札幌訴訟・控訴審第3準備書面(2019年9月17日付)より

第3~5節(植村記事Aについて)を抜粋

 

控訴審の結審にあたって提出された第3準備書面は、それまでの弁護団主張の核心部分を要約し、「記事Aは捏造ではないこと」を次の3つの論点で論証している。

控訴人による取材内容と記事Aの内容とを踏まえれば、記事Aが「捏造」とされることを甘受しなければならない程の乖離があったといえないこと

当時の平均的なマスコミ報道と比べても「捏造」であるとはいえないこと

③「捏造」したと断定されてもやむを得ない特段の事情がないこと

控訴人とは植村氏のこと。以下に同書面の第3~5節を抜粋する。第3準備書面全文はこちら→PDF

 


第3 記事Aが報じた録音テープの内容は「捏造」とはいえないこと

 

 1 上記のについては、そもそも、記事Aの取材対象となった録音テープの内容が問題となる。

(1)控訴人によれば、録音テープの再生供述を聞く前日、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を訪ね、尹貞玉代表(当時)にこのテープの由来を尋ねている。

 控訴人は、前年1990年7月17日にも同行した臼杵敬子氏と共に尹貞玉氏にインタビューしたが。その際の音声データが存在していることが判明し、当審で証拠として提出した。

 記事Aを執筆するにあたって1991年8月に聞いた録音テープは複製を含めてもはや現存しない。

 控訴人は、録音テープの内容につき、次のとおり述べるところ、控訴人が録音テープを取材するに至った経緯、録音テープの内容を聴取するまでの取材内容に即しても自然なものであり、そこには何らの作為性を見出すことができない。

 ア 控訴人陳述書(甲93)  

尹貞玉先生の話では、この女性は中国の東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされたということでした。机の上に置いた録音機から淡々と語る女性の声が聞こえてきました。テープの長さは約30分。女性は「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あの時のことを考えると腹が立って涙が止まらない」「思い出すと今でも身の毛がよだつ」などとつらい過去を振り返っていました。その言葉は、はっきりと聞き取れました。挺身協のメンバーによると、話をする前に泣いていた、というのです。  

 イ 控訴人調書

それは前日に聞いた話の確認でして、基本的には韓国語でもちろん聞くわけですけど、チョンシンデ・ハルモニ、挺身隊のおばあさんのこれは話ですねということで再確認しまして、基本的にはそういうような身の上を聞きまして、そしてテープを聞かしてもらうということになりました。

(2) すなわち、録音テープの供述者は、挺対協による慰安婦問題の取り組みによって名乗り出る勇気を得て、供述の機会を与えられ、匿名とはいえ、自らの肉声により、日本軍慰安婦としての生々しい体験を語ったという、揺るがしがたい事実がある。

控訴人は、上記のような挺対協の尹代表からの取材内容を踏まえ、録音テープの内容を聞き取った上で、記事Aのリード部分に「女子挺身隊の名で戦場に連行され(た)」「朝鮮人従軍慰安婦」と表現する記事Aを執筆した。

控訴人は、記事Aでかかる表現をした理由につき、「韓国で女子挺身隊というふうに呼ばれているところの慰安婦という、そういう意味で使(った)」(本人調書・裁判官の補充質問に対して)と述べる。

そこにも作為性は認められず、取材結果を記事化するに当たり、ジャーナリストとして遵守すべきルールを犯しているとは考えられない。

(3)この録音テープの供述者は、控訴人が記事Aを執筆したわずか4日後、1991年8月14日に、金学順という本名を明かして、北海道新聞社の単独インタビューに応じた上、同日、韓国国内のメディアによる共同記者会見にも臨んだ。

