◆水野孝昭氏論文 全文 

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慰安婦報道の出発点――918月に金学順が名乗り出るまで

 

神田外語大学・水野孝昭

 

 

 

 いわゆる慰安婦問題は、19918月に韓国で元「慰安婦」の金学順(キム・ハクスン)が名乗り出て日本政府に謝罪と補償を求めたことをきっかけに、9384日の日本政府による河野洋平官房長官談話の表明につながっていく。だが、河野談話から四半世紀が過ぎても、201512月の日韓政府間合意を経てこの問題をめぐる激しい論争と対立は国内でも国際的にも続いている。「慰安婦」問題は、女性の人権問題であるとともに、植民地支配や戦争責任・戦後補償の問題でもあり、それにどう対応するかという政治問題であり、関係国にとっての外交問題でもあるからだろう。

 

 本稿では、この「慰安婦」問題が大きな争点となる出発点となった金学順の「歴史的なカミングアウト」までの流れを、日本メディアによる報道姿勢、とくに主要新聞による記事の掲載ぶり、その扱いを含めて検証する。戦後の日本社会で「慰安婦」がいつから問題として認識され、どのよう浮上してきたのか、その経緯を検証することが目的である。多様なメディアの言説や表象のなかでも、社会に対する「問題提起」という点で強みをもつ新聞記事を中心に分析することで、「慰安婦」という存在に対する日本社会の「認識の枠組み」の変遷を検証していく。戦後沈黙していた金学順が、この時点でなぜ運動団体に名乗り出ることになったのか、どのような経緯で日本メディアに最初に取材されるに至ったのか、も解明してみたい。

 

 

 

第1章 見出しの立たない「慰安婦」

 

1.戦中派の「慰安婦」言説

 

 第2次大戦中に戦地に赴いた日本軍兵士の大半は慰安所の存在を知っていたし、戦後もながくタブー視されたり、特別に問題視されたりすることもなかったようだ。戦後に出版された戦記物や回想録はもちろん、1960年代に大衆的な人気をはくした映画でも「慰安婦」について、何の贖罪意識もなく、むしろあっけらかんと描かれており、今の感覚では戸惑うほどだ。「赤線」などの公娼制が廃止されたのは1958年であり、「妾を持つのは男の甲斐性」といった明治以来の家父長的な価値観が支配的だった時代の雰囲気をうかがうことができる。

 

 エリート将校にとっても戦場の慰安婦の存在は隠す必要もない話題であり、むしろ兵士への思いやりを示した例として「自慢話」にすらなっていたようだ。普段は公の場では語られることのない話題のはずだが、気を許した仲間を相手にした対談で思わず「本音」を漏らして読者を赤面させるような書籍も出版されている。「慰安所を作ってやった」と胸を張る中曽根康弘の海軍主計将校時代の回顧録(78年)や鹿内信隆(83年)の陸軍経理学校での思い出を語った語り口が、その一端である。

 

 「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの持ち時間が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのがピー屋設置要綱」で、(陸軍)経理学校でおそわった。」(注1

 

 

 

2.先駆的に報道した記者たち

 

 そうした時代でも「慰安婦」の存在を「問題」としてとらえ、報道した先達たちはいた。

 

 戦後の韓国メディアにおける「慰安婦」言説を包括的に分析した吉方べきによると、のちにベトナム戦争報道でその名を知られるようになった岡村昭彦が、PANA特派員として李承晩ラインの取材で乗り込んだ韓国漁船の船長から「慰安婦」について聞かされる場面を含むルポが19643212324日付け『東亜日報』に3回に分けて掲載されている。これは「慰安婦」本人の話ではないという点で間接的ではあるが、戦後に日本人記者が「顔を上げることができな」い問題として「慰安婦」の存在に向き合った最も早い報道だろう。

 

 吉方は、『東亜日報』に掲載された岡村のルポで慰安婦に触れた部分を以下のように紹介している。

 

 

 

(船長)「大東亜戦争の時に韓国人の娘たちは十八歳から二十歳まで挺身隊という名前で連行され、結局はすべてが軍隊の娼婦にされてしまったんですよ」。私(岡村)は顔を上げることができなかった。(注2

 

 

 

 1965年に岡村が岩波新書として出版してベストセラーになった『南ヴェトナム戦争従軍記』も、そのくだりを詳しく再録している。

 

 「こんなことをあんたみたいな若い者にいうのは気の毒だが、あんたたちがいまに日本の国をまかなうようになるんだから、よーくきいておきなさいよ」老船長のたくみな日本語の口調はめずらしくきつい。「日本が朝鮮を思うままにしておったころのことよ。日本は世界中の国と戦争をして、どんどん旗色が悪くなってくる。そこで朝鮮の娘たちも、二〇歳になると、報国隊になってでることになった。ところが、このたくさんの娘たちは、日本の工場で働くのではなくて、じっさいは満州や南方につれていかれ、むりやり日本軍のパンパンにさせられたのよ。(中略)」私の顔がまっ赤になっていくのが自分でもわかる。老船長は大きくため息をついて、語り続ける。「こんなことは、いまの年とった日本の政治家たちは、よく知っていることよ。自分の手でやったことだからね」(注3

 

 

 

 『南ヴェトナム戦争従軍記』は65年の出版界のベストセラーになって、続編の『続・南ヴェトナム戦争従軍記』も出版された。この2冊は「戦場ルポ」の記念碑的著作であり、日本でのベトナム報道のはしりとなった点でも特筆される。

 

 その本に韓国の老船長の語りを再録したことで、岡村は「慰安婦問題」をいち早く日本の社会にもアピールしたといえる。韓国人の「老船長」と岡村との会話では、「報国隊になってでる」「日本軍のパンパンにさせられた」など、「老船長」の言葉使いも興味深い。戦時中の記憶が生々しかった当時の韓国社会で、「慰安婦」についてどのような言説が定着していたかを知るための貴重な手掛かりにもなっている。

 

 ただ、岡村も「慰安婦問題」に焦点をあてたわけではなく、狙いはあくまで「李承晩ライン」の現場である。韓国の零細漁民の苦しい暮らしぶりを伝えることに力点があり、「慰安婦」の話は重要ではあるが、ひとつの挿話、付随的なエピソードの一つとして紹介しているに過ぎない。

 

 

 

 戦後のジャーナリズムで、「慰安婦」問題に本格的に取り組んだジャーナリストは千田夏光である。

 

 毎日新聞記者だった千田は1964年に、毎日新聞社が『毎日グラフ』別冊として写真集『日本の戦歴』を編集する中で、「十五年戦争を通じ、毎日新聞特派員が撮影して来た、二万数千枚の写真の選別から編集」を担当した。ところが、その写真の中に「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性」など、数十枚の不思議な女性の写真を発見したのだ。写真ネガの説明に「慰安婦」という文字はなかったが、その女性たちの正体を追っているうちに、千田は「初めて慰安婦なる存在を知った」。(注4

 

