関連記事

朝日新聞の慰安婦報道に関する第三者委員会報告は、東京地裁判決に大きな影響を与えた。アジア・言論研究会のオンラインジャーナルで判決を分析・批判した野中善政氏(大分大名誉教授)は、その中で「第三者委報告がつまみ食いされた感がある」として、その具体的な個所を列記している。

→こちら

 

捏造ではない――その根拠 朝日新聞社の対応 

 

検証記事も第三者委も「捏造」を否定した。

ただし、第三者委報告書には大きな落とし穴が隠されていた

朝日新聞社が植村記事について言及した見解は、2014年8月5日付「慰安婦報道」検証特集記事と、同年12月23日付、「慰安婦報道 第三者委報告書」の記事、のわずか2本である。そして特記すべきは、そのいずれにも「捏造」を認めるような記述はないことである。では「記事に事実のねじ曲げない」、では「第三者委 元記者の『事実ねじ曲げ』否定」という見出しが立てられている。つまり、朝日新聞は植村記事は捏造ではない、との見解を一貫して持ち続けているのである。さらに、を導いた第三者委の報告書にも、「植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない」との記述がある。第三者委も、植村記事が「捏造」ではないことを明言しているのである。

 

ただし、第三者委の報告は「捏造」を否定しながら、一方で、植村記事にある「挺身隊」の表現を、「国家総動員令による女子挺身隊と誤解させる安易かつ不用意な記載」と非難し、また、キーセン学校に通っていたという経歴を書かなかったことについても、「読者にきちんと伝えるべきだった」と批判している。しかし、これらの非難、批判は間違っている。揚げ足取り、あら探しの意図が透けて見える難癖といっていい。「挺身隊」は、1991年当時は「従軍慰安婦」を指すことが一般的であったという状況を捨象しているし、キーセン学校の経歴は金学順さんが慰安婦とさせられたこととは無関係であり、重要な問題ではない。

 

第三者委報告のこの指摘は、結果的に櫻井、西岡氏を利することになった。判決での引用も長文にわたり、「朝日の第三者委員会も植村記事を批判しているではないか」という論調で、櫻井、西岡両氏を免責するための有力な材料、間接的な証拠とされてしまった。「捏造」を否定した第三者委報告書には、じつは大きな落とし穴が潜んでいたのである。

 

そもそも、第三者委が設置されたのは、吉田清治証言に関する記事の訂正と謝罪が遅くなったこと、そして池上彰氏のコラム掲載を断ったこと、の経緯や原因を究明するためだった。その中で、植村記事は重要なテーマとはされなかった。じっさいに、植村記事に直接言及している個所は3カ所にすぎず、分量でいうと全110ページ中、わずかに9ページなのである。

しかし、櫻井、西岡氏は、第三者委の報告書を裁判で喧伝しつづけた。さらに法廷では東京地裁の結審後に裁判長が西岡氏側に証拠として提出を促すに至り、裁判官忌避と判決延期という異常事態に発展した。対する植村側には、そのような動きへの事前警戒と注意喚起が十分ではなかった。これは植村裁判にとって重大な痛恨事である。

 

以下に、①②の朝日記事全文と、第三者委報告書の該当部分を収録する。

 


2014年8月5日 朝日新聞   

 

PDF特集全文はこちら

 

●特集見出し

慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問にお答えします
●記事見出し

「元慰安婦 初の証言」 記事に事実のねじ曲げない

囲み記事

疑問  元朝日新聞記者の植村隆氏は、元慰安婦の証言を韓国メディアよりも早く報じまし た。これに対し、元慰安婦の裁判を支援する韓国人の義母との関係を利用して記事を作り、都合の悪い事実を意図的に隠したのではないかとの指摘があります。

 

