誤りだらけの「捏造」決めつけ■西岡言説の誤り

崩れた「捏造」決めつけの根拠 

 

西岡氏が植村氏の記事を「捏造」と決めつけた3つの根拠について、植村氏側は口頭弁論で逐一反論し、3つの根拠に正当な合理性がないことを論証した。「捏造」決めつけの根拠は崩れた。しかし、裁判所の結論はちがったものになった。

西岡氏側は東京訴訟の第1回口頭弁論に提出した「答弁書」(2015年4月27日付)で以下のように主張した。(被告は西岡氏、原告は植村氏を指す)

 

 被告らが、原告の上記各記事につき、「捏造」であると論評する論拠は、主として、以下の3点である。

  1 原告が初めて名乗り出た元慰安婦(金学順)の述べていない経歴を付加したこと

 原告は、1991年8月11日付け新聞記事において、以下のとおり、記述している。

「日中戦争や第二次世界大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、(以下略)」

しかし、金学順自身は、その後の記者会見や講演、日本政府を相手に提起した裁判の訴状においても、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され[]」とは一切述べていない。

このように、1991年8月11日付け新聞記事において、原告は、本人が述べていない「『女子挺身隊』の名で連行され[]」との経歴を付加して、あたかもこれが事実であるかのように報じた。

2 原告が金学順自ら述べた経歴を適切に報じなかったこと

金学順は、1991年8月14日にソウルで行った記者会見で貧困のため母親にキーセンとして売られた自身の経歴について語り、同記者会見の内容について、『ハンギョレ新聞』は、同月15日、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった。3年間の検番生活を終えた金さんが始めての就職だと思って、検番の義父に連れられていった所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」(下線被告ら代理人)と報じている。

しかし、原告は、(中略)金学順が貧困のため母親にキーセンの検番に 売られた事実、並びに金学順が騙されて慰安婦にされたと主張するその騙した主体及び金学順が中国南部の慰安所に連れて行かれたと主張するその連れて行った主体(検番の義父・養父であるという事実)を報じていない。

このように、原告は、金学順の経歴について、「『女子挺身隊』の名で連行され<>」と、本人の述べていない経歴を付加するにとどまらず、本人が述べた「従軍慰安婦にされた重要な経緯や経歴に関する事実」を報じなかった。

 以上のとおり、原告は、金学順が自ら述べた「貧困のため母親にキーセンの検番に売られ、検番の義父・養父に連れられて中国にわたったという経歴」について報じずに、同人が述べていない「『女子挺身隊』の名で連行され<>」という経歴を付加して報じることで、これらの新聞記事を読んだ読者に対して、日本軍による強制連行の事実があったと誤解させる記事を報じている。

 したがって、被告らが、これらの事実を前提として、本件各新聞記事が「捏造」であると論評することはなんら問題がない。

  3 原告が本件各記事に関して利害関係を有していたこと

 また、これにとどまらず、原告は、本件各記事を執筆するにあたり、日本軍による強制連行の事実があったと誤解させる記事を報じることに利害関係を有していたという事実も存在する。

 原告の義母である梁順任氏は、家族が徴兵や徴用などで戦争に動員され亡くなった遺族などの被害当事者の団体である太平洋戦争犠牲者遺族会の幹部であり、同遺族会は、日本政府を相手に戦後補償を求める裁判を提起しているのである。

すなわち、日本軍による強制連行との事実が報じられれば、原告の義母が幹部を務める太平洋戦争犠牲者遺族会の裁判が有利に働くことが予測されるのであり、このような客観的な状況を鑑みると、原告には、日本軍による強制連行の事実があったと誤解させる記事を報じる動機が存在した。

=2015年4月27日付、被告「答弁書」6~9ページより

 

 

これに対し原告側は、被告側の主張には誤りがあるとして、以下の点を指摘した。

まず元慰安婦(金学順氏)の述べていない経歴を付加したこと、について。

第12回の口頭弁論で植村弁護団の吉村功志弁護士は、「女子挺身隊の名で連行され、慰安婦にされた」という記述をめぐり、金学順さんが1991年8月14日に名乗り出た際の記者会見を取り上げ、同日の韓国KBSテレビのニュース映像をもとに、金さんが「16歳をちょっと過ぎたくらいのを引っ張って行って。強制的に」「逃げ出したら、捕まって、離してくれないんです」と語っていたことを指摘。

また、この記者会見に実際に出席した韓国人記者が述べた「金学順さんは会見で自己の経歴を示す言葉として『挺身隊』という言葉を使用しました」との証言を紹介。同じ日に金さんに単独インタビューした日本人記者も、金さんがインタビューの冒頭に「私が挺身隊であったことを」と語っていたとする陳述書にも言及。以下のように結論づけた。

(1)今回3人の記者の陳述書から、当時、金学順さんが自分自身のことを指して、従軍慰安婦という意味で「挺身隊」であったと述べていたことが明らかになりました。

(2)またKBSニュース映像及び同反訳書により、金学順さん自身が、当時、強制連行されたとの事実を述べていたことも明らかになりました。

(3)そうすると1991年8月の本件記事Aで原告が書いた「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」との記述は、金学順さん自身が述べた経歴を記事の前文として簡潔にまとめた記述ということになります。