 千田は、「慰安婦」たちの実態を知ろうと戦争体験者に聞き取りを試みるが、「具体的な事実になると言葉をごまか」されたり、匿名を希望されたりして、取材は難航したようだ。軍医や兵士たちの聞き取りを重ねて出版したのが『従軍慰安婦―“声なき声八万人の告発』(73年)である。

 

 その後も、『従軍慰安婦悲史戦史の空空白部分を抉る』(76年)、『従軍慰安婦〈正編〉〈続編〉』(78年)、『オンナたちの慟哭戦争と女性哀話』(81年)と次々に著作を発表し続けた。

 

この「慰安婦」報道のパイオニアは「従軍慰安婦」という言葉を定着させ、週刊誌のゴシップ的な扱いだった「従軍慰安婦」をノンフィクション=事実として取り上げた。ジャーナリスティックな手法で証言を積み重ねていった功績は大きい。

 

 74年には韓国でも翻訳、出版されている。千田の仕事は文字通りの「掘り起こし」であり、大きな役割を果たしたと言えるだろう。のちに韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の共同代表となる尹貞玉(ユン・ジョンオク)梨花女子大学教授も、日本の友人から送られたこの本を読んだことが「慰安婦」の実態調査に取り組むきっかけになったという。

 

 

 

3.共同通信の「慰安婦」記事

 

 日本の新聞が初めて「慰安婦」をニュースとして扱ったのは、共同通信の次の記事とみられる。

 

19751022日付の「沖縄在住の朝鮮人慰安婦戦時中、沖縄に連行の韓国女性30年ぶり『自由』を手に不幸な過去を考慮法務省特別在留を許可」で、高知新聞などが掲載した。

 

 

 

 「【那覇】太平洋戦争末期に、沖縄へ『慰安婦』として連行され、終戦後は不法在留者の形でヒッソリと身を潜めるように暮らしてきた朝鮮出身の年老いた女性が、このほど那覇入国管理事務所の特別な配慮で三十年ぶりに『自由』を手にした。当時は『日本人』でも、いまは外国人。旅券もビザもないため、強制送還の対象となるところだったが『不幸な過去』が考慮され、韓国政府の了解を得たうえ、法務省はこのほど特別在留許可を与えた。沖縄戦へ強制連行された朝鮮人の証言が、直接得られたのは初めてだ。」

 

 

 

 この記事は、前文にあるように、「慰安婦」というよりも、「沖縄戦へ強制連行された朝鮮人」の初めての証言という点に焦点をあてている。まだ戦時中の朝鮮人の徴用の実態が明らかになっておらず、強制連行の真相究明が始まる前の時期だったことが、こうしたニュース価値の評価になったのだろう。取材対象を「慰安婦」に絞り切ったわけではないとしても、この記事には「戦争の犠牲者に対する共感のまなざし」が感じられる。

 

 

 

 この記事を読んで心を動かされて77年暮れから沖縄に通い始めたのがノンフィクション作家の川田文子だった。サトウキビ畑の中の小屋に住んでいた裴奉奇(ペ・ポンギ)の小屋で聞き書きを重ねた川田は、その生涯を『赤瓦の家』(87年)として出版する。(注54

 

 

 

 この元「慰安婦」を映像で記録したのが19795月に公開された山谷哲夫のドキュメンタリー『沖縄のハルモニ』だった。山谷は76年から77年にかけて訪韓して、学生やベトナム帰りの兵士などにインタビューして自主ドキュメンタリー『うりならまんせい一九七七年韓国から』を制作。次作の構想を練っているときに『毎日グラフ』の写真集『不許可写真史』で「検診に向かう到着直後の朝鮮女性」と題された写真を見て衝撃をうける。次作を「朝鮮人従軍慰安婦」にしようと取材を始めたが、韓国で元「慰安婦」の取材はできず、いったん失敗に終わる。だが、沖縄に置き去りにされていた元朝鮮人「慰安婦」を取材して、『沖縄のハルモニ』と題して公開した。

 

山谷は映画の狙いをこう書いている。

 

 

 

 「強制連行された男たちは、やがて団結し、日本の敗戦、祖国の解放に備えた。その彼らの記録が少しずつ公表されてきている。それに較べ、同じく連行された女たちは分散し、無言のままである。事実、貧しい女たちがこの戦争においても最大の被害者である。(中略)いまここで彼女たちの記録を残しておかねば、証言者たちが老年のため死に絶えていく。この映画で証言してくれた朴ハルモニも六四歳である。いずれ現れてくるであろう他の記録者たちにバトンタッチするつもりで、この記録映画作りをスタートさせた」(注6

 

 

 

 『沖縄のハルモニ』は、79512日付朝日新聞夕刊の2社面コラムで「春遠く沖縄のハルモニ」という見出しで紹介された。同紙9月7日付夕刊文化欄にも、山谷は寄稿している。「従軍慰安婦の涙朝鮮女性の悲惨さ追う貧困への怒り込め記録映画に」という見出しのついた論考である。

 

 そのなかで、山谷は「従軍慰安婦」について説明し、沖縄で出会った元「慰安婦」への取材のプロセスを明かしている。戦時中の過酷な体験と、戦後の生活苦の中で周囲から孤立して極貧の生活をしていた彼女が、カメラの前で口を開くまでの葛藤は大きかった。筆者(水野)は79年当時、大学生だったが、この記事を読んで実際にドキュメンタリーの上映会に行き、強烈な印象を受けた思い出がある。

 

 

 

 この時期には、吉田清治が『朝鮮人慰安婦と日本人』(77年)を出版しており、吉田の証言や活動は朝日新聞を含めて様々なメディアで報じられた。その後、いわゆる「吉田証言」の関係記事について、20148月に朝日新聞が取り消す事態となった。「吉田証言」が本稿のテーマである金学順が名乗り出るに至る経緯とは直接関係していないことは、後述する名乗り出の経緯で論証していく。(吉田証言関連記事取り消しの経緯については1412月の朝日新聞第三者委員会の報告が詳しい。)

 

 

 

2章:日韓の運動から

 

1.キーセン買春ツアー反対

 

 経済大国となった日本が「円」の力でアジアの貧しい女性たちを再び支配しようとしている――70年代初期から韓国への「キーセン買春観光」に反対キャンペーンを展開したのが朝日新聞の松井やより記者だった。戦前から廃娼運動を続けてきた日本キリスト教矯風会などが中心となった買春反対運動を報道。ペンの力で運動の先頭に立った。この運動で築いた日韓のつながりが、のちに元「慰安婦」が名乗りを上げる舞台を築いていく。

 

 

 

 松井は81年から85年にかけてアジア総局員となり、シンガポールを拠点にアジアの底辺に生きる女性たちの姿を精力的にカバーした。84112日付夕刊の「私は元従軍慰安婦、韓国婦人の生きた道/邦人巡査が強制連行、21歳、故国引き離される」という見出しの記事で、戦時中にタイに連行されて、戦後も置き去りにされていた朝鮮人元「慰安婦」・盧寿福(ノ・スボク)の証言を報道している。

 

 タイ南部のハジャイにある食堂で働いていた盧を訪ねた時の様子を、松井はこう書いている。

 

 

 