原審で唯一採用された証人の喜多義憲氏は、この単独取材に成功した人物であるが、陳述書(甲94)で以下のとおり述べている。

ア 1988年3月から1992年2月末まで、北海道新聞ソウル支局駐在記者であった。当時、元従軍慰安婦が韓国内に存在することは知られていたが、世上口には出せない公然の秘密とされ、新聞も韓国の恥部として書きにくい状況であったと思われる。韓国では、1988年2月の大統領選挙で軍事独裁政権に代わって民主政権が発足する。同年10月にソウルオリンピックを経て、「それまであまり紙面化されていなかった日韓の戦後処理問題に絡むニュースが登場し、『チョンシンデ』(挺身隊)というキーワードが出るようにな(った)」(1頁)。その一つとして、従軍慰安婦を「挺身隊」という言葉を用いて活動していた団体、韓国挺身隊問題対策協議会(以下、この項の主張では「挺対協」と略称することがある)の活動に関するものがあった。これらの記事・活動によって、戦時中、中国に駐在していた日本軍の部隊に慰安所があり、そこに朝鮮人慰安婦がいたことを知り、日本国内のマスコミにどのように扱われるのか関心を持つようになった。 

イ 1991年、北海道新聞社は、8月15日の終戦記念日を挟んで終戦50年の連載記事を掲載することになり、ソウル支局からは「従軍慰安婦問題」を提案して取材を開始した。8月、挺対協の尹貞玉・共同代表(当時、梨花女子大教授)を訪ね、取材中に尹氏から「7月に『元挺身隊』を名乗る女性が同協議会に名乗り出ており、事情を聴いていること」を聞かされ、「何とかその女性に直接合わせてほしい」と要請した。儒教思想が根深い(一般女性への純潔を求める社会意識が強い)韓国で、「自らが慰安婦だったことを公表するのは不可能に近いことを知っていた」から、「実名報道はさらに難しいだろう」と思っていた。しかし、その女性が単独インタビューに応じる、との尹代表からの連絡を受け、1991年8月14日、午後2時頃から、韓国教会女性連合会の事務局会議室で、その女性・金学順氏とのインタビューを始めた。

ウ 白いスカートに、黄色のTシャツの上に半そでジャケットのその女性に対して、「(日本国民として)心から深くお詫び(して)」始められたインタビューでは、金氏は「目を伏せながら静かに話し始め(た)」。「私が挺身隊であったということをウリナラ(我が国)ではなく日本の「言論」(韓国では報道機関のことを「言論」という)に最初に話すとは思いもしなかった」「夫も2人のこどもも既に亡くなり、天涯孤独の身なので、恥ずかしくとも死ぬ前にぜひ話しておかなければならないと思ったが、『日本』『日の丸』という言葉を聞くだけで今も胸がつぶれる」と話した。

 

そして、金氏のインタビュー内容をまとめた記事(甲24)の概要は、以下のとおりである。

 

戦前、女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに陵辱されたソウルに住む韓国人女性が14日、韓国挺身隊問題対策協議会(本部・ソウル市中区、尹貞玉・共同代表)に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた。・・・この女性は『女子挺身隊問題に日本が国として責任を取ろうとしないので恥ずかしさを忍んで・・・』とし、日本政府を相手に損害賠償訴訟も辞さない決意を明らかにした。

 

喜多氏が金氏を取材したのは、既に述べたとおり、控訴人が録音テープを取材して記事Aを執筆したわずか3日後であった。喜多氏は取材時に本件記事Aの存在を知らなかったという。

 喜多氏が金氏に対するインタビューの内容とこれに基づく記事について述べるところは、インタビューが実現するまでの経緯と、当時韓国在住の北海道新聞記者としての喜多氏がおかれていた社会状況、とりわけ慰安婦問題の韓国国内での扱われ方、喜多氏がジャーナリストとして抱いていたという問題意識等に及び、インタビュー対象の金氏が語り出す様子などの観察も詳細で矛盾がなく、何よりその証言態度が真摯であった。この証言の信用性を揺るがすような反対尋問も補充尋問もなかったし、そのような他の証拠もない。

