捏造ではない――その根拠 陳述書・意見書 2
能川元一氏陳述書 全文
陳 述 書
2018年7月30日
能川元一
本件に関わる日本軍「慰安婦」が問題化した経緯、原告植村隆さん執筆の1991年8月11日付け記事(甲1)、1991年12月25日付け記事(甲2)、および日本軍「慰安所」制度に関する研究の歴史と現状について、および前記各項に関する被告西岡力さんの主張について、以下の通り申し述べます。
一、「慰安婦」問題および植村隆さんとのかかわり
私は1988年に大阪外国語大学(現大阪大学)外国語学部フランス語科を卒業後、大阪大学大学院人間科学研究科人間学専攻に入学、1996年3月に同大学院の博士後期課程を単位取得退学いたしました。1996年4月から2007年3月まで同大学院に助手として勤務、現在は神戸学院大学などで非常勤講師をしています。当初は主に言語哲学を専門としていましたが、以下に述べるような経緯で近年は保守系メディアにおける歴史認識などをめぐる言説を研究対象としています。
日本では2004年ころからインターネットの「ブログ(ウェッブログ)」と呼ばれるサービスが急速に普及し、一般の人々が様々な話題について気軽に情報発信を行うようになりました。それにともなって、在日コリアンなどに対する差別意識を顕わにした情報発信(ヘイトスピーチ)を行うブログが多数存在していること、またそうしたブログはしばしば日本の近現代史について歴史学の通説とは異なる主張(以下、歴史学の通説を否認する主張という意味で「否認論」と呼ぶことにします)を行っていることに気づき、憂慮するようになりました。
当初はインターネットの一ユーザーとして、差別発言をたしなめたり、歴史学の通説がどのようなものであるかを指摘する程度だったのですが、2007年ころから本格的に自らの研究対象とすることを考えるようになりました。その第一の理由は、否認論を唱える人々が歴史学の通説について無知であるわけではなく、積極的に否認論を選びとっていることがわかってきたことです。単に歴史学者による啓発では効果がなく、彼らがなぜ否認論を信じるのかを明らかにする必要があり、それは哲学研究者が取り組むべき課題であると考えたのです。第二の理由は、疑似科学を専門とするアメリカ人科学ジャーナリストのマイクル・シャーマーが著書『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(上下巻、ハヤカワ文庫)において、ホロコースト否定論を疑似科学の一種としてとりあげているのを知っていたこと、です。哲学には科学哲学と呼ばれる下位分野があり、大学院時代に多少の教育を受けておりましたので、そうした経験を活かすことができるのではないかと考えたからです。
『季刊 戦争責任研究』2007年冬期号に掲載された「南京事件否定論とその受容の構造」(共著)、『現代の理論』2008年新春号に掲載された「「ネット右翼」の道徳概念システム」がこのような問題意識に基づいて執筆した最初の論考です。その後は研究対象をインターネット上の言説から月刊誌などの出版メディア上の言説にも広げ、主に『週刊金曜日』に否認論やヘイトスピーチに関する記事を寄稿してきた他、以下の著作で否認論をとりあげてきました。
・「右派のイデオロギーにおけるネット右翼の位置づけ—道徳概念システム論による分析の試み」、『レイシズムと外国人嫌悪』(駒井洋監修・小林真生編著)、明石書店、2013年
・『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(早川タダノリとの共著)、合同出版、2015年9月
・『海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う』(山口智美、テッサ・モーリス−スズキ、小山エミとの共著)、岩波書店、2016年
・「“歴史戦の決戦兵器”、「WGIP」論の現在」、『徹底検証 日本の右傾化』(塚田穂高編著)、筑摩選書、2017年
・「『産経新聞』の“戦歴” 「歴史戦」の過去・現在・未来」、『検証 産経新聞報道』(『週刊金曜日』編)、金曜日、2017年