 「友人のタイ女性と彼女の家を探し当てた時、塀の内側に胸までサロンを巻いたハルモニ(おばあさん)の姿が見えた。見知らぬ訪問者に驚いた様子で、『どこの国の人か?誰にも会いたくない』と首を振る。思い切って中に入り、『日本人です』と名乗ると、驚いたことに『カンコクジン、ニホンジン、トモダチ。カマイマセン、カマイマセン』とたどたどしい日本語でいうのだ。そして思わず涙をこぼした私の手を握って『ヘイタイサンワルイ、モウシンダ。ニホンジンカマイマセン』と繰り返した」

 

 

 

 長年の異国暮らしで、盧は韓国語を忘れていてタイ語の通訳を介してのインタビューだった。突然目の前に現れた日本人に「カマイマセン」と盧が繰り返したとき、「私の目から涙がどっとあふれ出た」と松井は回想している。

 

 

 

 松井が盧の存在を知ったのは、ソウルの女性記者から送られてきた韓国の新聞記事だった。盧の住んでいたタイ南部のハジャイはマレーシア国境近くにあり、イスラム教徒も多い地域である。筆者も80年にバンコクから鉄道で訪れたことがあるが、連絡や移動の手段も限られた田舎町だった。

 

 帰国後も、松井は88818日付け「ひと」欄で、来日調査にきた梨花女子大の尹貞玉教授を紹介している。タイ在住の盧について書いた松井の記事を知った尹が連絡をとってきたという。松井の記事を頼りに尹がタイに飛んで、盧から聞き取りを行った。(注7

 

 尹による「慰安婦」の足跡をたどる研究は、1990年に『ハンギョレ新聞』の連載として結実することになる。

 

 

 

2.アジアと向き合う中で・・

 

 70年代末から80年代前半にかけては、強大な「経済大国」となった日本がアジアとどう向き合っていくかが、ジャーナリズムの大きなテーマになっていった。松井は77年に「アジアの女たちの会」を立ち上げ、アジア各国の女性運動とのかかわりを深めていった。

 

 19796月に初めて日本で開催された「東京サミット」(第5回先進国首脳会議)を前に、日本政府もベトナムからのボートピープルなどインドシナ難民の受け入れを迫られることになった。『沖縄のハルモニ』の山谷も1980年にはタイ国境のカンボジア難民キャンプをルポした『きょむ・ぬっく・あいんタイ・カンボジア国境から』を制作している。

 

 外圧に押される形で、ベトナム・ボートピープルなどインドシナ3国からの難民受け入れを閣議決定したことがきっかけとなって、82年には国連難民条約に日本も加入することになった。その結果、日本国内で「外国人扱い」されていた在日コリアン社会に思わぬ波及効果が表れた。それまで在日朝鮮・韓国人は「外国人」として日本の年金や福祉制度の対象外とされていたが、難民条約の「内外人平等の原則」を国内法に適用せざるを得なくなったため、インドシナ難民だけでなく、在日コリアンの処遇も大幅に改善されたのだ。在日コリアンの間で自らのルーツの検証としての強制連行の歴史の掘り起こしや、「在日差別の象徴」として指紋押捺制度への拒否運動も盛り上がりをみせることになる。

 

 そうした時代背景の中で、テレビやラジオでも「慰安婦」を取り上げ始めた。

 

 元NHKディレクターで「女たちの戦争と平和資料館」(wam)館長の池田恵理子の調査によると、198231日に日本テレビの深夜番組11PMが「韓国から見た日本」として「慰安婦」問題の特集番組を放映している。お色気番組としても知られていた人気番組だが、時に硬派の社会問題にも取り組んでいた。当時の新聞のTV欄の番組紹介には「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」と記されている。ラジオでも、866月にはTBSラジオがニューススペシャルで「石の叫び!ある従軍慰安婦の記録」を放送している。池田自身も91627日にNHKの「ETV:現代ジャーナル」で「もう一つの沖縄戦」と題した番組を作り、元「慰安婦」・裴奉奇を描いた映画を紹介している。(注8

 

 テレビやラジオという放送メディアでも「従軍慰安婦」が扱われるようになったことは、この問題が日本社会にある程度浸透していったことを示すといえるだろう。ただ、「慰安婦」が周辺的なニュースにとどまっていた事情には変わりない。そのことを端的にあらわしていたのが、新聞紙面での扱いである。山谷の記事は第二社会面のコラムや文化欄での「話題モノ」や寄稿であって、新聞のニュースとしてはマージナルな位置づけであった。記事は好意的ではあったが、「慰安婦の存在」そのものにニュース価値を見出したというよりも、「異色のドキュメンタリー紹介」だったと言えるだろう。

 

 今の感覚からすると違和感を覚えるのは、松井の84年のシンガポール発の特派員電の扱いである。タイ南部に生存していた元「慰安婦」を現地で探し出し、インタビューして、写真つきで報じている。戦場に置き去りにされていた元「慰安婦」の身の上話がストレート・ニュースにならずに、「海外喜怒哀楽」というカットの「話題モノ」欄に掲載されたのはなぜだったのだろう。特派員が自由にテーマを選べて長文のルポが載せられるからだったのだろうと筆者は推測する。いずれにせよ、「海外喜怒哀楽」というカットには日本の戦後責任を問う視点が感じられず、どこか「他人事」のように響く。

 

 沖縄のトウモロコシ畑で涙を流していても、タイの田舎で嘆いていても、大半の日本人にとって「慰安婦」は、遠い世界の過去の出来事であったのだろう。

 

 「慰安婦」を報道する側がそれを重いニュースとして扱うようになるまでには、人々の目の前で声を上げ、語りかける当事者の登場を待たなければならなかった。

 

 

 

 

 

第3章:転機は金学順の登場

 

1.ハンギョレ新聞の連載

 

 前述したように、千田夏光の『従軍慰安婦』を読んで衝撃を受けた尹は、置き去りにされた「慰安婦」の足跡を追うために1980年代に来日を重ねた。北海道・沖縄はもちろん、タイやパプアニューギニアまで足を延ばしている。(注9)尹は882月、韓国教会女性連合会で調査報告会を開催。4月に同会主催の国際セミナー「女性と観光文化」で「挺身隊踏査報告」を行った。7月には、尹らが中心となって韓国教会女性連合会の教会と社会委員会に「挺身隊研究委員会」が設置された。国際セミナーのタイトル「女性と観光文化」が示すように、韓国と日本の女性団体は「キーセン買春」反対キャンペーンを通じて連携関係ができていた。

 

 

 

 尹が901月から、軍事政権下の民主化運動の中で誕生した新しい新聞『ハンギョレ新聞』に「挺身隊(怨念の足跡)取材記」を連載したことが、慰安婦問題を本格化させる口火となった。尹のルポが反響をよんだのは、同年5月に民主化して初めてとなる盧泰愚大統領の訪日を控えていたというタイミングもあった。新たな日韓関係のスタートを切るために過去の清算をしなければならない、という機運が双方に盛り上がっていた。

 