したがって、現存しないテープの内容を推認する上でも、記事Aの直後にインタビュー記事を書いた喜多氏の証言内容が、記事Aをめぐる関係事実を認定する際の基礎に置かれるべきである。

 そして、言うまでもなく、「女子挺身隊の名で戦場に連行され(た)・・・慰安婦」という記事Aと、その直後に発表された喜多氏の上掲記事との間に、新聞報道としての質的差異はほとんど認められない。喜多氏の言葉を借りれば、控訴人植村の記事が「捏造」なら、同じように「挺身隊の名で」「連行され」などと書いた読売、産経、毎日など日本の他の新聞もみな、「捏造」になってしまう。それを他紙は一切問題視せず、控訴人植村だけを「捏造」と断じる控訴人櫻井の理屈は、論理が破綻している。

(4)金氏は、前述の1991年8月14日に行われた韓国メディアに対する記者会見において、自らのことを「挺身隊」と表現していた。この記者会見を受けて、韓国のメディアも「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(同月15日付東亜日報・甲59の1・2)、「挺身隊として連行された金ハルモニ 涙の暴露」(同日付京郷新聞・甲60の1・2)などと報道した。

 今回提出した元京郷新聞記者の陳述書(甲168)、元東亜日報記者の陳述書(甲172)、そして被控訴人が「捏造」の根拠としたハンギョレ新聞の記事を書いた元記者の陳述書(甲171の1、2)にもあるとおり、韓国の報道機関は、金氏をもって、自らが「挺身隊として」戦場に「連行され」た日本軍慰安婦であると記事で書くことが自然であった、ということである 

(5)以上の事実を踏まえれば、控訴人がテープが現存しない中で、控訴人が尹貞玉氏への事前取材と当日のテープ取材に基づいて、記事Aで「女子挺身隊の名で戦場に連行され」た「朝鮮人慰安婦の一人」と執筆したことが、録音テープの内容に基づいて新聞記者として忠実に表現したものということは通常の読み方をもって日韓の新聞報道を確認すれば明らかであろう。

 

2 もっとも、これと矛盾する、あるいは基本的なところでこれを否定する事実が述べられているとすれば、話は別のことになる。  

この点について、原判決が言及するところはない。

録音テープが現存しないにもかかわらず、被控訴人櫻井は、金学順氏「継父」(「WiLL」14年4月号、櫻井論文ア、甲7・41頁)や「実の母親」(「週刊ダイヤモンド」14年10月18日号、櫻井論文オ・甲11)に人身売買された結果として慰安婦にされたという憶測に立って、録音テープでもその旨を供述していたはずだ、そうであるのに控訴人はこれを知りながら意図的に書かなかったのだ、と主張する。

しかしながら、控訴人がテープを取材したわずか3日後の北海道新聞の単独インタビュー記事や、共同記者会見の記事によれば、被控訴人櫻井が主張するような内容が録音されていたことを裏付ける証拠は存しないというべきである。

そもそも、金氏がその時点では実名を明らかにすることを拒みながら、自らが意に反して慰安婦にされたことの苦悩を述べている長さ30分ほどの録音テープにおいて、殊更にそのような内容を述べたと合理的に推認することはできないのである。

 

 


第4 記事Aが当時の平均的なマスコミ報道と比べても捏造とはいえないこと

 

1 当時の平均的なマスコミ報道と比べれば、「捏造」とされてもやむを得ないといえるかどうかを検討するに当たっては、まず、当時の日本国内のメディアが朝鮮人慰安婦問題について、ないしは「挺身隊」と「慰安婦」との関係を、いかなる理解のもとでどのように報道していたのか、という事実を確定させる必要があることは言うまでもない。

これは、記事Aもまた、1991年8月当時の、慰安婦問題についてのわが国における報道の水準に規定されざるを得なかったからである。

 