『朝日新聞』が「慰安婦」問題に関する過去の自社報道を検証する記事を掲載し、過去の記事の一部を取り消した2014年8月5日のおよそ一ヶ月前、2014年7月4日に発行された『週刊金曜日』に、私は「右派の『慰安婦』問題歪曲の卑劣」と題する記事を寄稿しました。これは日本軍「慰安婦」問題が『朝日新聞』の“誤報”によって“捏造”されたものだとする主張に反論したものです。また、2014年10月に刊行された『Q&A 「慰安婦」・強制・性奴隷 あなたの疑問に答えます』(日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編、吉見義明・西野瑠美子・林博史・金富子責任編集、御茶の水書房)は2013年8月に開設されたウェブサイト、「Fight For Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任」(http://fightforjustice.info/)のQ&Aをベースにしたものですが、書籍版のQ13「日本軍「慰安婦」問題は『朝日新聞』のねつ造?」およびウェブ版のQ&A3-4「「慰安婦」問題は『朝日新聞』の捏造?」はいずれも私が草稿を書いたものです(『Q&A 「慰安婦」・強制・性奴隷 あなたの疑問に答えます』の奥付で「執筆協力」として私の名前が挙げられているのはそのためです)。
私はこれらの原稿のなかで植村隆さんが執筆した金学順さんについての記事にも言及し、「慰安婦」と「女子挺身隊」との混同は他社の「慰安婦」報道にも例があることを指摘しました。また、金学順さんが「キーセン学校」に通ったという経歴は金学順さんが日本軍から受けた被害とは無関係であり、記事で触れる必要のない事柄であること、東京地裁への提訴を伝える91年12月6日の全国5紙の夕刊すべてが「キーセン学校」通学歴に触れていないことを指摘しました。
これらの原稿を書いたのは『朝日新聞』が検証記事を掲載した2014年8月5日以前のことであり、執筆当時私は『朝日新聞』がそのような記事を掲載する予定であることを知りませんでしたし、植村隆さんとは面識もありませんでした。『週刊金曜日』2014年7月4日号の拙稿が植村さんの目にとまったことがきっかけで、同年の11月に初めて対面する機会を得ました。ですから、これらの原稿は植村隆さんや『朝日新聞』を擁護するために書いたものではなく、日本軍「慰安婦」問題が問題として認知されてゆく過程についての誤解を正したいと思って書いたものです。植村隆さんをことさら擁護しようとする意図がなかったために、前述の原稿はいずれも当該記事が植村隆さんによって執筆されたものであるということには触れていません。またこれらの原稿における私の主張と『朝日新聞』の主張には一致点がありますが、私は『朝日新聞』とはまったく独立にそうした結論に達したのだということを、強調しておきたいと思います。
私は歴史学の研究者ではありませんので、日本の近現代史における史実については歴史学者の間でコンセンサスとなっている見解にそのまま従っています。私が研究者として明らかにしようとしてきたのは、否認論の言説がどのような構造をもっているのか、隠れた前提としてどのような信念があるのか、「家族」や「在日外国人」など他の話題についての言説と否認論がどのようにつながっているのか、などです。
二、「慰安婦」問題の歴史について
今日、日本軍「慰安婦」問題の歴史について、誤った主張が声高に語られています。植村隆さんに対するバッシングもそうした誤った理解を背景としています。そこで、日本軍の「慰安所」制度が問題として認識されるようになった経緯や植村バッシング、『朝日新聞』バッシングを戦後史のなかに位置づけておきたいと思います。
アジア・太平洋戦争や植民地支配によって日本が各国に与えた被害については、サンフランシスコ講和条約およびその後の個別の賠償交渉、日韓請求権条約、日中共同声明などにより、国と国との関係としてはひとまず決着しています。しかし冷戦を背景としてアメリカなどが日本の経済的負担の少ない解決を望んだこと、相手国側でも権威主義的な政府が経済成長を優先する意向を持っていたことなどが原因となり、各国の市民が心から納得する解決になったわけではありませんでした。昭和天皇が1971年に欧州各国を訪問した際、田中角栄首相が1974年にインドネシアを訪問した際に起きた抗議行動などは、戦後処理に関する各国市民の不満の現れだったということができます。
