捏造ではない――その根拠 喜多義憲氏証言 

 

「植村隆氏は捏造記者ではない」。同時期にほぼ同内容の記事を書いた北海道新聞ソウル特派員は語る

 

札幌訴訟で重要な証拠の1つは、元北海道新聞記者喜多義憲氏の陳述書と証言である。

喜多氏は植村氏が記事Aを書いた1991年当時、ソウル特派員としてソウルに駐在し、植村氏と同じように慰安婦問題を取材していた。植村氏の記事が掲載された8月11日の3日後、喜多氏は金学順さんに単独インタビューを行い、次の記事を書いた。

 

◆1991年8月15日、北海道新聞(朝刊社会面トップ記事)

戦前、女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌辱されたソウルに住む韓国人女性が14日、韓国挺身隊問題対策協議会(本部・ソウル市中区、尹貞玉共同代表)に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた。(中略)この女性は「女子挺身隊問題に日本が国として責任を取ろうとしないので恥ずかしさを忍んで」とし、日本政府相手に損害賠償訴訟も辞さない決意を明らかにした。」(中略)「この女性はソウル市鍾路区中信洞、金学順さん(67)=中国吉林省生まれ=。学順さんの説明によると、16歳だった1940年、中国中部の鉄壁鎮というところにあった日本軍部隊の慰安所に他の韓国人女性3人と一緒に強制的に収容された。「養父と、もう1人の養女と3人が部隊に呼ばれ、土下座して許しを請う父だけが追い返され、何がなんだか分からないまま慰安婦の生活が始まった。」(学順さん)。

 

この記事の記事の内容は、植村氏が書いた記事Aとほぼ一致する。

喜多氏は第10回口頭弁論(2018年2月16日)に証人として出廷し、証言をした。札幌訴訟ではただひとりの証人である。主尋問は植村弁護団の秀嶋ゆかり、伊藤絢子弁護士によって行われた。秀嶋弁護士は単独インタビュー実現のいきさつと内容を、伊藤弁護士は植村氏の記事の評価を中心に質問した。喜多氏は、「ほとんど同じ時期に同じような記事を書き、植村さんは捏造と非難され、一方は不問に付される。これは死刑判決であり、私刑であり、言いがかりだ」と語った。

以下は、伊藤絢子弁護士とのやりとりの一部である。 尋問調書全文はこちら PDF

 

◆喜多義憲氏の証人尋問  

   伊藤--- 証人が記事に女子挺身隊の美名の下にという表現を使われたのはなぜでしたか。

喜多--- ひとつは金学順さんの取材した中、インタビューしたことから、いわゆる女子挺身隊、従軍慰安婦だったという、彼女も名乗ったわけですから、そういう状態であったと。それから、女子挺身隊というのは、日本では通常は勤労女子挺身隊を示すわけで、それはやはりお国のために一生懸命尽くすという意味なんですけども、名前はたいへん美しいんですけども、その当時に置かれた女性たちは、その名前とは裏腹な状態であったということですから、名前は美名であっても、実態は従軍慰安婦だというふうに考えれば、そういう美名の下にという表現が、地の文、記者の地の文として、やっぱり出てくるというふうに思いましたし、そういう流れで多分書いたというふうに思います。

伊藤--- 被告らは、挺身隊の名でという表現や、挺身隊を慰安婦を意味する言葉として用いることは、単なる間違いではなくて意図的な虚偽報道、捏造である、と主張しています。証人も植村さんの記事とほぼ同じ時期に挺身隊の美名でと書かれています。被告らの主張についてどのように認識していますか。

喜多--- まず、捏造であるとか虚偽であるということそのものが理解を超えた、まあ、言葉は悪いんですけれども、日本語で言うとちょっと語弊があるので、リディキュラスというんですか、言いがかりというのかな、そういうふうに感じました。

伊藤--- 被告らは、金さんが女子挺身隊として慰安所に連行された事実はないと主張をしています。証人は金さんのインタビューで、慰安婦の強制性について金さんからどのようにお聞きになりましたか。