 ただ韓国でも最初から「慰安婦」が注目されていたわけではない。大統領の訪日を控えた5月18日、韓国女性団体連合・韓国女性連合会・ソウル地域女子大生代表者会議の3者は連名で「大統領訪日および挺身隊に対する女性界の立場」声明を発表した。だが、このニュースを報じたのは『ハンギョレ新聞』と『女性新聞』のみだったという。韓国でも当時は「挺身隊(慰安婦)」はまだ「主要なニュース」ではなかったことがうかがえる。

 

 

 

2.国会で論戦

 

 日本の政治の表舞台で「慰安婦」に光が当てられるようになった転機は1990年である。

 

国会で相次いで質問で取り上げられたのだ。国会議事録を検索すると、一番早いのは90530日の第118国会の参議院予算委員会のようだ。

 

 社会党の竹村泰子議員が「強制連行・名簿調査」問題で質問している。質疑の冒頭で、海部俊樹内閣の坂本三十次官房長官は、日韓外相会議で、韓国側から強制連行された朝鮮人リストを開示するよう要求があったことに触れている。

 

 竹村は朝鮮人強制連行の名簿について国会図書館館長らにただしたのに続いて、韓国の団体が904月に来日して厚生省に名簿の公開を求めたが拒否されたことを指摘。「従軍慰安婦の調査もなさいますね?」と問いかけ、坂本官房長官も「鋭意調査中です」と答弁している。

 

この答弁に竹村は注文をつけて、質疑を終えている。

 

 「戦後四十五年、余りにも遅い戦後処理ではないでしょうか。反省もざんげもなかったことがまさに今問われていると思います。韓国、朝鮮の人のみでなく、そして従軍慰安婦も、日本の植民地支配に対するすべてのことを調査するという前向きの閣議決定を受けて、窓口をきちんとつくり、遅まきながら誠意をもって調査をしていただきたい」

 

 続いて66日の参院予算委員会では、同じ社会党の本岡昭次議員が「慰安婦」問題を取り上げている。

 

 「強制連行の中に従軍慰安婦という形で連行されたという事実もあるんですが、そのとおりですか」

 

 政府委員の労働省職業安定局長は「従軍慰安婦は国家総動員法の対象ではない」と答弁するが、本岡は納得しない。「海軍作業愛国団とか南方派遣報国団とか従軍慰安婦とかいう、こういうやみの中に隠れて葬り去られようとしている事実もあるんですよ。これはぜひとも調査の中で明らかにしていただきたい。できますね、これはやろうとすれば」と食い下がる。

 

 だが労働安定局長は、次のように慇懃無礼に突っぱねる。

 

 「従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話を総合して聞きますと、民間の業者がそうした方々を軍とともに連れまわしているとか、そういうふうな状況でございまして、そうした実態について私ども政府としては調査をして結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております」

 

ちゃんとした調査をする前から「政府の関与はない」と断定していて、なんとも無責任な答弁である。

 

 本岡は語気を強める。「どこまで責任を持ってやろうとしているのか、全然わからへん。わからへんでね、これだけ重大な問題を。だめだ。やる気があるのか。責任もって答弁させてくださいよ、大臣の方で」

 

 その結果、坂本官房長官は「政府は労働省を中心に関係省庁協力して調査いたしますので、なお時間をいただきたいと思います」と答えている。(参議院議事録より)

 

 

 

 「慰安婦」をめぐる国会の質疑はその後も続いた。

 

 827日にも参院予算委員会で、社会党の清水澄子議員が質問し、「政府レベルの請求権は日韓条約で解決しているが、個人の請求権が(韓国の)国内法的な意味で消滅したものではない」という答弁を外務省条約局長から引き出している。

 

 この国会のやり取りを日本の運動団体が韓国側に知らせたことで、韓国でも大きな反発が広がる。

 

 1017日には、韓国教会女子連合会、韓国女性団体連合会など37女性団体が海部首相に6項目要求の公開書簡を提出した。ここに「慰安婦」問題は日韓関係の主要な争点の一つとして浮上することになった。1116日には「慰安婦」問題に取り組む各団体の連合体として韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が結成され、尹が共同代表に就任した。

 

 

 

 こうした経緯をみると、「慰安婦」問題は、本岡の質問に対する政府委員のずさんな国会答弁がきっかけで政治問題になったことは明白である。

 

 本岡も自著で、振り返っている。

 

 「一九九〇年六月の参議院予算委員会で、私が従軍慰安婦および朝鮮人強制連行問題などを取り上げたことがきっかけとなり、朝鮮に対する日本の戦争責任が、きびしく問い直されるところとなった。韓国では、三六の女性団体が韓国挺身隊問題対策協議会を結成し、日本国内では、二〇年ぶりに朝鮮人強制連行真相調査団が活動を再開し、隠された事実を明らかにしている。さらに、戦時中、強制的に従軍慰安婦にされた女性たちが、その筆舌に尽くしがたい体験を証言してくれた。」(注10

 

 

 

 この時期に「慰安婦」問題が国会で集中的に取り上げられたのは、本岡、竹村、清水ら各議員がそれぞれ強制連行や市民運動、女性運動などに関わる中で「慰安婦」問題に関心を抱いていたからである。同時に、社会党の「知恵袋」のような存在であった同党政策審議会が「慰安婦」問題について独自の調査を進めており、その成果を国会の各委員会の質問日程に合わせて反映させていた面もあるという。同党政策審議会スタッフの一人で、後に本岡の初代の政策秘書になった中大路為弘が筆者とのインタビューで、その準備の舞台裏を明かしている。

 

 

 

 「予算委員会の準備で、国会図書館などから集めた資料を一か月かけて読み込んでいった。強制連行の資料を整理していると、(女性の名前が)ふわっと出てくる。まともな資料とはいいがたいものもあった。そのまま放置しておけば消えてしまう。それを消さないようにするには、どうするか。それを消さないようにしようと、本岡さんの質問に取り上げてもらうことになった」(注11

 

 

 

 韓国で大きな反響をよんだ906月の参議院予算委員会のやり取りは、どう報じられたのだろうか?

 

 縮刷版をみると、毎日新聞、読売新聞では記事になっていないようだ。この国会質疑の記事が確認できたのは朝日新聞のみだった。その記事も夕刊2面の「ベタ記事」であり、見出しは「強制連行、調査を約束」である。

 

 国会という政治の表舞台で初めて取り上げられても、「慰安婦」は記事の見出しにならなかったのだ。

 

 

 

3.縮刷版で「見出し」に

 

 では、主要紙が「慰安婦」問題を継続的に記事として報じるようになったのは、いつからなのだろうか?