日本が経済大国として国際的な存在感を増すようになってくると、「過去の精算」が改めて課題として浮上することになります。歴史学者の吉田裕・一橋大学教授(当時:現同大学特任教授)は著書『日本人の戦争観 戦後史の中の受容』(岩波書店、1995年/岩波現代文庫、2005年)において中曽根政権の歴史認識問題に対する政策を評するなかで、「日本が「経済大国」のみならず「政治大国」としてもアジア地域の中で大きなリーダーシップを発揮するため」に、「侵略戦争の犠牲者となったアジア諸国の間に日本の政治・軍事大国化に対する強い警戒心が存在していることを重視し、そうした障害を除去するための「手段」として戦争責任の問題を「精算」しようとするアプローチ」が生まれてきたと指摘しています。また1980年代後半から90年代にかけての財界誌の誌面を分析した結果、「アジア諸国との関係の改善のためには、戦後処理の問題や戦争観のズレの問題が重要なポイントになっているという認識が、それなりに生まれてくる」「純然たる「経済の論理」の上からも、従来の政策の何らかの形での手直しが要請されるようになってきた」としています。
同じ時期に、市民運動の側からも、戦争体験を継承するそれまでの活動が被害体験(空襲など)に偏っていたのではないかという反省が行われるようになります。アジア各国の戦争被害者を日本に招いてその被害体験を聞く「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」が1986年に始まったことなどが代表的な事例です。
このように、動機や「なにをどこまで認め、どのように償うか」の認識については小さくない齟齬をはらんでいたとはいえ、1980年代後半から1990年代なかばの時期には、アジア・太平洋戦争や植民地支配という負の遺産について、従来よりも踏み込んだ取り組みをすべきだという点では、日本社会の各層の間に緩やかな合意が成立していたということができます。西岡力さんは1992年の著作『日韓誤解の深淵』で「現在戦前の日本の「悪業」の告発の先頭に立っている日本人たち」を「「反日」日本人」と呼んでいますが――そして後の著作『よくわかる慰安婦問題』(甲3)で「「反日」日本人」が自分の造語であることを誇っていますが――日本軍「慰安婦」についての植村隆さんの取材活動は、日本社会が全体として「過去の精算」に前向きな姿勢を見せていた時期に行われたものだったのです。
韓国において「慰安婦」問題が浮上してきたことについてはもう一つ、背景事情があります。代表的な被害者支援団体、「韓国挺身隊問題対策協議会」(2018年7月に他団体と組織を統合し「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」と改称)の母体となったのは、日本などからの買春ツアーを問題としてとりあげた女性団体でした。「反日」どころか、買春ツアーを外貨獲得策として位置づけていた韓国政府や韓国社会の男性中心主義への批判的な意識が、元「慰安婦」被害者の支援活動の原点にあったわけです。
さらに韓国の民主化(1987年)、冷戦の終結と昭和天皇の死去(1989年)、自由民主党の下野(1993年)などが、戦争責任問題をめぐる政治環境を大きく変化させることになります。日本軍「慰安婦」問題が浮上したのは、まさにこのような状況においてでした。
アジア・太平洋戦争の終結から元「慰安婦」被害者の告発まで半世紀近い時間を要したことをとらえて、そこに何らかの作為があるかのように主張する人がいます。しかしわたしたちはいま、過去の被害を訴えようとする複数の運動に立ち会っています。日本では優生保護法下で受けさせられた不妊手術に対する補償を求めて訴訟を提起した人々がおり(最初に提訴した女性が被害を受けたのはまさに半世紀前でした)、国際的には過去の性暴力被害を告発する女性たちの “MeToo” 運動が広がりを見せています。性に関わる被害を訴え出ることはとりわけ困難を伴うものであり、被害者が語り始めるまでに長い時間を要したことはまったく不思議なことではありません。