●記事本文
 問題とされる一つは、91年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面トップに出た「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という記事だ。
 元慰安婦の一人が、初めて自身の体験を「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)に証言し、それを録音したテープを10日に聞いたとして報じた。植村氏は当時、大阪社会部記者で、韓国に出張。元慰安婦の証言を匿名を条件に取材し、韓国メディアよりも先んじて伝えた。
 批判する側の主な論点は、元慰安婦の裁判支援をした団体の幹部である義母から便宣を図ってもらった元慰安婦がキーセン(妓生)学校に通っていたことを隠し、人身売買であるのに強制連行されたように書いたという点だ。
 植村氏によると、8月の記事が掲載される約半年前、「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の幹部梁順任氏の娘と結婚した。元慰安婦を支援するために女性研究者らか中心となってつくったのが挺対協。一方、遺族会は戦時中に徴兵、徴用などをされた被害者や遺族らで作る団体で挺対協とは異なる別の組織だ。
 取材の経緯について、植村氏は「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母からの情報提供はなかった」と話す。元慰安婦はその後、原告となるため梁氏が幹部を務める遺族会のメンバーとなったが、植村氏は「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦の取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明する。
 8月11日に記事が掲載された翌日、植村氏は帰国した。14日に北海道新聞のソウル特派貝が元慰安婦の単独会見に成功し、金学順さんだと特報。韓国主要紙も15日の紙面で大きく報じた。
 植村氏は前年の夏、元慰安婦の証言を得るため韓国を取材したが、話を聞けずに帰国した経緯もあり、詳しい取材のいきさつは、朝鮮半島問題を扱う月刊誌「MILE」(91年11月号))に書いた。この時期、植村氏の記事への批判はまだ出ていなかった。
 また、8月11日の記事で「『女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」などと記したことをめぐり、キーセンとして人身売買されたことを意図的に記事では触れず、挺身隊として国家によって強制連行されたかのように書いた――との批判がある。 
 慰安婦と挺身隊との混同については、前項でも触れたように、韓国でも当時慰安婦と挺身隊の混同がみられ、植村氏も誤用した。
 元慰安婦の金さんか「14歳(数え)からキーセン学校に3年間通った」と明らかにしたのは、91年8月14日に北海道新聞や韓国メディアの取材に応じた際だった。キーセン学校は宴席での芸事を学ぶ施設だ。韓国での研究によると、学校を出て資格を得たキーセンと遊郭で働く遊女とは区別されていた。中には生活に困るなどして売春行為をしたキーセンもおり、日本では戦後、韓国での買春ツアーが「キーセン観光」と呼ばれて批判されたこともあった。
 91年8月の記事でキーセンに触れなかった理由について、植村氏は「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」と話し、「そのことは知らなかった。意図的に触れなかったわけではない」と説明する。その後の各紙の報道などで把握したという。
 金さんは同年12月6日、日本政府を相手に提訴し、訴状の中でキーセン学校に通ったと記している。植村氏は提訴後の91年12月25日朝刊5面(大阪本社版)の記事で、金さんが慰安婦となった経緯やその後の苦労などを詳しく伝えたが、「キーセン」のくだりには触れなかった。
 植村氏は「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではないと考えた」と説明。「そもそも金さんはだまされて慰安婦にされたと語つていた」といい、8月の記事でもそのことを書いた。
 金さんらが日本政府を相手に提訴した91年12月6日、別の記者が書いた記事が夕刊1面に掲載されたか、キーセンについては書いていない。その後も植村氏以外の記者が金さんを取り上げたが、キーセンの記述は出てこない。

 

●囲み記事

読者のみなさまへ
 植村氏の記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません。91年8月の記事の 取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。義母との縁戚関係を利 用して特別な情報を得たことはありませんでした。


 

2014年12月23日 朝日新聞   

PDF特集全文はこちら

 

●総見出し

記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社
慰安婦報道、第三者委報告書
●囲み記事

慰安婦問題を報じた本誌記事について、第三者委員会から不正確で読者の誤解を招くものがあるといった指摘を受けました。これまでの訂正・記事取り消しなどに加え、独自に検討を進めてきた結果を踏まえて必要な訂正をします。読者の皆様におわびし、理由を説明いたします。訂正などにあたってのわかりやすい提示方法について今後も検討し、改善を重ねます。

