2019年3月20日(日比谷図書文化館)
2019年3月20日(日比谷図書文化館)
中島岳志氏と青木理氏
中島岳志氏と青木理氏

 

集会・講演・支援 対談 青木理氏・中島岳志氏

 

2019年3月20日に東京・日比谷図書文化館で開かれた東京訴訟報告集会で、ジャーンリスト青木理氏と東京工業大学教授・中島岳志氏が対談した。両氏は、植村バッシングとの関わりを振り返ったあと、①植村氏が書いた記事と吉田清治証言記事の社会的影響、②植村氏と朝日新聞だけが標的にされた理由、③日本社会のバックラッシュ(反動、逆流)と自民党政治との関係、④植村裁判が問うことの意味、について意見を交わした。以下は主な発言の要約。

青木、中島両氏とも、植村バッシングとそれに続く植村裁判には、早い時期からかかわってきた。青木氏は2014年12月に、植村氏と朝日新聞関係者へのロングインタビューをもとにした『抵抗の拠点から――朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(講談社)を出版した。中島氏は北海道大に勤務していた当時、植村氏と北星学園大への脅迫や攻撃を間近にし、植村氏と北星を守る運動の先頭で積極的に発言してきた。戦中戦後の論壇と社会の動向を主な研究テーマとし、昨年8月には『保守と大東亜戦争』(集英社新書)を出版した。

 

対談 青木理 中島岳志 「植村裁判」をめぐる日本社会の底流」

 

植村記事と吉田証言の社会的影響

青木 植村さんの記事は飛び跳ねた記事ではない。各社同じように、産経にも読売にも出ている。当時植村さんがいた大阪は私の初任地だった。大阪の空気はよくわかっている。それが23、4年たって、あたかもとんでもない遺物のように扱われるようになってしまった。時代の風潮がものすごい勢いで逆回りしている中で、たまたまとばっちりを受ける立場に植村さんが立たされたのではないか。メディア対権力という議論もあるが、植村さんはとばっちり、それだけのこと。支援している人がいることに敬意を持ちつつ、時代状況がおかしくなっていることの象徴だととらえている。

中島 慰安婦報道で大きな影響を与えたという意味では、北海道新聞の2つの記事の方が大きい。金学順さんを初めて実名で独占インタビューした喜多義憲特派員の記事(1991年8月15日付)と、吉田清治証言を報じた記事(同年11月22日付)だ。とくに吉田証言の記事には、「アフリカの黒人奴隷のように朝鮮人を狩り出した」という個所があり、これが韓国メディアに大きく取り上げられた。朝日新聞の吉田証言記事が国際社会に影響を与えたと右派は言うが、実証主義的にはそうはいえない。吉田証言は偽証だった、というところから飛躍と拡大で慰安婦問題はなかったという議論が横行するようになった。

植村氏と朝日新聞だけが標的にされた理由

青木 朝日新聞の慰安婦報道で唯一問題があったのは、吉田証言記事だ。吉田証言は虚偽ではあったが、裏付けをきちんととらなかった。ただ、「首相や官房長官が『辺野古に赤土は入れていない』と語った」と書いても、(事実は虚偽でも)誤報ではないように、吉田清治が言っていることを書いたのだから誤報ではない、という見方もある。朝日新聞が批判されるべきは、歴史修正主義勢力に対して意固地になって、訂正、軌道修正が遅れたことだ。朝日は自分たちの新聞が一番なのだという意識が強い。だから、象徴としてたたかれるというふうになった。

中島 植村さんの記事が世論をリードしたとは言えない。吉田証言の記事を植村さんは1本も書いていない。朝日新聞が火をつけたわけでもない。二重の意味で関係がないのに、朝日新聞をたたくという政治運動があって、朝日が標的とされた。植村さんは朝日の記者だから、朝日をバッシングすることで象徴的な何かを獲得しようとし、標的にされた。

90年以降のバックラッシュと自民党政治

中島 重要なポイントは1980年代にある。それまでの保守派論客は青春期に体験した戦争がいやでしょうがなかった、すべて戦争に反対していた。そのような戦中派保守が退場し、世代交代すると、戦後教育の中で歴史を学んだ反発として、戦争には意義があったと言い始めた。幼少期の戦争体験がかなり違っていて、大東亜戦争は植民地の解放戦争という考えを押し出すようになった。80年代のそういう動きの中で育ってきたものが90年代に開花した。その先端にいるのが、いまの首相、安倍晋三氏だ。

青木 80年代から90年代にかけてバックラッシュは起きていたが、2002年の小泉訪朝時の日朝首脳会談でそれが公然化した。戦争責任を問われる「加害者」だった日本が、拉致問題が契機となって、戦後初めて「被害者」の立場になり、鬱積していたものが出てきて、いまの首相の地位を上げていった。

中島 3年前の総選挙の時、吉祥寺での街頭演説でヤジを浴びた安倍氏は、「私は小さい時にお母さんに人の話はよく聞きなさいと言われましたよ」と反論していたという。お母さんの話を持ち出す政治家はあまりいない。安部氏はそういう幼児期の体験が土台となって大きなマグマの中に入っていたということだろう。

青木 安倍氏が初当選して衆院議員になった1993年7月の総選挙で自民党は負けて、自民党は下野した。だから安部氏は野党議員としてスタートした。彼は神戸製鋼の社員時代は上司に忠実に従う子犬のような存在だったが、オオカミの仲間の中で右派のプリンスとして育てられ、オオカミになった。

植村裁判が問うこと

青木 誤報をしたことのない新聞記者などいない。もしいたとしたら、よほどのウソつきか、まったく仕事をしなかったかだろう。そういうときにどうふるまうべきか、メディアはどうあるべきか、こういう時代だからこそ、後の歴史家にあの時何をしていたの、と笑われないようにがんばらなければならない。

中島 植村裁判は時代の大きなマグマの典型だ。私たちは後の歴史家から検証される舞台に立たされている。この流れを許してしまっていいのか。私たちの子や孫に、あの時どうしていたのか、何と言ったのか、と問われる時が必ず来ると思う。