私は先にあげた著書『海を渡る「慰安婦」問題』において、西岡力さんも度々寄稿している『正論』や同誌に近い論調の月刊誌における、「慰安婦」問題の扱い方を分析しました。その結果明らかになったのは、1996、7年を境としてこの問題の扱いが大きく変化していることです。1990年代の半ばまで、92年の宮沢首相訪韓、93年の河野談話発表、95年のアジア女性基金発足といった「慰安婦」問題の節目をなす出来事に対して、『正論』などの保守系月刊誌は大きな反応を見せていません。『諸君!』の1993年10月号に掲載された黒田勝弘氏(産経新聞)の「日韓合作 慰安婦『政治決着』の内幕」は、河野談話発表に至るまでの政府調査のあり方に不満を述べつつも「政治的、外交的決着のためにはそういうこともありうるのだろう」と理解を示しています。また、アジア女性基金については、それを積極的に支持する主張もない代わりに、反対論も特に見当たりません。この時期までは、前述したような「過去の精算」に対する前向きな姿勢が、『正論』などにおいても限定的にではあれ共有されていたことが伺えます。
では1996、7年ごろに、日本軍「慰安所」制度に対する日本軍、日本政府の責任を否定する根拠となるような、新たな歴史学上の発見があったのかといえば、別にそうした発見はないのです。河野談話発表までの、「慰安婦」問題に関する初期の報道が、その細部においては誤りを含んでいたことは確かです。しかしその後の研究は、日本軍の「慰安所」において女性に対する重大な人権侵害があったこと、その人権侵害に対して日本政府には負うべき責任があること、という「慰安婦」問題の大枠については、それを追認しより確かなものとしてきました。『正論』などの論調の変化は、中学校の全歴史教科書に「慰安婦」問題が記述されるようになったことが96年に明らかになった、という政治的な要因によるものとしか思えません。
そしてこの頃から、日本の近現代史の負の側面をとりあげようとする国内外の動きに対して「反日」「自虐」といった学術的とは言い難いレッテルを貼る傾向が目立つようになります。『正論』などのメディアは歴史認識をめぐる対立について、2000年代の半ばころからは「情報戦」という、2013年頃からは「歴史戦争」「歴史戦」という、それぞれ「戦争」のメタファーを含む用語でとりあげるようになりました。西岡さんも『なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか』というタイトルの著作(中西輝政さんとの共著)を刊行しています。
「戦争」のメタファーは、読者に戦うべき「敵」の存在を意識させます。植村隆さんの赴任予定校や勤務校に対して契約解除を要求するメール等が殺到したバッシングの背景として、本来であれば学術的になされるべきであった歴史的事実をめぐる議論が、「戦争」のメタファーによって政治問題化させられてしまったことがあると思います。
三、西岡力さんの主張について
次に原告植村隆さんが執筆した記事に関する西岡力さんの主張について述べたいと思います。
西岡さんの主張をその意図に即して理解しようとするならば、その出発点には次のような前提があると考えるのが合理的であると思われます。
(1) 日本軍「慰安所」は公娼制の戦地版であり、当時において公娼制は合法的な制度であった
(2) ゆえに、日本軍や日本政府(以下「日本軍」とのみ記します)に法的責任があるとすれば、それは 「慰安婦」を法令によって動員したか、官憲の手による「強制連行」で調達した場合に限る
このような前提をおくならば、西岡さんが植村隆さん執筆の1991年8月11日付け記事(甲1)における「女子挺(てい)身隊の名で」という表現に対して、また同記事および1991年12月25日付け記事(甲2)が金学順さんの「キーセン学校」通学歴に触れていなかったことに対して、それぞれ強いこだわりをもっておられることが理解できます。西岡さんの認識によれば、日本軍には法的責任がないにもかかわらず、『朝日新聞』は植村さんの記事によって読者に日本軍に責任があると“誤解”させたということになるからです。
