裁判経過と判決 東京高裁の審理

 

以下の記事の内容

1 口頭弁論の経過

2 東京高裁判決

3 東京高裁判決に批判

 

  

1 控訴審 口頭弁論の経過

 

第1回 2019年10月29日 金学順さんの証言テープなど新証拠37点を提出

第2回 同年12月26日 書面8通を提出、植村氏が意見陳述し、結審

判決 2020年3月3日 植村氏の控訴を棄却

 

控訴審の口頭弁論は2019年10月と12月に行われ、2回で結審した。

植村氏側は、地裁が判示した3点の摘示事実には重要部分が欠落したものが多く、そのために「真実性」と「真実相当性」について誤った判断が導かれている、と強調した。また、植村氏には記事を捏造する意図も動機もなかったことを、あらためて主張した。さらに、金学順さんがキーセン学校に通ったことを慰安婦になった理由と結びつける西岡氏への反証として、キーセン(妓生)は朝鮮王朝時代から歌舞に秀で教養を備えた女性が就く職業(芸妓)として認められ、売春を業とする娼妓とは異なるものであったことを伝える資料や証拠を提出した。

提出書面は、控訴理由書、同補充書、意見陳述書の計8通で、このうち控訴理由書は210ページに及ぶ長尺となった。提出証拠は、金学順さんの証言録音テープを含め計37点になった。対する西岡・文春側からは2通(準備書面)にとどまったが、その内容は、植村氏の「捏造」を主張し、一歩も譲らぬ強硬なものだった。

 

 重要証拠 金学順さんの証言録音テープ 

金学順さんは1991年11月、日本政府に補償と謝罪を求めた戦後補償裁判の原告に加わり、その裁判の弁護団の聞き取りに応じて証言をした。録音テープはそのときのものである。

金さんは約2時間にわたり、弁護団長の高木健一弁護士の質問に対して、時に口ごもりながら、怒りと悔恨の気持ちを交え、慰安婦とされた経緯、慰安所での生活、性暴力被害の様子を語っている。植村氏はこの時、取材記者として弁護団に同行していた。録音は植村氏がした。高木弁護士と金さんの一問一答が終わった後の最後の約5分間には、植村氏が金学順さんと韓国語で直接交わしたやりとりも収められている。

植村氏はこの録音テープをもとに、金さんの半生を紹介する記事を書いた。91年12月25日付の朝日新聞大阪本社版「語りあうページ」の記事で、植村裁判では記事Bといわれる。見出しは「かえらぬ青春 恨の反省――日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」、前文には「弁護士らの元慰安婦からの聞き取りに同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨(ハン)の半生を語るその証言テープを再現する」とある。

この記事を、西岡氏は「捏造」と決めつけ、「この12月の記事でも、金学順さんの履歴のうち、事柄の本質に関するキーセンに売られたという事実を意図的にカットしている」「都合が悪いので意図的に書かなかったとしか言いようがない」と断定している(『増補新版 よくわかる慰安婦問題』草思社)。この記事が、捏造決めつけの重要な根拠とされているのである。

ところが、このテープで金さんは「キーセン」学校に通った履歴を語っていない。「キーセン」という言葉すら、ひとことも発していない。金さんが言わなかったことを植村氏は書かなかった。それがどうして捏造とされるのか。

植村弁護団の事務局長、神原元弁護士は、第2回口頭弁論(結審)でこう陳述した。

「植村さんは取材相手が話さなかった事実を記事にしなかったに過ぎない。それが捏造といえるはずがないではないか。それだけではない。証言テープの内容は記事の内容と詳細に一致している。これは、植村さんには事実をねじ曲げる意図がなかったことの端的な証であり、記事が捏造ではないことの具体的かつ決定的な証拠である」。植村氏の怒りも大きい。植村氏はこう述べた。「金学順さんがテープの中で語っていないことを、書かないのは当たりまえのことです。本人が語っていないことを書かなかっただけで、捏造だと言えるはずがないではありませんか」。

 