喜多--- それは、8月14日の記事に書きましたように、養父ともうひとりの女性と3人で慰安所に呼ばれて、そこから養父だけが土下座して謝っても許してもらえなくて、そのまま2人の女性は留め置かれたと、そして死ぬほどの苦しい毎日が始まったという一連の流れ、もっとほかにも聞いたかと思うんですけれども、少なくともその記事でありますように、連れていかれる移動から収容されている時期、そしてなんとか脱出するという一連の流れを考えますと、いわゆる強制性は十分にあったというふうに感じて、その記事になりました。

=喜多義憲氏調書8~10ページ

 

喜多氏は証人尋問に先立って、札幌地裁に陳述書を提出している(2017年10月31日付)。喜多氏はその中で、取材の経過と当時の韓国社会の状況を述べたうえで、「挺身隊」との記述が当時は一般的であり、植村隆氏は捏造記者ではない、と断言している。以下にその全文を収録する。 PDF 


 

◆喜多義憲氏の陳述書 

1 はじめに

私は元北海道新聞記者です。1987年11月から1988年3月まで北海道新聞ソウル短期特派員、同月のソウル支局開設から1992年2月末まで初のソウル支局駐在記者を務めました。

199114日には元従軍慰安婦、金学順氏キム・ハクスン、以下「金氏」といいます。を単独インタビューし、翌15日の北海道新聞朝刊社会面で金氏の実名、肖像写真付きで記事を掲載しました。当時、元従軍慰安婦が韓国内に生存していることは知られていましたが、元慰安婦自らがマスメディアに実名で登場した例はありませんでした。

私の取材に至る経緯や金氏のインタビューの様子、当時の従軍慰安婦の呼称等について次の通り陳述します。

 

2 従軍慰安婦に関心を持ち始める

(1)1987年秋の韓国大統領選挙を経て、翌1988月、軍事独裁政権と決別した民主政権として慮泰愚政権が発足しました。同年10月のソウル五輪が終わると、それまであまり紙面化されていなかった日韓の戦後処理問題に絡むニュースが登場し、「チョンシンデ」(挺身隊)というキーワードが出るようになりました。

そのひとつとして、「チョンシンデ問題が浮上している」といった2段見出しの記事が韓国の新聞に掲載されました。確か、ソウル五輪直後の1988年秋か冬の掲載で、内容は、韓国挺身隊問題対策協議会の活動に関するものだったと記憶しています。戦時、中国に駐屯していた日本軍の部隊に慰安所があり、そこに朝鮮人慰安婦がいたことを私が知ったのは、その記事がきっかけでした。以後、この問題が国内のマスコミにどのように扱われるか、関心を持つようになりました。

(2)朝鮮半島における戦後処理問題は私にとって、ソウル在任中の取材テーマの柱のひとつでした。

1980年代、北海道新聞は、未解決の日韓戦後処理問題のひとつとして、サハリン残留韓国・朝鮮人問題を粘り強く取材、報道していました。具体例として、韓国とソ連(当時)間に国交がなかった1989月、日本の五十嵐広三議員当時社会党を団長とするサハリン訪問団に、当時ソウル駐在記者だった私が同行しました。

週間のサハリン滞在中、ユジノサハリンスクなど各地で、残留韓国人らを取材しました。訪問団に同行してサハリン残留韓国人を父にもつ韓国側の家族人が初めてサハリンの地に足を下ろしました。私は、離散家族の涙の再会劇を日本に向けて打電し、北海道新聞に速報した経緯があります。

私は、ソウル在任中、日韓間には未解決のままの戦後処理問題が多く存在するという問題意識を常に持ち続けていました。

私が「従軍慰安婦」問題に関心を持ち始めたころ、韓国では従軍慰安婦の存在は「公然の秘密」、つまり、戦前世代の韓国人は知っているが、口には出さないという雰囲気でした。全斗換政権時には、韓国内の新聞は韓国の恥部を書きにくい状況だったようですが、民主政権下では、上記のとおり「挺身隊」という言葉を用いて活動している団体の記事が出されるなど、元「従軍慰安婦」に対する調査や支援を始めたことが明らかにされたのです。1988年に上記の東亜日報の記事を読んだ際、 私は、当時の北海道新聞ソウル支局の助手であった朴容珪(パクヨンギュ)氏に「チョンシンデ」の漢字を確認し、「挺身隊」と教えてもらった記憶があります。このとき朴氏は、「挺身隊と呼ばれた女性達がいたと聞いている」と口ごもりながら教えてくれました。