しかしながら、このような西岡さんの認識は以下にあげるような理由で間違っていると言わざるを得ません。
(ア)日本軍「慰安所」制度に関する歴史学の知見に照らして誤りである
西岡さんは著書『よくわかる慰安婦問題』(甲3)において「朝日新聞は、一九九七年頃から、慰安所に入れられてからの生活が大変だったことなども「強制性」だと論点を変えているが」として『朝日新聞』を非難していますが、学術研究においては研究の進展に伴い当初の問題のたて方が修正されてゆくのはごくふつうのプロセスです。逆に新たな知見を無視して当初の問題設定、論点に固執することこそ非学術的な態度であると言わねばなりません。
「慰安婦」問題に関する日本政府の公式な立場を示す「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」が発表された1993 年8 月4 日以降も日本軍「慰安所」制度に関する資料の発掘や研究は続けられてきました。しかし著作やこの裁判における西岡さんの主張はそうした研究成果のいくつかを無視したものです。西岡さんが無視している研究成果のうちこの裁判に深く関わるものとして、永井和・京都大学教授(当時:現京都橘大学教授)によるものを以下で紹介し、西岡さんの認識の誤りを明らかにしたいと思います。なお、以下で紹介する永井和教授の見解は、以下のような文献で繰り返し明らかにされてきたものです。
・永井和『日中戦争から世界戦争へ』、思文閣、2007 年、第5 章附「軍の後方施設としての軍慰安所」
・永井和「軍・警察史料からみた日本陸軍の慰安所システム」、歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える―軍事性暴力と日常世界』、岩波書店、2014 年
・『朝日新聞』2015 年7 月2 日朝刊、「慰安婦問題を考える 「慰安所は軍の施設」公文書で実証研究の現状 永井和京大院教授に聞く」
・永井和「破綻しつつも、なお生き延びる「日本軍無実論」」、中野敏男・板垣竜太・金昌禄・岡本有佳・金富子(編)『「慰安婦」問題と未来への責任』、大月書店、2018 年(初出は岩波書店『世界』2015 年9 月号)
盧溝橋事件から間もない1937 年9 月に、日本陸軍は野戦酒保規程を改正します(防衛省防衛研究所所蔵・大日記甲輯・昭和十二年「野戦酒保規程改正に関する件」)。改正後の野戦酒保規程によれば「野戦酒保ニ於テ(中略)必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」(第一条)とされました。少なくとも陸軍の「慰安所」は民間業者が経営する「貸座敷」の戦地版ではなく、軍の後方部門である野戦酒保の附属施設であるということになります。野戦酒保の従業員、従業婦(=「慰安婦」)は軍においては「軍従属者」として法的に位置づけられ、その取り締まりは野戦憲兵の任務とされ、また軍法会議の管轄下に入る存在でもありました。「慰安所」に対して一義的に責任を負うのが日本軍であることは改正野戦酒保規程の「野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス」(第三条)、「野戦酒保ノ経営ハ自弁ニ依ルモノトス但シ已ム得ザル場合(中略)ハ所管長官ノ認可ヲ受ケ請負ニ依ルコトヲ得」(第六条)といった条文からも伺うことができます。軍「慰安所」の運営にあたるのが民間業者である場合にも、それは軍の内部規則に基づいた請負によるものだったことになります。
この事実は先に述べた西岡さんの主張の前提(1)、(2)を根底から覆すものです。日本軍「慰安所」が軍の後方施設の一部であり、「慰安所」の運営に関わった業者が軍の正式な要員である以上、「慰安婦」の募集プロセスだけではなく「慰安所」に関連して生じたあらゆる違法行為、不法行為に関して日本軍は法的責任(作為責任または不作為責任)を問われる余地があることになるからです。「慰安婦」とされた女性がそれ以前にどのような経歴を有していたかとはまったく無関係に、です。