●見出し

「元慰安婦、初の証言」の記事について

「女子挺身隊」「連行」の記述訂正
●記事本文

「日中戦争や第2次大戦の際、『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり……」(91年8月11日付朝刊社会面〈大阪本社版〉)
 これは、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」との見出しで掲載した記事の前文部分です。記事は、韓国人の元慰安婦の一人が初めて、自らの過去を「韓国挺身隊問題対策協議会」に証言したことを、録音テープをもとに伝えました。
 しかし、同記事の本文はこの女性の話として「だまされて慰安婦にされた」と書いています。この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません。
 前文の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」とした部分は誤りとして、おわびして訂正します。
 第三者委員会に対し、筆者の植村隆・元記者(56)は「あくまでもだまされた事案との認識であり、単に戦場に連れて行かれたという意味で『連行』という言葉を用いたに過ぎず、強制連行されたと伝えるつもりはなかった」との趣旨の説明をしたといいます。
 第三者委は報告書で、「だまされた」事例であることをテープ聴取で明確に理解していたにもかかわらず、この前文の表現は「『女子挺身隊』と『連行』という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与える」などと指摘しました。
 また報告書は、挺身隊と慰安婦の混同について、91年から92年ころにかけて両者の違いが急速に意識されるようになるまでは、「両者を混同した不明確な表現が朝日新聞に限らず多く見られたという実態があった」との見解を示しました。朝日新聞は今年8月の検証記事で、この記事に「意図的な事実のねじ曲げはない」と結論づけました。報告書はそれだけでなく、「読者に正確な事実を伝えるという観点から、前文部分の記載内容も含め、さらに踏み込んで検討すべきであった」としました。この指摘についても、重く受け止めます。
 この記事には、過去記事を閲覧できるデータベース上で、挺身隊の混同がみられたことから誤用したことを示すおことわりをつけています。今後、改めて、「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません」といったおことわりをつけます。

 

第三者委 元記者の「事実ねじ曲げ」否定

 植村氏が91年に書いた記事2本には、他メディアから疑問が示されていました。
 一つは、91年8月、録音テープの提供を受けて元慰安婦の証言を匿名で報じた際、後に元慰安婦らの裁判を組織した韓国の別団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」の幹部だった義母のつてで取材し、裁判を有利に進めるために記事を書いたり内容を変えたりしたのではないかという疑問です。
 この点について第三者委は、植村氏から「ソウル支局長から紹介を受けて挺対協のテープにアクセス(接触)した」という説明を受けたとし、前年に韓国で元慰安婦を捜す取材をした経緯も踏まえ、この説明を「不自然ではない」としました。北海道新聞が直後にこの元慰安婦を直接取材し、実名で報じたことにも触れ、「記事を書くについて特に有利な立場にあったとは考えられない」「縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない」と結論づけました。
 また、この元慰安婦がキーセン(妓生)を育成するための学校に通っていた経歴を書かなかったことへの疑問も出ていました。報告書は、植村氏が続報記事「かえらぬ青春 恨の半生」(91年12月25日付大阪本社版朝刊5面)を書いた時点で、この元慰安婦らが起こした裁判の訴状などから経歴を知っていたとし、こう指摘しました。
 「キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。『キーセン』イコール慰安婦ではないとする(植村氏の)主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった」

注=には、植村記事のほか、「軍関与示す資料」の記事(1992年1月11日付)と吉田清治氏関連の記事の訂正と取り消しについての説明がされている。

 

 


 

朝日新聞第三者委員会報告書 (2014年12月22日) 

  

植村記事に直接言及している個所を抜粋

PDF全文はこちら

 

■第5章「朝日新聞の1990年から1997年2月までの間における吉田証言の報道の状況
(2)1991年の報道状況等

吉田証言に関する記事以外の状況  (p10~11)
名乗り出た慰安婦に関する1991年8月11日付記事 

 1991年8月11日、朝刊(大阪本社版)社会面(27面)に「元朝鮮人従 軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」、「思い出すと今も涙」、「韓国の団体聞き取り」 の見出しのもとに、「従軍慰安婦だった女性の録音テープを聞く尹代表(右)ら= 10日、ソウル市で植村隆写す」と説明された写真の付された記事が掲載された。

 同記事は、当時大阪社会部に所属していた植村のソウル市からの署名入り記事 で、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していること がわかり」、同女性の聞き取り作業を行った挺対協が録音したテープを朝日新聞記 者に公開したとして、「女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だ 11 まされて慰安婦にされた」などその内容を紹介するものである。植村は、上記(1) イのとおり、韓国での取材経験から、朝鮮で女性が慰安婦とされた経緯について、 「強制連行」されたという話は聞いていなかった。取材の過程で植村に女性の名前が明かされなかったため、上記記事において女性は匿名として扱われていたが、 同月15日の北海道新聞には女性を金学順という実名入りで同人への単独インタ ビューに基づいた記事(「『日本政府は責任を』」、「韓国の元従軍慰安婦が名乗り」、 「わけわからぬまま徴用」、「死ぬほどの毎日」、「賠償請求も」などの見出しが付 されている。)が掲載された。
名乗り出た慰安婦に関する1991年12月25日付記事 