以上の証拠から、原告が金学順さんの述べていない経歴を付加したこと、との被告らの抗弁は成り立たないことが明白となるわけです。

=2018年4月25日、吉村功志「意見陳述要旨」4ページ 

 

つぎに、金学順氏が自ら述べた経歴を適切に報じなかったこと、について。

被告・西岡氏は、原告・植村氏が記事で「金学順氏がキーセンの検番に売られた事実」や「金学順氏が義父・養父に慰安所に連れて行かれた事実」を報じていないと述べたうえで、植村氏が「慰安婦にされた重要な経緯や経歴に関する事実を報じなかった」と主張。植村氏の記事を「捏造」とした根拠のひとつにあげた。

これに対し原告は以下のように反論する。

 

1991年当時、原告記事以外の日韓の報道各社の記事も、この経歴については触れていないことからして、「金学順が14歳のときにキーセンの検番に身売りされキーセン学校に行っていた」という経歴が重要なものであると一般的に認識されていなかったことは明らかであり、したがって、原告も当該経歴を記事に書くことが重要なものとは認識していなかった。

キーセンだからといって慰安婦になるわけではなく、キーセン学校にいたことと慰安婦になったこととの間には関連性が認められないのであるから、キーセン学校の経歴が重要なものと認識されていなかったことには合理性がある。 =2018年11月22日付「原告最終準備書面」55、56ページ

 

さらに、植村氏が記事に関して利害関係を有していたこと、については、裁判前から朝日新聞社が強く否定している。

朝日新聞は、2014年8月5日検証記事「慰安婦問題を考える」の中で、植村氏が最初のスクープを書いた1991年8月当時、金学順さんが名乗り出て証言した先の団体が「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)であり、植村氏の義母の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)とは別の組織であると指摘したうえで、植村氏による説明を紹介した。

植村氏は「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母からの情報提供はなかった」と話す。元慰安婦はその後、裁判の原告となるため梁氏が幹部を務める遺族会のメンバーとなったが、植村氏は「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明する。

朝日新聞の第三者委員会報告書も「義母を利する目的」や「捏造」説を否定し、以下のように述べている。

 

1991年8月11日付記事については、担当記者の植村がその取材経緯に関して個人的な縁戚関係を利用して特権的に情報にアクセスしたなどの疑義も指摘されるところであるが、そのような事実は認められない。取材経緯に関して、植村は、当時のソウル支局長から紹介を受けて挺対協のテープにアクセスしたと言う。そのソウル支局長も接触のあった挺対協の尹氏からの情報提供を受け、自身は当時ソウル支局が南北関係の取材で多忙であったことから、前年にも慰安婦探しで韓国を取材していた大阪社会部の植村からちょうど連絡があったため、取材させるのが適当と考え情報を提供したと言う。これらの供述は、ソウル支局と大阪社会部(特に韓国留学経験者)とが連絡を取ることが常態であったことや植村の韓国における取材経歴等を考えるとなんら不自然ではない。また、植村が元慰安婦の実名を明かされないまま記事を書いた直後に、北海道新聞に単独インタビューに基づく実名記事が掲載されたことをみても、植村が前記記事を書くについて特に有利な立場にあつたとは考えられない。=2014年12月22日「朝日新聞社第三者委員会被告書」17ページ

 植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない。 =同上42ページ 

 なお、については、西岡氏は2007年、月刊「WiLL」5月号でこのようにも書いていた。

 

最初の朝日新聞のスクープは、金学順さんが韓国で記者会見する3日前です。なぜ、こんなことができたかというと、植村記者は金学順さんも加わっている訴訟の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在である梁順任常任理事の娘の夫なのです。つまり、原告のリーダーが義理の母であったために、金学順さんの単独インタビューがとれたというカラクリです。 

 

植村氏は裁判が始まる前の2014年12月、月刊「文藝春秋」に発表した手記の中で、西岡氏の誤りを指摘した。西岡氏は、月刊「正論」の2015年2月号と3月号で、下記のように言及したうえで、「訂正した」と主張した。

 

確かに私は、植村氏が説明をしない前には、金氏に関する情報提供も梁氏が行ったのではないかと考え、そのように書いて来た。しかし、それは推量であって批判ではない。私か批判しているのは、利害関係者が捏造記事を書いてよいのかというジャーナリズムの倫理だ。=「正論」2015年2月号72ページ

私が義理の母からの情報提供で記事を書いたのではないかと書いてきたのは、当時の状況をもとにした推測だった。先に書いたように植村氏は私の批判に対して22年間反論しなかった。その結果、私は推測にもとづく主張を繰り返してきた。当時のいきさつを最もよく知っているソウル支局長が植村氏の主張を裏付ける証言をしているのだとすれば、義理の母から情報をもらったという私の推測は誤りであったのだろう。その点前月号の拙論で訂正したところだ。=同3月号198~9ページ

 

①②③のすべてで、西岡氏らの「捏造」言説に根拠がないことを原告側は論証した。しかし、裁判所はそうした証拠に向き合わず、結論ありきの判決を書いた、と言わざるを得ない。