植村記事(1991年8月11日、朝日新聞大阪本社版社会面)
植村記事(1991年8月11日、朝日新聞大阪本社版社会面)
植村記事B(1991年12月25日、朝日新聞大阪本社版朝刊5面)
植村記事B(1991年12月25日、朝日新聞大阪本社版朝刊5面)

植村氏が書いた記事(植村記事A・B)

 

1991年8月、金学順さんが挺対協の聞き取りに語ったテープをもとに植村が書いた記事は、裁判では記事Aといわれる。金さんは同年12月に日本政府を訴える裁判に原告として加わった。その裁判の提訴前に弁護団の聞き取りに同席した植村が書いた記事は記事Bといわれる。植村が金学順さんについて書いた署名記事はこの2本だけである。櫻井と西岡はこの2本の記事を「捏造」と決めつけ、中傷攻撃を繰り返した。


 

記事A 1991年8月11日付 大阪本社版朝刊社会面

(見出し)思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀 重い口開く 韓国の団体聞き取り

【ソウル10日=植村隆】 日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。デープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。

尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。女性の話によると、中国東北部で生まれ,十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士二、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ケ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。

女性は、「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あのときのことを考えると腹が立って涙が止まらない」と訴えている。朝鮮人慰安婦は五万人とも八万人とも言われているが、実態は明らかでない。尹代表らはこの体験は彼女だけのものでなく、あの時代の韓国女性たちの痛みなのです」と話す。九月からは事務所内に、挺身隊犠牲者申告電話を設置する。

昨年十月には三十六の女性団体が、挺身隊問題に関して海部首相に公開書簡を出すなど、韓国内でも関心が高まり、十一月に「同協議会」が結成された。十日には、「韓国放送公社」(KBS)の討論番組でも、挺身隊問題が特集された。


 

記事B 1991年12月25日付 大阪本社版朝刊5面

(みだし)

手紙 女たちの太平洋戦争  かえらぬ青春 恨の半生

日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん ウソは許せない 私が生き証人 関与の事実を認めて謝罪を

 

韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の元朝鮮人従軍慰安婦、元軍人・軍属やその遺族三十五人が今月六日、日本政府を相手に、戦後補償を求める裁判を東京地裁に起こした。慰安婦だった原告は三人。うち二人は匿名だが、金学順氏(キム・ハクスン)さん(六七)=ソウル在住=だけは実名を出し、来日した。元慰安婦が裁判を起こしたのは初めてのことだ。裁判の準備のため、弁護団と「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(ハッキリ会)は4度にわたり韓国を訪問した。弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨(ハン)の半生を語るその証言テープを再現する。 (社会部・植村隆)

 

17歳の春

私は「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と二人、誘いに乗りました。十七歳(数え)の春(一九三九年)でした」満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです。私が生後百日位の時、父が死に、その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)四年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」

「平壌駅から軍人たちと一緒の列車に乗せられ、三日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました」

「翌朝、馬の声に気づきました。隣には三人の朝鮮人の女性がいました。その人たちから『おまえたちは、本当にばかなことをした。こんなところに来て』と言われました。逃げなければならないと思ったのですが、周りは軍人でいっぱいでした。友人と別にされ、将校に『言う通りにしろ』と言われました」

「将校は私を暗い部屋に連れて行って、『服を脱げ』と言いました。恐ろしくて、従うしかありませんでした。そのときのことはしゃべることさえ出来ません。夜明け前、目が覚めると将校が横で寝ていました。殺したかった。でも、出来ませんでした。私が連れて行かれた所は、『北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』というところだということが後で分かりました」

赤塀の家

「この慰安所は赤い塀の家でした。近くには民間人はいません。軍と私たちだけでした。五人の女性がおりました。二十二歳で最年長のシズエは将校だけを相手にしていました。サダコ、ミヤコ、それに友人のエミコ。私はアイコと呼ばれていました。近くの部隊は三百人くらいでした。その部隊について、移動するのです」

「軍人たちは、サックをもってきました。朝八時を過ぎたら、やって来て、夜は将校が泊まることもありました。休む暇はありません。長い人でも三十分以内でした。でないと外から声がするのです。多いときは二十人以上相手することもありました。しかし、戦闘の時は、静かでした。『ダ、ダ、ダ』という銃撃の音が聞こえるときもありました。お金などはもらったこともありません」

「食べ物は軍人たちがもって来ました。米やミソ、おかずなど。台所があり、自分たちで作って食べました」

「テッペキチンにはーカ月半いて、また別のところに移動しましたが、名前は覚えていません。そうこうするうちに、肺病になりました」

「ずっと逃げたいと思っていました。そんなある夜、私の部屋に、男の人が忍びこんできました。びっくりしましたが、その人は『私も朝鮮人で寝るところがなくて来た』と言いました。両替商をしているという、その人に助けてくれるように頼み、一緒に逃げました。他の人まで連れて行くような余裕はありませんでした。その年の秋のことでした」

解放の後

「南京、蘇州などを経て、上海へ行き、その人と夫婦になりました。質屋をやり、娘と息子が生まれました。一九四六年の夏に、船で仁川へ戻り、ソウルの難民収容所に入りました。そこで娘が死にました。そのあと、ソウルで部屋を借り、私はノリ売りの商売を始め、夫は掃除夫になりました」

「夫は酒を飲むと、『お前が慰安所にいたのを助けてやったではないか』と言って、私を苦しめました。その夫も、朝鮮戦争の動乱の中で死に、息子を育てながら行商しながら生活していました。しかし、その息子も小学校四年の時に水死しました」

「生きていこうという気持ちもなくなりました。死ぬことしか考えませんでした。全羅道、慶尚道、済吋道など全国を転々としました。酒やたばこをやり、人生を放棄したような生活を続けていました。十年ぐらい前に、これじゃだめだと思い始めました。ソウルに来ました。家政婦をやったお金で、小さな部屋を借りています。私の不幸は慰安所に足を踏み入れてから、始まったのです。この恨みをどこにぶつけようか。だれにも言えず苦しんでいました。今は月に米十キロと三万ウォン(約五千二百円)の生活保護を貰っています」

募る怒り

「いくらお金をもらっても、捨てられてしまったこのからだ、取り返しがつきません。日本政府は歴史的な事実を認めて、謝罪すべきです。若い人がこの問題をわかるようにして欲しい。たくさんの犠牲者がでています、碑を建ててもらいたい。二度とこんなことは繰り返して欲しくない」

「日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言しているじゃないですか」

           

これまで韓国に戻った元慰安婦たちは、沈黙を続けてきた。ところが、昨年六月、日本政府は強制連行に関する国会で「従軍慰安婦は民間業者が連れ歩いた」など軍や政府の関与を否定する答弁をし、その後も「資料がない」などとくり返してきた。こうしたニユースを聞いた金学順さんは、「自分が生き証人だ」と今年夏に、はじめて名乗り出た。原告三人の外にも最近、体験を公表する女性が出て来た。

一方、ハッキリ会(03・5466・0692 東京都渋谷区渋谷2の5の9パル青山301)も慰安婦に関する情報を集めるなど調査を続けている。