 

 手掛かりとして、各紙が毎月、東京本社発行の最終版の紙面をまとめて発行している『縮刷版』を読み直してみた。デジタル時代に突入してから記事検索はパソコンで自在にできるようになったが、それまでは過去の記事を調べる手段は『縮刷版』しかなかった。記者にとって縮刷版に自らの書いた記事を残すことが誇りであり、新人記者は「縮刷版に残る記事を書け」と先輩から聞かされたものだった。

 

 縮刷版は冒頭に記事索引をつけて、毎月の膨大な数のニュースを政治、経済、社会などの分野ごとに項目をたてて整理している。

 

 「慰安婦」についての記事が掲載されても、縮刷版に記事検索の見出しがなければ、「戦争関係」「強制連行」など他の項目に含まれることになる。逆に、「慰安婦」について記事が何度も掲載されて継続的になる場合は、索引に見出しを立てるようになるのだ。だから、縮刷版の記事索引に項目として「見出しが立つ」ということは、そのトピックについて新聞メディアによる「認知」が行われたことになる、と考えた。

 

 

 

 朝日新聞縮刷版で、「従軍慰安婦」という項目が初めて記事検索の見出しになるのは19917月号である。そこには次の記事の見出しが並んでいる。

 

 718日付夕刊2社面「朝鮮人従軍慰安婦問題に光を/日韓で女性団体、補償など要求」

 

 同    「水くみの途中に連行、戦況悪化で兵隊凶暴に元慰安婦証言」     

 

 31日付朝刊2社面「朝鮮人慰安婦問題南北共同で補償要求シンポで合意」

 

 

 

 最初の記事は夕刊第2社会面のトップで、「慰安婦」問題に取り組む日韓両国の団体のさまざまな動きを網羅的にまとめて報告している。見出しも「朝鮮人従軍慰安婦問題」をズバリ掲げている。それまで単発に終わっていた「慰安婦」報道に本腰をいれて取り組むという意気込みを感じさせるような記事である。

 

 2本目の記事はタイ在住の元「慰安婦」の証言をまとめたもの。末尾に(資料集『私たちは忘れない朝鮮人従軍慰安婦』などから)と明記されており、一本目の記事につけるサイドである。

 

最初の記事は、大阪本社夕刊の社会面トップ「朝鮮人の従軍慰安婦問題/掘り起こしへ女性の輪/韓国・日本政府に謝罪要求/日本・証言集めや冊子つくり」と同じ内容だが、大阪の記事は尹の神戸のシンポでの演説や長野県の元慰安所の写真を2枚も使っていて扱いがずっと大きく、外務省北東アジア課長の談話もつけられている。大阪が出稿した記事を、東京で短縮して掲載したことが明らかだ。

 

 全国紙は東京、大阪、名古屋、福岡など発行本社ごとに独自の紙面編集をしているから、同じ新聞でも東京と大阪の紙面が異なるのは珍しいことではない。ただ縮刷版には東京本社最終版の紙面だけしか収録されない。

 

 この記事が珍しいのは、東京の記事が大阪からの写真や談話を削っている代わりに、大阪にはない「元慰安婦の証言」をサイド記事として付けている点だ。

 

 当時の社会部デスクらに尋ねたが、この記事が掲載された経緯は確認できなかった。大阪社会部が尹代表の来日講演(神戸、東京)に合わせて出稿。記事を受けた東京社会部は、写真の代わりに「元慰安婦の証言」を付けることで独自色をだそうとしたのだろう。

 

 3本目の「慰安婦」関連記事はソウル発である。

 

 731日付「朝鮮人慰安婦問題南北共同で補償要求シンポで合意」

 

【ソウル29日=小田川興】のクレジットで「5月に来日して国際シンポジウムに参加した挺対協の尹代表が、南北共同で日本政府に対し、朝鮮人慰安婦の補償を要求することで合意したことを明らかにした」と伝えている。

 

 この時期は冷戦の終結を受けて、日朝間でも国交正常化交渉が始まっていた。「慰安婦」問題は北朝鮮も対日賠償請求の一環として取り上げる意向を示していたから、南北が共同歩調をとる動きがあることはインパクトのある「ニュース」だった。

 

 

 

4.ドラマの幕あけ

 

 これら3本の記事が掲載されている7月に、ソウルではひっそりとドラマが始まっていた。

 

元「慰安婦」がついに名乗り出たのだ。当時67歳だった金学順が挺対協の事務所を訪ねてきた様子は、以下のように記録されている。

 

 

 

 「19917月、広島「原爆の日」の行事を準備しながら、被爆者2世が反戦・反核・平和マダン劇を練習していたある日、被爆者のイ・メンヒさんがハルモニを一人連れてきた。ユン・ヨンエ総務に目配せをして『この人があなたたちの探していた、まさしくその人挺身隊のハルモニよ』と知らせてくれた。」(注12)

 

 

 

 この「イ・メンヒさん」と金さんの関係について、在韓被爆者問題を長年追ってきたジャーナリスト市場淳子は、詳しく書いている。

 

 「金学順さんの重大決心をうながしたのは、当時、失業対策事業でともに働いていた李孟姫さんだった。李さんは、(抗議の)服毒自殺未遂後も、痛む体と病気の子供と貧困の苦悩を抱えて、失対事業に出ていた。その李さんが、被爆者としての凄惨な体験、40億円で被爆者を切り捨てようとする日本政府への怒りを、金学順さんに語って聞かせた。そのことが、日本政府の嘘にやり場のない怒りを感じていた金さんに、名乗りを上げる勇断をくださせたという。」(注13

 

 

 

 最初に名乗り出た韓国在住の元「慰安婦」を連れてきたのは、韓国人の女性被爆者であった。

 

日本政府が在韓被爆者に対して「補償」ではなく、「人道支援」として40億円を支出することを決めたことに「被爆者の切り捨てだ」と抗議して、ソウルの日本大使館前で服毒自殺を試みた人物だった。その怒りが、職場仲間であった金学順にも伝わっていったことだろう。日本の国会での政府答弁についても、李から聞かされたと思われる。

 

 マダンとは「広場」を意味する。マダン劇は、「伝統的な仮面劇の継承が民衆文化運動として取り上げられたことから発展し、1970年代に盛んとなった。以後、タルチュルム(仮面戯)の研究会が各大学に設けられ、さらに民主化のための演劇運動へと発展した」(ブリタニカ国際大百科事典)という。

 

 被爆者に導かれて、名乗り出ることを決意した元「慰安婦」。その二人を出迎えるかのように、被爆二世の若者たちが民衆のマダン劇で『反戦・反核・平和』を訴えていたのは、象徴的な光景である。

 

 

 

 金学順の登場から10日後に朝日新聞に掲載されたのが「朝鮮人慰安婦問題南北共同で補償要求シンポで合意」という前述のソウル発の記事である。その取材の際に、尹が「元慰安婦が名乗り出てきている」と話し、小田川がソウル支局に戻ったところへ大阪社会部員で韓国留学組の植村隆から別件で電話がかかってきたので、「ソウルにいる元朝鮮人従軍慰安婦が語り始めたらしい。取材に来たらどうかね」と誘った。留学中に韓国の民主化の動きを現場で体験していた植村は、それまでも在日韓国人政治犯の釈放などの取材でソウル出張を重ねていた。1年前にも大阪社会部の夏の「平和企画」で「慰安婦」を取材しようとして訪韓。2週間にわたって韓国各地をまわったが、見つけることができずに終わっていた。

 

 

 

 ソウルに飛んできた植村に対して、尹はこう明かした。

 