 金氏を含む元慰安婦、元軍人・軍属やその遺族らは、1991年12月6日、 日本政府に対し、戦後補償を求める訴訟を東京地裁に提起した。 

 1991年12月25日、朝刊(5面)に「かえらぬ青春 恨の半生」、「日本 政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」、「ウソは許せない 私が生き証人」、 「関与の事実を認めて謝罪を」の見出しのもとに、「弁護士に対して、慰安所での体験を語る金学順さん=11月25日、ソウル市内で」との説明のある金氏の写真が付された記事が掲載された。

 同記事は、植村の署名記事であって、連載企画「女たちの太平洋戦争」の一つであり、同記者が1991年11月25日に上記裁判準備のための弁護士らによ る聞き取り調査に同行して金氏から詳しい話を聞いたとして、その同行取材時の録音テープを再現するものである。例えば、従軍慰安婦となった経緯については、 「(略)貧しくて学校は、普通学校(小学校)四年で、やめました。その後は子守 をしたりして暮らしていました」、「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話 を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。 近くの友人と二人、誘いに乗りました。十七歳(数え)の春(一九三九年)でし た」などと述べ、「日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言 しているじゃないですか」とも述べたとする。 

 植村は、金氏への面会取材は、写真が撮影された1991年11月25日の一 度だけであり、その際の弁護団による聞き取りの要旨にも金氏がキーセン学校に 通っていたことについては記載がなかったが、上記記事作成時点においては、訴状に記載があったことなどから了知していたという。しかし、植村は、キーセン学校へ通ったからといって必ず慰安婦になるとは限らず、キーセン学校に通っていたことはさほど重要な事実ではないと考え、特に触れることなく聞き取りの内 容をそのまま記載したと言う。


(5)評価 
名乗り出た従軍慰安婦記事(上記(2)イa及びb)について (p16~18)

  1991年8月11日付記事(上記(2)イa)については、担当記者の植村がその取材経緯に関して個人的な縁戚関係を利用して特権的に情報にアクセスしたな どの疑義も指摘されるところであるが、そのような事実は認められない。取材経緯 に関して、植村は、当時のソウル支局長から紹介を受けて挺対協のテープにアクセ スしたと言う。そのソウル支局長も接触のあった挺対協の尹氏からの情報提供を受 け、自身は当時ソウル支局が南北関係の取材で多忙であったことから、前年にも慰 安婦探しで韓国を取材していた大阪社会部の植村からちょうど連絡があったため、 取材させるのが適当と考え情報を提供したと言う。これらの供述は、ソウル支局と大阪社会部(特に韓国留学経験者)とが連絡を取ることが常態であったことや植村の韓国における取材経歴等を考えるとなんら不自然ではない。また、植村が元慰安 婦の実名を明かされないまま記事を書いた直後に、北海道新聞に単独インタビュー に基づく実名記事が掲載されたことをみても、植村が前記記事を書くについて特に 有利な立場にあったとは考えられない。

 しかし、植村は、記事で取り上げる女性は「だまされた」事例であることをテー プ聴取により明確に理解していたにもかかわらず、同記事の前文に、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」と記載したことは、事実は本人が女子挺身隊の名で連行されたのではないのに、「女子挺身隊」 と「連行」という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与えるもので、安易かつ不用意な記載であり、読者の誤解を招くものと言わざるを得ない。この点、当該記事の本文には、「十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」との記載があり、植村も、あくまでもだまされた事案との認識であり、単に戦 場に連れて行かれたという意味で「連行」という言葉を用いたに過ぎず、強制連行 されたと伝えるつもりはなかった旨説明している。

 しかし、前文は一読して記事の全体像を読者に強く印象づけるものであること、 「だまされた」と記載してあるとはいえ、「女子挺身隊」の名で「連行」という強い表現を用いているため強制的な事案であるとのイメージを与えることからすると、 安易かつ不用意な記載である。そもそも「だまされた」ことと「連行」とは、社会通念あるいは日常の用語法からすれば両立しない。 