 

3 韓国挺身隊問題協議会を訪ねる

(1)1991年は、真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦から満50年の年でした。北海道新聞社は15日の終戦記念日を挟んで、開戦50年の連載記事を掲載することになりました。

同年月頃、本社から「ソウルから連載1回分の記事を出せるか」との問いかけがあったため、私は、「従軍慰安婦問題」を提案し、直ちに取材を開始しました。月になり、韓国挺身隊問題対策協議会の尹貞玉・共同代表(元梨花女子大教授、以下「尹氏」といいます。)をソウル市内の事務所に訪ねました。そこで、尹氏から、同年7月に「元女子挺身隊」を名乗る女性が同協議会に名乗り出ており、事情を聴いていることを聞きました。

そこで、私は、尹氏に対し、「何とかその女性に直接会わせてほしい」と要請しました。尹氏との長い話し合いの末、「今は直接会わせるわけにはいかないが、もし本人が承諾すれば、インタビューを斡旋する」と約束してくれました。

このとき、私は、「実名報道はたぶん難しいだろう」と思っていました。韓国で取材を始めて約4年近く経っていましたが、儒教思想が根深い同国では一般女性への純潔を求める社会意識は日本を遥かに凌ぐことを知っており、自らが慰安婦だったことを公表するのは不可能に近いことと認識していたからです。匿名でもよいから直接インタビューしたい、という淡い期待があるのみでした。

ところが、事態は期待以上に急転しました。

(2)同年13日の夕刻だったか、14日午前だったかの記憶は定かではありませんが、尹氏から北海道新聞ソウル支局に「元慰安婦のその女性が北海道新聞の単独インタビューに応じる、と言っている」との連絡がありました。しかも実名の公表、新聞への肖像写真掲載も構わないとのことでした。私は、尹氏に対し「単独インタビューですよね」と念を押しました。

電話を切った後、ほどなく尹氏から再び電話があり、「明日、北海道新聞のインタビューのあと、韓国日報がインタビューすることになる」というのです。

内信(韓国内のメディアをいいます。これに対し、外国のメディアは外信と呼ばれました。)では韓国日報の特ダネになると思いましたが、のちに内信各社の共同会見になったことを知ることになります。

 

4 金学順氏との約2時間インタビュー

(1)金氏とのインタビューは、1991年8月14日午後2時頃から始まったと思いますが、正確な時間の記憶はありません。場所は徳寿宮裏の韓国教会女性連合会事務局の会議室でした。

最初に、尹氏が金氏を紹介してくれ、しばらくインタビューに同席していましたが、尹氏は途中で退席しました。

大半はテーブルを挟んで片側に金氏、もう片側に私と北海道新聞ソウル支局助手の孫聖愛ソン・ソンエ女性、当時28歳、以下「孫さん」といいます。人が対座しました。私が日本語で質問し、孫さんが質問を韓国語に通訳していました。そして、金氏が話した内容を孫さんが日本語に通訳しました。私は、インタビューを始めから終わりまでカセットテープに録音し、メモも取っていました。残念ながらその時のメモや録音テープは現在残っていません。

ちなみに、私の韓国語能力についてですが、ソウル赴任前は放送が始まったばかりのNHKラジオ講座でほぼ独学、赴任後の韓国語漬け生活で通常の取材や日常会話は不自由なくできるようになっていましたが、長時間かつ微妙なニュアンスが問われる記者会見や単独会見では必ず孫さんを伴っていました。

(2)その日の金氏の服装は白いスカートに、上は黄色のTシャツの上に半袖のジャケットでした。

私は質問に先立ち、このようなことを話したと記憶しています。

「あなたが昔、体験なさったことをお聞きする前に、加害国である日本の国民として、また、辛い体験をさせた者たちを親の世代にもっ個の人間としてまず心から深くお詫びしたい。」