 「解放後、戦場から帰国する韓国人の名簿が最近見つかり、女性らしい名前も多数あった。慰安婦ではないかと思い、その名簿をもとに地方へ調査に行ってきたけれど、名簿で女性だと思っていた人は全員男性でした。誤記されていたようです」

 

 尹が語った「戦場から帰国する韓国人の名簿」というのは、前年の国会質問で「慰安婦」を取り上げた本岡が入手した名簿だったとみられる。9089日付の朝日新聞夕刊に「朝鮮人従軍慰安婦、新たなリストか147人国会図書館で発見」という記事が掲載され、「国会図書館のGHQ文書から慰安婦リストを本岡昭次議員が確認した」と報じている。本岡は9141日の参議院予算委員会で、このGHQ資料を示しながら、「強制連行で朝鮮人女性たちを戦地へ送ったことは明らか。政府はこうした問題についても調査して謝罪・補償すべきだ」と追及。海部首相も調査を約束していた。

 

 

 

 元「慰安婦」のプライバシー保護のため、「名前も発表せず、本人に直接会わない」という条件で、植村は挺対協が録音した証言テープを聴かせてもらった。

 

 その記事は「思い出すと今も涙/元朝鮮人従軍慰安婦戦後半世紀重い口開く/韓国の団体聞き取り」という見出しで、91811日付の大阪本社版の社会面トップを飾った。植村にとっては2年がかりの取材だった。だが、この記事は東京本社版では丸1日遅れて12日付の掲載になっている。今日、縮刷版に残るのはこの東京本社版だ。見出しは「慰安婦の痛み、切々と/韓国で聞き取り」。字数は半分近くにカットされて、写真もない第2社会面の囲み風の記事になっている。

 

なぜ東京の紙面では、こうした扱いになったのだろうか?

 

 11日付けの東京本社版には「日本政府へ賠償請求へ朝鮮人BC級戦犯と遺族近く提訴、『戦争責任を肩代わり』」という「特ダネ」が写真つきで扱われている。同じく「戦後責任」がテーマであり、匿名のテープを聞いただけの大阪社会部の記事よりも「ニュース性が高い」と東京の社会部デスクが判断したことは想像に難くない。

 

 

 

 7月以降の縮刷版を通して読んでいくと、記事が小さくなった、もう一つの理由に気付く。

 

 すでにみたように、718日付夕刊に掲載された「朝鮮人従軍慰安婦問題に光を/日韓で女性団体、補償など要求」という記事には、「水くみの途中に連行、戦況悪化で兵隊凶暴に元慰安婦証言」というサイド記事が付いていた。大阪の記事にはない、東京側の編集である。

 

 この記事は、資料集『私たちは忘れない朝鮮人従軍慰安婦』などからの引用であることが明記されているが、これは1984年に松井特派員がシンガポール発で報じていた「元慰安婦証言」とほぼ同一である。

 

 つまり、植村がテープ証言を報じる約1か月前に、東京の紙面では松井が過去に取材した「元慰安婦の証言」が掲載されていたことになる。もちろん韓国の生存者の新たな証言と、記録集に収められている過去の証言の引用では、その重みは違うはずだ。だが「ニュースの既視感」をなにより嫌うデスクにとっては、「韓国在住の元慰安婦の新たな証言」であっても、同じ「元慰安婦証言」を再び大きく扱う気にならなかったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

第4章 北海道新聞の単独会見

 

1.逃した新聞協会賞

 

 19917月に挺隊協に名乗り出た金学順について、朝日新聞大阪社会部の植村はその証言のテープを聞いて報道した。だが、プライバシー保護のため本人には取材しないという条件つきだったこともあり、匿名のままだった。そのため、せっかくの「特ダネ」もインパクトを欠いており、紙面の扱いも今一つだった。実際、植村の記事は、韓国メディアに一切転電されず、韓国では報じられることもなかったという。(注14

 

 

 

 金学順本人に最初にインタビューした記者は、北海道新聞(道新)の初代ソウル特派員喜多義憲だった。社会部記者として大きな話題となったサハリン残留韓国人の帰国問題を取材した経験もあった。

 

 

 

 この単独会見は、91815日付の道新で「日本政府は責任を/韓国の元慰安婦が名乗り」「わけわからぬまま徴用、死ぬほどの毎日、賠償請求も」という見出しで、社会面トップに掲載された。

 

 喜多は、金学順が名乗り出てきた時の様子も再現している。818日付の「開戦から50年第一部アジア・太平洋は今」「もう一つの強制連行思い元慰安婦の告発、次々に浮上する民間訴訟」にはこう書かれている。13

 

 

 

 「先月下旬、・・・(中略)・・・中年の女性に伴われた小柄なハルモニ(おばあさん)が前触れもなく現れた。応対した韓国人女子挺身隊(従軍慰安婦)問題担当の事務局員方淑子さんは、広島の被爆体験を持つこの中年女性とは顔見知りだった。しかし、初対面のハルモニが「私は挺身隊だった」と切り出した言葉に、思わず息をのんだ」

 

 

 

 道新は、この報道で新聞協会賞を申請している。新聞協会賞は放送各社を含めた日本の報道界、ジャーナリズムにとって最も権威ある賞とされており、米国の「ピュリッツアー賞」の日本版という位置づけだ。ところが、最終選考まで残ったものの受賞を逃している。「続報に他紙を圧倒するものがなかった」という理由だったという。(ちなみに、1991年度新聞協会賞の編集部門は、日本経済新聞証券部の「4大証券損失補てん先リスト特報」だった)

 

 

 

2.記者会見も報道されず

 

 金学順は814日午後、北海道新聞との単独会見の後に、挺対協の事務所で共同記者会見も開いた。

 

 だが朝日、毎日、読売の日本の3紙でソウル発の記事を載せたところはない。朝日新聞は大阪本社にもどっていた植村がソウルの尹に電話取材して、ソウル支局から韓国紙の記事をファクスで送ってもらい、以下の短い続報を大阪本社版の15日付夕刊に出稿しただけである。

 

 「韓国の『韓国挺身隊問題対策協議会』(尹貞玉・共同代表)が聞き取り調査している元従軍慰安婦(女子挺身隊)の女性が14日午後、ソウル市内で、実名を出して証言した。同夜のテレビニュースで流され、15日朝の韓国の新聞各紙に大きく報道されるなど反響が広がっている」

 

 共同通信は、この日の会見を「昼は重労働、夜は慰安強要/元朝鮮人慰安婦が告発」という見出しで以下のように報じている。これも韓国紙による報道の転電となっている。

 

 

 

【ソウル15日共同】「十六歳のころ、昼は弾薬運搬や炊事、洗濯、看護婦としてこき使われ、夜は日本兵相手に慰安行為をさせられた」。第二次大戦中に朝鮮人従軍慰安婦として恥辱の体験をした女性が戦後四十六年間の沈黙を破り「生き証人」として日本軍の罪状を告発した。十五日、韓国各紙が報じたところによると、この女性はソウル市鍾路区忠信洞に住む金学順さん(67)。十四日、記者会見し、悲惨な体験を明らかにした」

 

 

 

 韓国では、当日夜のテレビニュースや翌日の新聞で一斉に報道された。

 