 なお、当該女性(金氏)の経歴(キーセン学校出身であること)に関しては、1 991年8月15日付ハンギョレ新聞等は、金氏がいわゆるキーセン学校の出身であり、養父に中国まで連れて行かれたことについて報道していた。また、1991 年12月25日付記事(上記(2)イb)が掲載されたのは、既に元慰安婦らによ る日本政府を相手取った訴訟が提起されていた時期であり、その訴状には本人がキ ーセン学校に通っていたことが記載されていたことから、植村も上記記事作成時点 までにこれを了知していた。キーセン学校に通っていたからといって、金氏が自ら 進んで慰安婦になったとか、だまされて慰安婦にされても仕方がなかったとはいえないが、この記事が慰安婦となった経緯に触れていながら、キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。植村による「キーセン」イコール慰安婦ではないとする主張は首肯できるが、それなら ば、判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった。

■第8章 2014年検証記事について
(7)検証記事の評価
「『挺身隊』との混同」の項目について (p39~42)

  挺身隊や慰安婦については、1990年代初頭ころまで、韓国でも日本でも研究が乏しく、書籍等の出版物における慰安婦や挺身隊の人数についての説明もさまざまであり、当時実態が正確に把握されていなかった。

 挺身隊や慰安婦に関する出版物の内容は、例えば、1970年8月14日付の ソウル新聞には、「1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は、全部でおよそ20万。そのうち韓国の女性は5~7万人と推算されている。」との記述があり、千田夏光氏の著書「従軍慰安婦」には、「挺身隊 という名のもとに彼女らは集められたのである。(中略)この挺身隊員の資格は12歳以上40歳未満の未婚女性を対象とするものだった。ただし、総計20 万人(韓国側の推計)が集められたうち慰安婦にされたのは5万人ないし 7万人とされている。すべてが慰安婦にされた訳ではない。」と記載されている (ここでは、「挺身隊」と「慰安婦」が明確に区別されて述べられている。)。また、1986年初版の「朝鮮を知る事典」には、「43年からは〈女子挺身隊〉の名の下に、約20万の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5~7万人 が慰安婦にされた」と記載されている。

 1980年代当時の韓国においては、「挺身隊」がほぼそのまま「慰安婦」を指す言葉として用いられていた。日本においては、挺身隊と慰安婦が別のものではあるが、韓国において、実態として一部又は多くが重なるのかどうかについては、 定説があったとはいえない状態であった。1990年代初めころまで多くの出版物でみられる「挺身隊の名のもとに」という言葉は、国家総動員法に基づく制度 として集められたことを指しているのか、挺身隊だとだまされて集められたよう な場合も含むものとして使っているのかについて判然としないものもある。 

 1991年12月に東京地方裁判所に提訴された戦後補償を求める訴訟におい ては、慰安婦の人数を10万から20万人と主張し、元慰安婦の韓国の支援組織 「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表が「女子挺身隊の名で徴用された女性たち の多くが、慰安婦にされた」、「慰安婦として売春を強要された女性の総数は十万人とも二十万人とも」などとインタビューに答えた(毎日新聞1991年12 月9日付記事)。 

 これらの状況からすると、1991年12月ころまでは、一般に「女子挺身隊」 と「慰安婦」がそれぞれどのように集められたかの理解が十分でなく、挺身隊と して集められた女性の中に慰安婦とされた者がいたと理解される素地があり、そ れぞれの人数についての情報も錯綜・混乱していた。 

 朝日新聞の記事だけをみても、1991年5月22日付記事においては「『従軍 慰安婦』は、太平洋戦争の戦線が拡大するにつれて連行が本格化し、『慰安婦』に された朝鮮女性は8万人説から20万人説まである。」と説明されているが、同年 8月11日付記事には「朝鮮人慰安婦は5万人とも8万人ともいわれるが、実態 は明らかでない」と記載されている。1992年1月11日付記事の「従軍慰安 婦」と題する用語説明メモにおいては、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともい われる。」と説明されており、ほぼ同時期の記事においても、執筆者が何を参照し たかによって内容が異なる。