このような歴史学の研究成果に照らして考えるなら、植村隆さんの執筆した記事の一部に正確さを欠く部分があったとしてもなお、日本軍の責任の有無という点に関しては西岡力さんの主張よりも史実に忠実だったということになります。植村さんの執筆した記事が、日本軍の責任について過大な印象を読者に与えたとは言えないからです。にもかかわらず、西岡さんは上記のような永井教授の主張に対して実質的な反論を行っていません。自説に不利な新しい研究成果を無視して自説に固執することは、学術的に誠実な態度とは言えないと評さざるを得ません。
(イ)当時の『朝日新聞』の報道のあり方に照らして誤りである
西岡力さんは1991年8月11日付け記事(甲1)における「女子挺(てい)身隊の名で」という表現が、日本軍による法的強制力を伴った連行であったと読者に“誤解”させたと主張していますが、これは合理的な根拠を欠いています。なぜなら、「女子挺(てい)身隊の名で」という表現を読者がどのように理解したかという問題は、「女子挺身隊」についての歴史的事実それ自体ではなく、当時の平均的な『朝日新聞』読者が「女子挺身隊」という用語についてもっていた認識に左右される事柄だからです。
本件に関係する植村隆さん執筆の記事が掲載された当時は、「二、「慰安婦」問題の歴史について」でも述べたように日本社会全体でアジア・太平洋戦争への関心が高まっていましたので、『朝日新聞』には「女子挺身隊」に言及した記事が少なからず掲載されています。なかでも「手紙 女たちの太平洋戦争」と題する読者投稿企画には、挺身隊に関連した女性たちの投稿が寄せられています。しかしながら、そうした記事、企画はもっぱら動員された庶民の視点に立つものであるため、1944 年8 月公布の女子挺身勤労令にはほとんどの場合言及がありません。1990 年8 月15 日付け朝刊(大阪本社版)に掲載された記事「対日戦時賠償要求、アジア・太平洋から被害資料続々」には、日本軍の「公募」に対して「志願」してパプアニューギニアで荷揚げ作業に従事した「パラオ挺身隊」への言及もあるほどです。戦時労務動員制度の変遷について詳しい知識を持たない平均的な読者が、「女子挺(てい)身隊の名で」という表現から直ちに法的強制力をもつ動員を想起した、とは思えません。
では女子挺身勤労令についての詳しい知識を持っていた読者ならば植村さん執筆の1991年8月11日付け記事(甲1)をどのように理解したでしょうか。『朝日新聞』1987 年5 月2 日付け朝刊投書欄には、読者からの質問に答えるかたちで戦時中の女性の労務動員に関する解説が掲載されています。そこでは「女子挺身隊」が当初は法令化されず「自主的」に結成させる方式をとったこと、1944 年8 月になって女子挺身勤労令により「政府が法的に出動命令」できるようになったことが記されています。このような経緯を承知している読者であれば、1941 年に日本軍「慰安婦」にされた金学順さんが女子挺身勤労令に基づいて動員されたのではないことを了解できたはずです。
つまり「女子挺(てい)身隊の名で」という表現が、日本軍による法的強制力を伴った連行であったと読者に“誤解”させたという西岡さんの主張は、「女子挺身勤労令という法令の存在は知っているが、それが公布された時期については知らず、法的強制力のない挺身隊も組織されていたという事実も知らない」という読者をご都合主義的に想定したときにのみ、成り立つものに過ぎないということになります。
(ウ)「慰安婦」問題にとりくんだ人々の意図についての推定という点において誤りである
本件に関わる植村隆さん執筆の記事が「捏造」であると摘示する西岡力さんの主張は、日本軍「慰安所」制度に関して日本軍が負う法的責任はないことを植村さんが認識していながら当該記事を執筆した、という仮定に依拠しています。植村さんに限らず、日本軍「慰安婦」を解決すべき問題として提起した人々が「反日日本人」であるという西岡さんの主張もまた、そうした人々が「本当は日本軍が負うべき責任などない」という認識のもとで行動していた、という仮定に依拠しています。しかしこの仮定はいずれも合理的な根拠を持つものだとは思えません。