私の言葉が終わるのを待って、金氏は目を伏せながら静かに話し始めました。

「私が挺身隊であったことをウリナラ(我が国)ではなく日本の「言論」(韓国では報道機関のことを「言論」という)に最初に話すことになるとは思いもしなかった。」

その言葉を私は今も忘れないし、忘れられません。私は、返す言葉がありませんでした。

私が、金氏になぜ名乗り出る決心をしたのですかと聞くと、金氏は、「夫も、2人の子どもも既に亡くなり、天涯孤独の身なので、恥ずかしくとも死ぬ前にぜひ話しておかなければならないと思ったが、『日本』や『日の丸』という言葉を聞くだけで今も胸がつぶれる」と話していました。

私は、韓国人がよく「アイゴー」と言いながら床やテーブルを叩いて号泣する姿を見てきました。しかし、この時の金氏は、2時間のインタビューの間、総じて淡々と静かに話していました。時々涙ぐむこともありました。私は、そのような金氏の態度から「腹を割って告白している」と感じました。

容は1991年8月15(水)北海道新聞朝刊社会面トップ記事()、同18日(土)朝1連載記事「開戦から50年」(資料)の通りです。

資料の一部を再度引用します。

 

「戦前、女子挺(てい)身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌りょう辱されたソウルに住む韓国人女性が14日、韓国挺身隊問題対策協議会(本部・ソウル市中区、尹貞玉・共同代表)に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた。・・・この女性は『女子挺身隊問題に日本が国として責任を取ろうとしないので恥ずかしさを忍んで・・・』とし、日本政府を相手に損害賠償訴訟も辞さない決意を明らかにした。」

 

5 当時の植村記者に対する認識

(1)朝日新聞が熱心に従軍慰安婦問題に取り組んでいるようだとは認識していたものの、当時、私自身植村記者の新聞記事ABを読んでもおらず、植村記者と面識もありませんでした。

私が金氏にインタビューする少し前、朝日新聞の記者が尹貞玉氏接触しているらしいことは尹氏から聞いていましたが、その名前を聞いた記憶はありません。また、金氏がカミングアウトを決心する前、尹氏が聴き取りをしたテープを植村氏が聞いて記事化したことも知ませんでし植村氏とは2000年代になって彼が札幌勤務になったときに初めて名乗り合いました。

(2)当時、従軍慰安婦問題を報じたのは朝日新聞ばかりではありませんでした。同じ頃、毎日新聞や他紙もほぼ同じような報道をしていました。

 

6 「挺身隊=従軍慰安婦」としたのは誤用か

(1)私は、資料の記事の冒頭、「戦前、女子挺てい)身隊の美名のもとに、従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵に凌(りょう)辱されたソウルに住む韓国人女性」と金学順さんを紹介しました。

「女子挺身隊の美名のもとに」や、「挺身隊の名で」と書いたのは、当時の韓国で用いられていた言葉を私なりに記載したものです。

私は、日本国内において「女子勤労挺身隊」は戦時下、軍需工場などに動員された若い女性であったことは、幼少の頃から知っています。なぜなら、私の実母(現在93歳)が、昭和19(1944年)当時、大阪市東成区深江の工場に女子勤労挺身隊として動員されていた際、のちの夫(つまり私の父=故人)と知り合ったことを子どもの頃から何度も聞かされていたからです。

(2)先にも述べましたが、1988年当時、韓国の新聞で、従軍慰安婦を「女子挺身隊」と表現していることに当初違和感を覚えました。しかし、1991年になって、尹貞玉氏の韓国女子挺身隊問題対策協議会と接触するようになり、日本国内では女子挺身隊の意味は勤労動員しかなくとも、植民地下の朝鮮半島においては、従軍慰安婦もまた「女子挺身隊」と呼ばれていた、あるいは慰安婦自らが、「慰安婦」という言葉の意味する侮蔑性から、そう認識していたと考えていました。

金氏は私とのインタビューの冒頭、「私が挺身隊であったことを...」と言っていましたし、資料にあるように金氏が、尹貞玉氏の組織を初めて訪れた時、「私は女子挺身隊だった」と切り出しています。つまり、1991年当時、金氏は自分を「女子挺身隊」と認識していたのです。私も、インタビュー当時、金氏が語る内容や表現について何ら違和感を持ちませんでした。