2 控訴審 東京高裁判決

編注:この項は北野隆一「朝日新聞の慰安婦報道と裁判」(朝日選書)505~513ページに拠っている

 

東京高裁の判決は2020年3月3日に言い渡された。白石史子裁判長は原告側の控訴を棄却した。植村氏は上告した。

判決言い渡しは午後2時から101号法廷であった。弁護団席には植村氏側は15人が着席し、西岡・文春側は喜田村洋一弁護士がただひとり。西岡氏は今回も出席しなかった。席数95の法廷には70人が着席した。集まりが少なかったのは、新型コロナウイルスの感染拡大により、外出自粛が始まっていたためである。

白石裁判長は主文を読んだだけで退廷した。裁判はわずか10秒ほどで終わった。

 

判決は、西岡氏が植村氏の記事を「挫造」と主張した根拠について、以下の3点を「裁判所認定摘示事実」と定義したうえで、それぞれ適否を検討した。

 

①控訴人は、金学順が経済的困窮のためキーセンに身売りされたという経歴を有していることを知っていたが、このことを記事にすると権力による強制連行との前提にとって都合が悪いため、あえてこれを記事に記載しなかった(摘示事実1)、

②控訴人が、意図的に事実と異なる記事を書いたのは、権力による強制連行という前提を維持し、遺族会の幹部である義母の裁判を有利にするためであった(摘示事実2)、

③控訴人が、金学順が「女子挺身隊」の名で戦場に強制連行され、日本人相手に売春行為を強いられたとする事実と異なる記事をあえて書いた(摘示事実3)

=高裁判決書14ページ

 

法律用語で「事実」というときは、それが実際にあったことか否かの真偽は必ずしも問われない。「虚偽の事実」という使い方もある。これに対し、その「事実」が偽りでなく実際にあったときは「真実」と呼んで区別している。

この3点の摘示事実のうち、金学順さんがキーセン(妓生)に身売りされた経歴をめぐる「裁判所認定摘示事実1」について、判決は以下のように認定し、西岡氏の記述の「真実性」を否定した。

 

 キーセン身売り説に「真実相当性」を認める 

 

控訴人が原告記事A執筆当時、「金学順が経済的困窮のためキーセンに身売りされた」という経歴を有していることを知っていたとまでは認められないし、原告各記事執筆当時、「権力による強制連行との前提にとって都合が悪い」との理由のみから、あえてこれを記事にしなかったとまで認めることは困難である。=高裁判決書14ページ

 

しかし、西岡氏が「金学順が経済的困窮のためにキーセンに身売りされ、養父により人身売買により慰安婦にさせられたものであり、金学順が自らその旨述べていると信じた」ことには「相当の理由があるというべきである」として「真実相当性」を認め、西岡氏を免責した。

キーセンをめぐる論争について、植村氏は1991年11月に訴訟の弁護団が金さんに聞き取り調査したテープを東京高裁に提出し、「金氏はキーセンに言及していない。相手が話さないことを記事に書かないのは当然」と主張していた。これに対し判決は、「上記『証言テープ』が上記聞き取り調査の際の金学順の証言の全てを記録したものとは認め難い」と述べ、植村氏の主張を退けた。

 「義母の裁判を有利にするため」かどうかが争われた「裁判所認定摘示事実2」については以下のように述べ、西岡氏の記述の真実性を否定した。

 

原告記事Aの執筆時点において、控訴人が、義母の裁判(平成三年訴訟)の提訴予定を知っていたことを認めるに足りる証拠はなく、控訴人が「義母の裁判を有利にするために事実と異なる記事を書いた」との事実が真実であるとまで認めることは困難である。=高裁判決書21ページ

 

だが、この点についても判決は「真実相当性」を認め、西岡氏を免責した。

 

 縁故利用説にも「真実相当性」を認める 

 

控訴人が、権力による強制連行という前提(これは平成三年訴訟の前提でもあった。)を維持し、義母の裁判(平成三年訴訟)を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたと考えたことについては、推論として相応の合理性がある。被控訴人西岡が前記(この各資料等(被控訴人西岡は、韓国在住の義母にも取材した。)を総合して上記のとおり信じたことについては相当の理由があるというべきである。=高裁判決書22ページ