西岡さんが繰り返し用いる「反日」という用語は、「慰安婦」問題に関して日本軍の責任を追及しようとしてきた人々の「動機」を西岡さんなりに説明しようとして用いられているものであるはずです。
一般的にわたしたちが他者の行動の「動機」を説明しようとする際には、「その他者が事態をどのように認識しているか」と「その他者がどのような行動をとったか」が問題となります。この「認識」と「行動」をつないでいるのが「動機」だということになるわけです。
この裁判で問題となっている西岡さんの主張に即して言えば、「行動」は「「慰安婦」問題を積極的にとりあげようとしたこと」「「慰安婦」問題に関して日本軍の責任を追及しようとしたこと」だということになります。植村さんが金学順さんについて取材し、記事を書いたことについてもそのように評価してよいでしょう。問題は「認識」の帰属です。「本当は日本軍には責任がない」と認識している者があえて日本軍の責任を追及するふりをしたというのであれば、「反日」的という評価にも一定の正当性があると言えるでしょう。しかし「日本軍に責任がある」と認識している者が日本軍の責任を追及するための活動に従事している場合に、その動機を「反日」的だと評することに正当性があるとは言えません。
上記(ア)において、「慰安婦」問題に関して日本軍は法的責任を負わないという西岡さんの主張の誤りについて述べましたが、ここではその点はおくことにします。「認識」というのはそれ自体としては主観的な事柄ですから、西岡さんが主観的には「日本軍に責任はない」と認識しているからといって、植村さんを含む他者も同様に認識していると断定することが許されるわけではありません。直接知るすべがない他者の「動機」について一定の判断を下し、その判断に基づいて「反日日本人」といった極めて政治的な評価を下すのであれば、その「動機」を推定する過程については高度な合理性が要求されるはずです。しかしながら西岡さんは、もっぱら西岡さんの主張を植村さんおよび『朝日新聞』が無視してきたという事実に依拠して植村さんらの「動機」を推定しています。しかしこの推定は、日本軍の責任に関する西岡さんの主張が正しいものだという、西岡さんの主観的な認識に依存したものに過ぎません。
このように、本件に関わる植村隆さん執筆の記事が「捏造」であると摘示する西岡力さんの主張は、植村さん(および日本軍「慰安婦」問題の追及に尽力した人々)の動機に関する、合理性を書いた決めつけによるものと言わざるを得ません。
最後に改めて述べておきたいのは、日本軍「慰安婦」問題をめぐる西岡力さんの研究者としての態度が誠実であったかどうかについて、です。西岡さんは植村さん、および『朝日新聞』が過去の記事の不正確さを長らく訂正しなかったことをことさら論難しておられますが、その西岡さん自身も自説に不利な研究成果を長期間無視してきたことはすでに述べた通りです。『朝日新聞』は2014年8 月まで過去の記事の誤りについて積極的に報道することはなかったとはいえ、日本軍「慰安婦」問題についての調査研究の進展に応じて随時報道内容を更新してきました。これに比べれば、新たな研究成果を無視して従来の自説に固執し続けることの方が一層不誠実な態度というべきです。また、「反日」というおよそ学術的とはいい難いレッテルを十分な合理性もなく用いてきたことも、研究者として誠実な態度とは言えないと言わざるを得ません。
凡例▼人名、企業・組織・団体名はすべて原文の通り実名としている▼敬称は一部で省略した▼PDF文書で個人の住所、年齢がわかる個所はマスキング処理をした▼引用文書の書式は編集の都合上、変更してある▼年号は西暦、数字は洋数字を原則としている▼重要な記事はPARTをまたいであえて重複収録している▼引用文書以外の記事は「植村裁判を支える市民の会ブログ」を基にしている
updated: 2021年8月25日
updated: 2021年10月18日