(3)私とほぼ同じ頃、実名報道の壁にぶつかりながら、従軍慰安婦報道を続けていた朝日新聞の植村隆記者(当時)もまた、女子挺身隊と従軍慰安婦の定義に大きなプライオリティを見出していなかったのではないでしょうか。いや、私や植村氏だけではなく、日韓のマスメディアの中で、時代を遡って戦時下、従軍慰安婦と女子挺身隊の意味付けについて検証を試みた報道機関はなかったというべきでしょう。

(4)日本が持ち込んだ言葉は「慰安婦」ですが、私が韓国に滞在している中で、「慰安婦」という言葉を直接聞いたことはありませんでした。

韓国は、貞操に厳しい国柄です。公娼、私娼制度がありましたが、韓国では隠されることが多くありました。地方から都市に来て数年問家族のために公娼や私娼になって親族にお金を送り、地方に戻って結婚生活を送る、というケースはあり、周りは皆知っているが誰も言わないという状況があったのです。

このようなことからしても、「慰安婦」という言葉はあまりにも屈辱的で、使われていなかったとも考えられます。

(5)従軍慰安婦が存在した当時、女子挺身隊の名で慰安婦を集めた事実はあったのか、なかったのか、戦後の早い時期に公の調査をしていれば容易に、明確に判明したかもしれませんし、どうしても知る必要があるならば、今からでもその努力をすべきです。

私は、「従軍慰安婦」という名称か「挺身隊」という名称かにかかわらず、彼女らが当時置かれた状態がどうであったか、そして、その後、かつての境遇を抱えてどんな人生を送ったかに目を向けなければならないと思います。

 

7 植村隆氏は捏造記者ではない一結論として

(1)中坊公平(1929-2013)という弁護士がいました。元日弁連会長、森永ヒ素ミルク中毒や豊田商事の被害者救済の弁護団長を務めましたが、晩年、住宅金融債権管理機構社長時代の不適切な債権回収の責任を取り、弁護士も廃業しました。

「斥候(偵察兵)こそ新聞の使命だと思う。記者は単に目に見えることだけを人に伝えるのではなく、誰よりも早く山に登ってその先に見えるものに的確な価値判断を下して伝える」(中坊公平著、朝日新聞社刊「罪なくして罰せず」。)

中坊氏の言を採るなら、1991年代、植村隆氏も、私も、従軍慰安婦問題の斥候たらんとしました。戦時の日本が朝鮮半島で犯した罪のひとつですが、その実態がほとんど解明されていなかった問題。その端緒として当事者の明確な証言を得ようとしました。

斥候が得た端緒的情報をさらに肉付けする作業、日々情報を充実させていく作業(updating)こそがジャーナリズムの手法です。

(2)1991年当時の取材の成果をこんにちの尺度の俎上に乗せ、あれが足りない、これがあやふやであると批評することはたやすいことです。

以上を踏まえた上で、私は、「従軍慰安婦問題」の当時の学問的研究水準を度外視した上での絶対評価として、記事を「捏造した」とか「事実を故意にねじまげた」などと断じるのは、思想的バイアス(偏見)のかかった言いがかりに過ぎないと考えます。

なかんずく、植村隆氏に対し、学界の西岡力氏、マスメディア界の櫻井よしこ氏は巨大な影響力をもつ出版物で、植村氏を理不尽に糾弾し続けました。その結果として、両氏の言説を盲信するいわゆるネット右翼、ナショナリストらによる植村氏とその家族への誹謗中傷を超えた危険な暴力が加えられています。まさに中世の魔女狩りのような行為ではないでしょうか。

このことへの両氏の責任は重大です。

(3)当を振り返、これだけは言いたいのです。1991年当時、従軍慰安婦問題に対する日本人記者の認識と知識レベルは、私や植村氏を含め毎日、読売、産経など各紙の間でそれほどの違いがあったとはいえません。いわんや「朝日新聞の『誤報』『奇襲報道』から 乱が始まった」などというのは20年後の後付けに他なりません。私は、当時の朝鮮人従軍慰安婦が置かれていた状況は、「女子挺身隊」と呼ばれようが、「慰安婦」とよばれようが、旧日本軍を含む植民地政策によって戦時朝鮮半島で行った誤った行為に相違なく、現代を含む後世の日本国、日本人がそれを厳粛に受け止めることから両国の善隣関係が発展すると信じています。

 

以上