 

 「挺身隊の名で連行された」という記述をめぐる「裁判所認定摘示事実3」については、東京地裁判決を支持し、西岡氏の記述の「真実性」を認めた。植村氏が自分の記事について「強制連行とは書いていない」などと反論した部分については、以下のように述べて退けた。

 

 「事実と異なる記事を書いた」に「真実性」を認める 

 

控訴人は、原告記事Aの「連行され」とのリード部分は「強制連行」とは書いておらず、本文中の記載に照らしても「だまされて連れて行かれた」との意味であり強制連行を意味しない旨主張する。しかしながら、リード中の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との表現を一般の読者の普通の注意と読み方を基準として解釈すれば、金学順が日本軍等により「強制的に戦場に連れて行かれた」こと、すなわち権力による強制連行を意味するものというべきであって、このことは、本文中に「だまされて」との一語があることによっても変わりがない。なお、当時、朝日新聞社は、吉田供述等に依拠して「狭義の強制性」を大々的かつ率先して報道していたことに照らすと、「だまされて」と「連行」とでは明らかに意味合いが異なり、同社の記者である控訴人がこのことを意識せずに、単に戦場に連れて行かれたとの意味で「連行」という語を用いたとは考え難い。=高裁判決書24~25ページ

 

 朝日新聞の報道姿勢を厳しく論難  

 

判決では、「挺身隊」と「慰安婦」の用語の使い方をめぐり、原告側が「訂正の必要はない」と述べたことに対し、朝日新聞社第三者委員会の報告書をもとに、「議論のすりかえ」と批判。原告の植村氏個人というより朝日新聞社全体の慰安婦問題をめぐる報道姿勢を厳しく論難する記述がめだった。

 

原告記事Aが報道する事実の意味内容と控訴人が認識した事実とが異なっていたことは明らかであって、訂正不要との上記供述は、本件調査報告書の指摘にもあるように、「広義の強制性」を持ち出して「議論のすりかえ」をしたものというはかない。当時、朝日新聞社は、吉田供述等に依拠して「狭義の強制性」が認められるとの立場を明確にとっており、一連の報道において、そのことを示すものとして[(女子)挺身隊の名で連行」等の表現を繰り返し用いていたことからすると、原告記事Aの「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」との表現もその一環として用いられたものとみるのが自然である。=高裁判決書24ページ

 

とくに次の箇所では、朝日新聞社を被告とする一連の集団訴訟で保守・右派が主張してきた「朝日新聞社の報道が与え続けた国内外への影響の大きさ」についての言及もあった。しかし「影響の大きさ」についての論拠は示されなかった。

 

控訴人は、22年前にニュース記事を2本書いたにすぎない一私人の就職先が当然に公共の利害に関わるとは思われないなどと主張する。しかしながら、朝日新聞社は2014年の本件検証記事に至ってようやく過去の記事の誤りを認め謝罪したが、その検証内容についても「朝日新聞の自己弁護の姿勢が目立ち、謙虚な反省の態度も示されず、何を言わんとするのかわかりにくいもの」(本件調査報告書)だったと指摘されているのであって、この間、原告各記事を含む慰安婦問題に関する朝日新聞社の報道が与え続けた国内外への影響の大きさにも照らすと、2014年当時においても非常に社会的関心が高い事柄であったことは明らかであり、単に「22年前にニュース記事を2本書いたにすぎない一私人」の問題などとみるのは相当でない。=高裁判決書28ページ

 

3 東京高裁判決に批判

 

植村弁護団は、「結論先にありきの、あまりに杜撰な判決である」と批判する声明を発表した。その中でもっとも問題としたのは、「植村氏は意図的に事実と異なる記事を書いた」との一審の「真実性」認定を維持している点。声明は、「植村氏の記事には、はっきりと「だまされて慰安婦にされた」と書いてあるではないか。植村氏において強制連行をでっち上げようという悪しき意図があったとすれば、「だまされて慰安婦にされた」などと書くわけがない」と強く批判している。

