬頃に公刊された「文藝春秋」平成27月号に掲載された。原告は当該手記を皮切りに本件記事及び本件記事に対する批判に対し積極的に反論をするようになった。(甲27、甲28、甲41、甲42、甲98、甲99、()弁論の全趣旨)


 

 

(判決引用おわり)