2 この点につき、水野孝昭氏「慰安婦報道の出発点―1991年8月に金学順が名乗り出るまで」(甲134)における整理、分析を参照することが有益である。

同論文は、2017年秋に学会で発表されたもので、原審において原告から証拠申請したものの、原審裁判所は、第11回口頭弁論期日において、理由を示さぬまま時機に後れた証拠方法として却下したため、原判決の判断の資料とはされていない。

(1)同論文によれば、いわゆる慰安婦問題は、1991年8月の金氏の名乗り出を大きな契機として、1993年8月4日の日本政府による見解表明(河野談話)へと繋がるが、金氏の名乗り出については、メディアが果たした役割が大きく、日本と韓国のメディアによる地道で気の遠くなるような調査に支えられた報道がなければ困難なことであったという。

朝鮮人慰安婦問題が、終戦後半世紀近くも経ってから注目を浴びるようになったのは、日本政府が、自らの責任において解決すべき問題であるという見地に立って実態調査などをしようとしていなかったことに加え、当事者である元慰安婦の女性たちは、韓国内で歴史的に形成された強い儒教思想に支えられた社会意識の下で生活せざるを得なかった現実があって、恥辱感、屈辱感に囚われて容易に声を上げることができなかったからである。

(2)水野論文は、メディアによる調査、報道の果たした役割について、こんな例を挙げている。

1981年から85年にかけて、朝日新聞アジア総局に所属した松井やより記者は、戦時中タイに連行されて、戦後置き去りにされていた朝鮮人元慰安婦盧寿福(ノ・スボク)氏を取材して、その話を朝日新聞の1984年11月2日付夕刊に、「私は従軍慰安婦 韓国婦人の生きた道/邦人巡査が強制連行 21歳 故国引き離される」と題する記事を書いた。松井記者が、盧氏の所在を知ったのは、韓国の新聞記事を読んだことによる。今度は、松井記者の記事を読んだ尹貞玉梨花女子大教授が調査のために来日した。尹教授による朝鮮人慰安婦の調査研究は、1990年1月から「ハンギョレ新聞」に「挺身隊取材記」として連載され、尹教授らが中心となって1990年11月、韓国挺身隊問題対策協議会を組織して、元慰安婦の実態調査、被害救済の活動を進めた。

(3)金氏が1991年8月、挺対協に対して元慰安婦であると名乗り出て、これがいわゆるカミングアウトの契機となったこと、尹教授らが慰安婦の問題の解決を目指す取組みを「挺対協」という看板の下に進めた経過も、今では広く理解されている。

しかしながら、ここで改めて銘記されるべきは、朝鮮人慰安婦の問題が、私たち日本人にとって、日本の戦後責任の範疇で真摯に対面しなければならない歴史的事実して発掘され、公にされるまでに、かくも長い年月を費やした、ということである。

(4)朝鮮人慰安婦を「挺身隊」と関連づけて報じた新聞記事は、記事Aが最初であったわけでもなければ、朝日新聞のみがとった表現でもない。

例えば、読売新聞には、1987年8月14日付夕刊の「従軍慰安婦の実態を伝える『女子挺身隊』の挑戦」と表記した文化欄記事(甲20)がある。毎日新聞にも、1991年6月4日付朝刊で「『女子挺身隊』の名目で強制的に戦地に送られ」の記述(甲21)がある。