 「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(『東亜日報』)、「私は挺身隊だった」(『中央日報』)、「挺身隊の生き証人として堂々と」(『韓国日報』)などと大見出しが並んだ。『京郷新聞』は「戦線のおもちゃ、踏みにじられた17歳/挺身隊として連行された金学順ハルモニ涙の暴露」と報じている。

 

 それまでも韓国では、「慰安婦」の存在は報じられていた。しかし、足元でひっそり暮らしていた「慰安婦」が名乗り出たことには大きな衝撃を受けたことがうかがわれる。

 

 『ハンギョレ新聞』で、この記者会見をカバーしたのは女性部のキム・ミギョン記者だった。

 

ソウルで筆者らのインタビューに答えたキムによると、「このニュースは本来なら社会部や政治部のベテラン記者が書くべきだったが、社内では女性部に任せるという雰囲気だった。記事の扱いもよくなかった」と指摘している。記事に対して「こんな記事を読むのは恥ずかしい」という否定的な読者の声もあって残念な思いをしたという。(注15

 

 韓国のメディアにも、世論にも、元「慰安婦」の告白をどう受け止めるか、とまどいがあったことを物語っている。

 

 

 

 

 

おわりに

 

 自ら名乗り出た金学順だったが、8月のソウルでの記者会見も日本の主要3紙は記事にしなかった。

 

 結局、金らが日本政府を相手取って裁判に訴えることになって、ようやく日本メディアの「取材合戦」が始まることになる。

 

 朝日新聞ではソウル発で植村が1991819日付夕刊の第2社会面で、「元朝鮮人慰安婦が補償求め提訴へ」と報じている。訴訟の準備で訪韓した弁護士や市民グループが行った被害実態の聞き取り調査の内容を報じたものだ。「これまで従軍慰安婦体験者が裁判を起こした例はなく、『昭和史の暗部』がはじめて法廷に持ち出されることになる」と意味づけを述べている。

 

 その直前の89日、国連の安全保障理事会は、南北朝鮮の同時加盟を一括して認める決議案を採択した。南北関係が激動して、記者二人のソウル支局は忙殺された。目まぐるしい日々の動きを刻々と追い続ける特派員たちは、慰安婦問題までは「とても手が回らない状態だった」。そこに「准支局員」扱いだった植村が大阪本社から応援にきてくれたことは、ソウル支局長には「大助り」だったという。(注16

 

 毎日新聞も提訴前の123日付夕刊で「元従軍慰安婦ら35人補償請求へ」とソウル発の共同電を掲載している。人々の大きな関心を呼ぶ事件やイベントについて事前に報じる「前触れ」記事である。

 

 

 

 今日では「慰安婦裁判」と記憶されている9112月の金学順らの提訴だが、原告は「韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会」の金鐘大(キム・チョンデ)会長ら35人だった。その内訳をみると、元軍人が11人(うち遺族5人)、元軍属21人(同11人)で、元日本軍「慰安婦」は3人だけ。その3人のうち2人は匿名のままで、カメラのフラッシュをあびながら記者会見に臨んだのは、金学順一人だった。

 

 記者会見の写真をみても、一行は「戦後処理裁判原告団」というたすきをかけていて、金学順は「太平洋戦争犠牲者」となっている。

 

 しかし、メディアの注目は白いチマチョゴリに身を包んだ金学順に集中した。金は「身寄りもいないので、名前が出ても構わない」と述べている。

 

 126日付夕刊各紙は、「元慰安婦ら日本政府を訴え/補償求めて韓国の35人『人道への罪』問う」(朝日・一面)、「韓国人慰安婦ら提訴/日本に補償7億円求める」(読売・社会面)、「日本は一人に2000万円払え/“強制動員で集団提訴/元従軍慰安婦ら35人」(毎日・社会面)と、そろって「慰安婦」を見出しにとっている。

 

 当事者は「太平洋戦争犠牲者」を名乗っていた。しかし、各紙とも「元慰安婦」が提訴したことに、より大きなニュース価値を見い出して、「朝鮮半島出身の元従軍慰安婦が日本の戦後責任を問いかけた裁判は初めて」(毎日)などとニュースの意味づけをしたのだ。

 

 「私の青春を返してほしい」という金学順の記者会見の言葉もそろって伝えている。ハンカチで目頭を押さえる金の姿はテレビニュースでも大きく報道された。

 

 この日を境に「慰安婦」は日本が向き合うべき「問題」としてニュースが続くようになった。

 

実際、宮沢喜一首相の訪韓があったこともあり、92年1月の縮刷版では毎日、読売も記事索引に【従軍慰安婦問題】の項目を立てるようになり、毎日は24本、読売は9本の記事を並べている。

 

戦後も長くニュースにならず、なっても「話題もの」扱いされてきた「慰安婦」は、その当事者が来日してカメラの前に身をさらして訴え出たことで、ようやく「見出し」の立つ存在になったのだ。

 

 

 

 ここまでの大きな見取り図を描くなら、戦後の廃娼運動の流れを汲み、1970年代から「キーセン買春観光」反対を唱えていた日本と韓国のキリスト教団体や女性運動の活動強制連行など日本の戦後責任・戦後補償を実現させようとしていた日本の政治家・弁護士らのグループの活動――という、一部で重なりながらも独立した二つのベクトルが、それぞれ「慰安婦」に光をあてようと試みて、リレーのバトンの受け渡しのように連動・共鳴しあうなかで、金学順が名乗りでる場を準備したと言える。

 

 そして、その動きを日本人記者たちがキャッチできたのは、それぞれが在韓被爆者問題や在日韓国人政治犯問題、サハリン残留韓国人問題などに取り組んだ経験があり、その取材で築いてきた人脈と信頼関係があったからだった。

 

 2017年現在も、「慰安婦」問題は日韓関係のホットイッシューのままであり、論争は過熱する一方だ。ゆがんだナショナリズムのはけ口にされている「慰安婦問題」だが、その出発点に立ち戻って、問題の経緯を再確認することが求められているのではないだろうか。

 

(みずの・たかあき)

 

 

 

1 鹿内信隆・櫻田武著『いま明かす戦後秘史上』(サンケイ出版、1983年)p40

 

2 『戦争責任研究』第852015p29

 

3 岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』岩波新書1965p154

 

4 千田夏光『従軍慰安婦』双葉社1973年まえがき

 

5 「証言から見えた「慰安婦」被害者の戦後」(女たちの21世紀No.82)p21

 

注6 山谷哲夫『沖縄のハルモニ大日本売春史』(晩聲社、1979年)p197

 

注7 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)編『松井やより全仕事』(2006年)p23

 

注8 池田恵理子「テレビで放映された慰安婦問題」

 

9 尹貞玉『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』(三一書房1992815日)p11

 

10 国際人権研究会編『慰安婦・強制連行責任と償い日本の戦後補償への国際法と国連の対応』(新泉社1993年)p1

 

11 筆者による中大路為弘インタビュー20175

 

12 『挺対協20年史』より、植村隆『真実私は「捏造記者」ではない』(岩波書店2016年)p47

 