声明はその上で、判決が、植村氏が、金氏のキーセンに身売りされたという経歴を知っていたのにあえてこれを記事にしなかった事実、植村氏が、義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実、をいずれも「真実と認めることはできない」とした点について、「これは控訴審の大きな成果であり、植村氏の名誉は一部であれ回復した」と最後に付け加えている。                     

 

植村氏は、判決後、裁判所前の路上に集まった支援関係者に、次のように訴えた。

 

 植村氏 「慰安婦問題をなかったことにする動き」   

主文を読み上げただけで裁判長は逃げました。金学順さんの話を聞いたテープが見つかったので、それを全部起こして裁判所に提出した。ところが裁判長は「全部録音されているのかわからない」と言って、最大の証拠を正当に評価しなかった。

このような判決が認められたら、ジャーナリズムの危機だ。私だけの問題ではない。金学順さんの証言を伝えただけで、なぜ私がここまで言われるのか。ほかのだれも攻撃されないのに、ずっと攻撃されたのは、慰安婦をなきものにしようという大きな狙いがあるからだ。

裁判所も、慰安婦の証言を伝える者には厳しい。(慰安婦問題を)なきものにしようという人をほったらかして、罪はないという。2014年の文春の記事で、激しい攻撃が大学や私に及んだ。バッシングについては、被告側の喜田村弁護士も当時批判していた。私は救済を求めたが、過去に向き合う者には厳しく、否定する者には寛大な判決が下された。しかし最高裁が残っている。上告して闘いたい。

 

この判決について、植村裁判を提訴以来取材してきたジャーナリストの佐藤和雄氏は次のように解説する。

 

 裁判所は「人身売買説」を肯定せず  

焦点は、西岡氏が植村氏の報道について述べてきた3つの指摘が「真実であるかどうか」もしくは「西岡氏が真実であると信じた相当の理由があるかどうか」だった。

3つとは①金さんがキーセンに身売りされたことを知りながら、権力による強制連行との前提にとって都合が悪いためあえて記事にしなかった、②記事を書いたのは太平洋戦争犠牲者遺族会の幹部である義母の裁判を有利にするためだった、③金さんが女子挺身隊の名で戦場に強制連行されたという、事実とは異なる記事をあえて書いた、というもの。真実であったり、真実と信じた相当の理由があったりすれば、西岡氏は免責される。

高裁判決は①と②については地裁判決より踏み込み、真実とは認めなかった。一方、西岡氏が当時の韓国紙報道、訴状、月刊誌の論文を読み、「あえて記事にしなかったと考えたことは推論として相応の合理性がある」と述べた。

③については植村氏が記事の本文で「『だまされて慰安婦にさせられた』と書いており、日本軍による強制連行ではないことを知っていた」と指摘。「強制連行したと報道するのとしないのでは、報道の意味内容やその位置付けが変わりうることを十分に認識していた」という地裁判決を踏襲し、「意図的に事実と異なる記事を書いたと認められ、真実性の証明がある」と結論した。

櫻井よしこ氏を同様の理由で訴えた札幌地裁と同高裁。西岡氏を訴えた東京地裁と同高裁。植村氏は「4連敗」だ。札幌はすでに最高裁に上告し、東京でもその意向という。

ところで、この裁判が「慰安婦」をめぐる言説に、何らの意味ももたらさなかったかと言えば、そうではない。

西岡氏と襖井氏の主張のポイントは「金学順さんは日本軍による強制連行ではなく、人身売買によって『慰安婦』になった」というもの。しかし東京高裁判決は、西岡氏らが根拠にしている資料だけでも「人身売買により慰安婦にさせられたことを示唆するものもあるが、養父らから力ずくで引き離されたというものもあり必ずしも一致していない」と述べ、人身売買論を肯定してはいない。

勝訴が続く西岡氏と櫻井氏だが、「金学順さんが人身売買による慰安婦」という、不確かな主張を、今後は声高に喧伝することはできなくなるだろう。

=「週刊金曜日」2020年3月13日号8ページ