記事Aが出た13日後、尹貞玉・挺対協共同代表の来日と金学順氏の名乗り出を伝える読売新聞1991年8月24日付朝刊記事(甲63)には、リード文に「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され日本兵相手に売春を強いられたという朝鮮人従軍慰安婦」と、記事Aと酷似した表現があり、文中にも「昨年一月、尹さんが新聞に連載した挺身隊の取材記がきっかけになって、勇気を持って名乗り出る女性が現れてきた。ソウルの金学順さん(六八)もそんな一人。」という記述がある。何より、記事で紹介された金学順氏の「いまだにあの時の苦痛が忘れられず、日の丸や〝挺〟の字をみただけで息がつまり、胸がドキドキする」という発言は、「慰安婦」の「慰」ではなく、「挺身隊」の「挺」の字に反応していることから、自身を「挺身隊という名の慰安婦」ととらえている金氏の認識をはっきり示している。その1週間あまり後に出た産経新聞1991年9月3日付の尹貞玉氏の大阪講演を伝える記事(甲180)も「『挺身隊』の名のもとに、従軍慰安婦として戦場にかりだされた朝鮮人女性」という書き出しで始まっている。

1982年3月1日、日本テレビ系列の深夜番組「11PM」が「韓国から見た日本②」と題して、朝鮮人慰安婦問題の特集を放映したが、読売新聞の同日付朝刊TV欄(甲103)など各紙のTV欄には「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」と記されている(小松義貴意見書甲95・19頁、水野論文・甲134・6頁)。「11PM」は、同じ日テレ系列で、被控訴人櫻井がキャスターを務めていた「NNNきょうの出来事」の直後の放映だったため、TV欄の「女子てい身隊という名の…」のすぐ上に「出来事 桜井良子」と表記されており(甲103)、被控訴人が少なくとも1982年の段階で、日本のメディアでも慰安婦を「女子挺身隊」と呼んでいることを認識していた、もしくは新聞などの調査で容易に認識できる状況にあった。このため、「慰安婦と女子挺身隊を一体のものとして捏造記事を物した植村隆・朝日新聞元記者」(週刊ダイヤモンド14年10月25日号、櫻井論文カ・甲12)などと、「女子挺身隊の名で」と表記した記事Aを繰り返し「捏造」と断じた被控訴人櫻井が、ジャーナリストとして最低限なすべき基本的な裏付け取材を怠ったことは、明白である。

(5)わが国のメディアが、「挺身隊」と「慰安婦」との関係性について、韓国国内の固有の事情に基づく表現の仕方はともかく、自らが報道してきた内容の正確さを検証すべく調査、研究した結果、両者は別のものである、という自覚に立った報道を始めるのは、記事Aが執筆された翌年の1992年になってからのことであった。

かかる事実は、記事Aの表現を、後世において、間違いと知りながらあえてデッチ上げた「捏造」したものと断定して職業倫理にかかわる致命的な評価をすることが法的に許容されるかどうかを判断する上では、極めて重要なことである。

 


第5 控訴人には記事Aを「捏造」と断定されるような特段の事情はなかったこと

 

1 控訴人は、1991年当時、朝日新聞大阪本社社会部の記者として、自らの居住していた地域に多数存在した在日朝鮮人の生活や権利について関心を持ってはいたが、朝鮮人慰安婦問題を専門に取材していたわけではない。

のみならず、控訴人は、記事Aの執筆後も、この問題をさらに深く取材したいとして上司に申し出たことはないし、その旨の特命を受けたわけでもない。

これらの事実からは、記事Aを執筆した時点で、控訴人にとっては、朝鮮人慰安婦の問題は、わが国の戦後責任、戦後処理の問題の1つとして強い関心を抱いていたであろうが、それ以上のものではなかったということができる。

 

 2 控訴人は、妻と知り合う前の1990年から、上司の指示を受けて慰安婦の取材を始めていた。

 金学順氏が、控訴人の義母に初めて会うのは1991年9月であり、日本政府を訴えると告げるのは1991年11月である。

記事Aが発表された1991年8月11日、当時、金学順氏は氏名を公表していなかったのであり、裁判を起こす意思さえ不明であった。そうすると、控訴人が金学順氏に関する経歴についてどのように書こうとも、そこで義母の裁判を有利にする意図など抱きようがない。

控訴人と妻の肉親の関係(縁戚関係)が、この意味の特段の事情に当たらないことは明らかである。