13 市場淳子『ヒロシマを持ちかえった人々「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』(凱風社2000年、増補版05年)p93

 

14 『真実』p45

 

15 筆者によるキム・ミギョン記者インタビュー 20173

 

16 筆者による元朝日新聞ソウル支局長インタビュー

 

 

 

参考文献など

 

伊藤桂一『悲しき戦記』(新潮社1963年)『兵隊たちの陸軍史』(番町書房1969年、新潮文庫2008年)

 

城田すず子『マリアの賛歌』(日本基督教団出版局1971年)

 

千田夏光『従軍慰安婦声なき女八万人の告発』(双葉社1973年、講談社文庫版1984年)

 

金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房1976年)

 

吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社1977年)『私の戦争犯罪朝鮮人連行』(三一書房1983年)

 

松浦敬紀編『終わりなき海軍・・若い世代に伝えたい』(文化放送1978年)

 

山谷哲夫『沖縄のハルモニ大日本売春史』(晩聲社、1979年)

 

ドウス昌代『敗者の贈物特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』(講談社1979年)

 

前川恵司『韓国・朝鮮人』(創樹社、1981)

 

鹿内信隆・櫻田武著『いま明かす戦後秘史上』(サンケイ出版、1983年)

 

臼杵敬子『現代の慰安婦たち――軍隊慰安婦からジャパゆきさんまで』(現代史出版会1983年)

 

松井やより『魂にふれるアジア』(朝日新聞社1985年)

 

川田文子『赤瓦の家朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房1987)

 

植村隆「改めて日本に突きつけられた朝鮮人従軍慰安婦問題・夏の取材ノートから」(『MILE199111月号)『真実私は「捏造記者」ではない』(岩波書店2016年)

 

本岡昭次・中大路為弘『世界が見つめる日本の人権』(新泉社1991)

 

国際人権研究会編『慰安婦・強制連行責任と償い日本の戦後補償への国際法と国連の対応』(新泉社1993年)

 

鈴木裕子『朝鮮人従軍慰安婦』(岩波ブックレット1991年)、同『従軍慰安婦・内鮮結婚』(未来社1992年)

 

朝日新聞社編『女たちの太平洋戦争』(1991年、朝日文庫版1996年)

 

日本社会党女性局『日本の戦後責任と従軍慰安婦問題――1116女性シンポジウム報告』(199112月)

 

福地曠昭『オキナワ戦の女たち朝鮮人従軍慰安婦』(海風社1992年)

 

尹貞玉『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』(三一書房1992815日)

 

吉見義明『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)『従軍慰安婦』(岩波新書1995年)

 

西野留美子『従軍慰安婦元兵士たちの証言』(明石書店1992年)

 

上杉千年『検証従軍慰安婦従軍慰安婦問題入門』(全貌社1993年)

 

林えいだい『妻たちの強制連行』(風媒社1994年)

 

林博史・構成「戦争体験記・部隊史にみる「従軍慰安婦」」(季刊・戦争責任研究第51994年秋号)

 

平岡敬『希望のヒロシマ』(岩波新書1996年)

 

朝日新聞戦後補償問題取材班『戦後補償とは何か』(朝日文庫1996年)

 

大沼保昭・下村満子・和田春樹『「慰安婦問題」とアジア女性基金』(東信堂、1998年)

 

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書1999年)

 

戸塚悦朗『日本が知らない戦争責任国連の人権活動と日本軍「慰安婦」問題』(現代人文社1999年)

 

市場淳子『ヒロシマを持ちかえった人々「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』(凱風社2000年、増補版05年)

 

石田雅春「韓国人・朝鮮人被爆者問題と新聞報道昭和40 年から平成2 年までを中心に」(広島大学2008年)

 

保阪正康ほか『メディアの迷走朝日・NHK論争事件』(中公新書ラクレ2005年)

 

アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)編『松井やより全仕事』(2006年)

 

黒田勝弘・市川速水『朝日vs.産経ソウル発』(朝日新書2006年)

 

大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』(中公新書2007年)

 

坪川宏子/大森典子『司法が認定した日本軍「慰安婦」』(かもがわ出版2011年)

 

鈴木裕子『日本軍「慰安婦」問題と「国民基金」』(梨の木社、2013年)

 

山本健太郎「従軍慰安婦問題の経緯河野談話をめぐる動きを中心に」『レファレンス』(国立国会図書館調査及び立法考査局2013年)

 

朝日新聞社第三者委員会報告書(20141222日)

 

産経新聞社『歴史戦』(2014年)

 

文藝春秋社編『「従軍慰安婦」朝日新聞vs.文藝春秋』(文春新書2014年)

 

読売新聞編集局『徹底検証:朝日「慰安婦」報道』(中公新書ラクレ2014年)

 

青木理『抵抗の拠点から朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(講談社2014年)

 

吉方べき「韓国における過去の「慰安婦言説」を探る」上下『季刊・戦争責任研究』8586号20152016年)

 

朝日新聞記者有志『朝日新聞日本型組織の崩壊』(文春新書2015年)

 

徳山喜雄『「朝日新聞」問題』(集英社新書2015年)

 

植村隆『真実』(岩波書店、2016年)

 

マーティン・ファクラー『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』(双葉社2016年)

 

『週刊金曜日』編『検証:産経新聞報道』(金曜日2017年)

 

 

 

定期刊行物

 

朝日新聞縮刷版毎日新聞縮刷版読売新聞縮刷版北海道新聞縮刷版

 

『朝日新聞の重要紙面1991年』、『Journalism』(朝日新聞社)季刊『戦争責任研究』、『週刊金曜日』

 

 

 

シンポ・講演・研究会など

 

池田恵理子「テレビで放映された慰安婦問題」(2017212日、メデャア総合研究所公開シンポ資料)

 

小田川興「朝鮮半島取材40余年」日本記者クラブHP201211

 

https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/25070201792日閲覧)

 

外村大「「吉田証言」から考える歴史研究・市民社会の認識の問題点」(2014926日)

 

「女子勤労挺身隊と慰安婦の連行」(同109日)

 

水野孝昭「再燃する慰安婦問題・・・戦後のアイデンティティーをめぐる論争」

 

2015131日平和構築研究会)

 

「捏造記者の捏造・・・植村訴訟が問いかけるもの」(マイノリティー研究会2015年)

 

「戦場ジャーナリストの出発点:岡村昭彦の部落解放運動」(AKIHIKOの会2016年)

 

吉方べき「韓国における過去の『慰安婦』言説を検証する」201511

 

菱木一美『不都合な真実を掘り起こした二人の記者『従軍慰安婦』『朝鮮人被爆者』報道の接点』2017712日植村東京訴訟第9回報告集会)

 

 

 

聞き取り

 

植村隆・朝日新聞元ソウル支局員20148

 

朝日新聞元ソウル支局長20156月、179月元ソウル支局員20151

 

大阪本社社会部次長(199010月~918月)20159

 

キン・ミギョン元ハンギョレ新聞記者2017329

中大路為弘・元社会党政策審議会スタッフ、本岡昭次参議院議員政策秘書20175