 b  1992年1月ころから、慰安婦と挺身隊とを同一視しているのは誤りではないかとの観点からの記事が散見されるようになる。例えば、1992年1月16 日付記事(ソウル発)には、「韓国のマスコミには、挺身隊イコール従軍慰安婦と してとらえているものが目立ち、」との記載があり、挺身隊と慰安婦とを完全に同一視することは誤りであると認識されている。同日の読売新聞の記事は、従軍慰安婦について「戦時中、『挺身隊』の名目で強制連行された朝鮮人の従軍慰安 婦は十万とも二十万人ともいわれる」とする一方、同じページの記事において「韓 国では工場での勤労動員と見られる『挺身隊』と『従軍慰安婦』は同義語として 使われているため小学生まで慰安婦にしていたと受け止められている」などと 解説している。 

 当時、韓国の通信社が、挺身隊となった小学生の学籍簿が発見されたとの記事を配信したところ、実際には工場労働のための挺身隊であったにもかかわらず、 韓国国内において、小学生まで慰安婦とさていたとの誤解が広まり騒ぎとなっ たことをきっかけとして、「挺身隊」イコール「慰安婦」との認識が正しいものではないとの問題意識が表面化したものと考えられる。 

 同じころ、元慰安婦などが日本政府に対する訴訟を提起したのをきっかけに、 挺対協において原告を集めたり、日本国内の支援団体が「慰安婦110番」などとして情報を募ったところ、元挺身隊だった者の中に慰安婦ではない者が含まれていることが明らかになってきたと言われており、1992年1月ころ以降、慰 安婦と挺身隊とを区別すべきであるとの認識が急速に高まってきたと見られる。

 c  こうした経緯からすると、1991年から1992年ころにかけ、急速に「挺 身隊」と「慰安婦」の相違が意識されるようになるまでは、両者を混同した不明確な表現が朝日新聞に限らず多く見られたという実態があったことは事実である と解され、2014年検証記事の記載に誤りがあるとは言えない。

 しかし、報道機関としては、記事の正確性に十分配慮すべきであり、研究が進んでいない事項については、読者の誤解を招かないよう注意深く丁寧に説明する 必要がある。たとえ韓国において「挺身隊」と「慰安婦」とが混同されていたと しても、少なくとも、日本と韓国における「挺身隊」の認識・理解に齟齬がある ことは比較的早い段階で知り得たはずであり、両者が本来は異なるものであり、 韓国における実態として重なる部分があるのかどうかについては解明されていな い状態であることについて、注意深く丁寧に伝えるよう努力すべきであった。 

 また、研究が進んだ段階で、自ら速やかに過去の誤解を解く努力をすべきであ る。例えば、92年3月7日付の「透視鏡」と題するソウル発のコラムは、「韓国 人の多くはいまも、挺身隊を慰安婦の同義語ととらえている。」「挺身隊と慰安婦 の混同に見られるように、歴史の掘り起こしによる事実関係の正確な把握と、それについての情報交換の欠如が今日の事態を招いた一因になっているといえる。」 と書いている。こうした問題意識がなぜ共有されなかったか、検証されるべき課題である。 

 このような観点からすると、単に当時は研究が乏しかったために誤用した、と 事実を説明するのみではなく、誤用を避けるべき努力が十分なされていたのか、誤用があった後の訂正等が行われてきたかという経緯や、今後こうした混同・誤用が生じないようにするためどのような態度で臨んでいくのかなどについても踏み込んで記事とし、朝日新聞としての姿勢を示すべきであった。

「元慰安婦 初の証言」の項目について (p42) 

 上記のとおり、植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、 同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたとも いえない。

 しかし、1991年8月11日付記事前文において「女子挺身隊」の名で「連行」 という実際と異なる表現を用いているため強制的な事案であるとの誤ったイメージ を読者に与えかねないこと、同年12月の記事においては、金氏が慰安婦となった経緯についても正確な事実を提示し、読者の判断に委ねるべきであったことについ ては、前記のとおりである。 

 植村の金氏についての記事は、本人の供述(録音テープを含む)の聞き取りであ り、金氏を取り上げた他紙等の報道と比較しても、特に偏りがあるとはいえないが、2014年検証においては、意図的な事実のねじ曲げがあったとは認められないと 結論づけたのみで検証を終えるのではなく、読者に正確な事実を伝えるという観点 から、前文部分の記載内容も含め、さらに踏み込んで検討すべきであった。