札幌訴訟での陳述

裁判の重要局面での植村氏が法廷で陳述した意見書面計6通を収録する

①札幌地裁第1回、②同第11回、③同第12回(結審)、④札幌高裁第1回、⑤同第2回、⑥同第3回(結審)

 

東京訴訟での陳述は→こちら

 


① 札幌地裁口頭弁論第1回 2016年4月22日陳述

 

「殺人予告」の恐怖
裁判長、裁判官のみなさま、法廷にいらっしゃる、すべての皆様。知っていただきたいことがあります。17歳の娘を持つ親の元に、「娘を殺す、絶対に殺す」という脅迫状が届いたら、毎日、毎日、どんな思いで暮らさなければならないかということです。そのことを考えるたびに、千枚通しで胸を刺されるような痛みを感じ、くやし涙がこぼれてきます。

私は、2015年2月2日、北星学園大学の事務局から、「学長宛に脅迫状が送られてきた」という連絡を受けました。脅迫状はこういう書き出しでした。
「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するだけでなく、南朝鮮をはじめとする反日勢力の走狗と成り果てたことを意味するものである」

5枚に及ぶ脅迫状は、次の言葉で終わっています。
「『国賊』植村隆の娘である●●●を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」

私は、足が震えました。
大学に脅迫状が送られてきたのは2014年5月末以来、これで5回目でした。最初の脅迫状は、私を「捏造記者」と断定し、「なぶり殺しにしてやる」と脅していました。さらに「すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」と書いていました。


娘を殺害する、というのは、5回目の脅迫状が初めてでした。もう娘には隠せませんでした。「お前を殺す、という脅迫状が来ている。警察が警戒を強めている」と伝えました。娘は黙って聞いていました。

娘への攻撃は脅迫だけではありません。2014年8月には、インターネットに顔写真と名前が晒されました。そして、「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」と書かれました。こうした書き込みを削除するため、札幌の弁護士たちが、娘の話を聞いてくれました。私には愚痴をこぼさず、明るく振舞っていた娘が、弁護士の前でぽろぽろ涙をこぼすのを見て、私は胸が張り裂ける思いでした。

なぜ、娘がこんな目にあわなければならないのでしょうか。1991年8月11日に私が書いた慰安婦問題の記事への攻撃は、当時生まれてもいなかった高校生の娘まで、標的にしているのです。悔しくてなりません。脅迫事件の犯人は捕まっていません。いつになったら、私たちは、この恐怖から逃れられるのでしょうか。

私への憎悪をあおる櫻井さん
櫻井よしこさんは、2014年3月3日の産経新聞朝刊第一面の自身のコラムに、「真実ゆがめる朝日報道」との見出しの記事を書いています。このコラムで、櫻井さんは私が91年8月に書いた元従軍慰安婦の記事について、こう記述しています。

「この女性、金学順氏は後に東京地裁に 訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」。その上で、櫻井さんは「植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じ」ていない、と批判しています。しかし、訴状には「40円」の話もありませんし、「再び継父に売られた」とも書かれていません。

櫻井さんは、訴状にないことを付け加え、慰安婦になった経緯を継父が売った人身売買であると決めつけて、読者への印象をあえて操作したのです。これはジャーナリストとして、許されない行為だと思います。

さらに、櫻井さんは、私の記事について、「慰安婦とは無関係の「女子挺身隊」と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断定しています。

櫻井さんは「慰安婦と『女子挺身隊』が無関係」と言い、それを「捏造」の根拠にしていますが、間違っています。当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」と呼んでいたのです。他の日本メディアも同様の表現をしていました。

例えば、櫻井さんがニュースキャスターだった日本テレビでも、「女子挺身隊」という言葉を使っていました。1982年3月1日の新聞各紙のテレビ欄に、日本テレビが「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」というドキュメンタリーを放映すると出ています。

私は、神戸松蔭女子学院大学に教授として一度は採用されました。その大学気付で、私宛に手紙が来ました。「産経ニュース」電子版に掲載された櫻井さんの、そのコラムがプリントされたうえ、手書きで、こう書き込んでいました。
「良心に従って説明して下さい。日本人を貶めた大罪をゆるせません」
手紙は匿名でしたので、誰が送ってきたかわかりません。しかし、内容から見て、櫻井さんのコラムにあおられたものだと思われます。

この神戸の大学には、私の就任取り消しなどを要求するメールが1週間ほどの間に250本も送られてきました。結局、私の教授就任は実現しませんでした。

櫻井さんは、雑誌「WiLL」2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」という論文でも、40円の話が訴状にあるとするなど、産経のコラムと似たような間違いを犯しています。

このように、櫻井さんは、調べれば、すぐに分かることをきちんと調べずに、私の記事を標的にして、「捏造」と決めつけ、私や朝日新聞に対する憎悪をあおっているのです。
その「WiLL」の論文では、私の教員適格性まで問題にしています。「改めて疑問に思う。こんな人物に、果たして学生を教える資格があるのか、と。植村氏は人に教えるより前に、まず自らの捏造について説明する責任があるだろう」

「捏造」とは、事実でないことを事実のようにこしらえること、デッチあげることです。記事が「捏造」と言われることは、新聞記者にとって「死刑判決」に等しいものです。

朝日新聞は、2014年8月の検証記事で、私の記事について「事実のねじ曲げない」と発表しました。しかし、私に対するバッシングや脅迫はなくなるどころか、一層激しさを増しました。北星学園大学に対しても、抗議メールや電話、脅迫状が押し寄せ、対応に追われた教職員は疲弊し、警備費は膨らみました。

北星学園大学がバッシングにあえぎ、苦しんでいた最中、櫻井さんは、私と朝日新聞だけでなく、北星学園大学への批判まで展開しました。
2014年10月23日号の「週刊新潮」の連載コラムで、「朝日は脅迫も自己防衛に使うのか」という見出しを立て、北星学園大学をこう批判しました。「23年間、捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける元記者を教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿なのか」
同じ2014年10月23日号の「週刊文春」には、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい OB記者脅迫を錦の御旗にする姑息」との見出しで、櫻井よしこさんと西岡力さんの対談記事が掲載されました。私はこの対談の中の、櫻井さんの言葉に、大きなショックを受けました。

「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」

櫻井さんの発言には極めて大きい影響力があります。この対談記事に反応したインターネットのブログがありました。
「週刊文春の新聞広告に、ようやく納得。もし、私がこの大学の学生の親や祖父母だとしたなら、捏造で大問題になった元記者の事で北星大に電話で問い合わせるとかしそう。実際、心配の電話や、辞めさせてといった電話が多数寄せられている筈で、たまたまその中に脅迫の手紙が入っていたからといって、こんな大騒ぎを起こす方がおかしい。櫻井よしこ氏の言うように、「錦の御旗」にして「捏造問題」を誤魔化すのは止めた方が良い」

私はこのブログを読んで、一層恐怖を感じました。ブログはいまでもネットに残っています。
櫻井さんは、朝日新聞の慰安婦報道を批判し、「朝日新聞を廃刊にすべきだ」とまで訴えています。言論の自由を尊ぶべきジャーナリストにもかかわらず、言葉による暴力をふるっているようです。「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起している」のは、むしろ、櫻井さん自身の姿勢ではないか、と思っています。

「判決で、救済を」
 「言論には言論で闘え」という批判があります。私は「朝日新聞」の検証記事が出た後、複数のメディアの取材を受け、きちんと説明してきました。また、複数の月刊誌に手記を掲載し、自分の記事が「捏造」ではないことを、根拠を上げて論証しています。にもかかわらず、私の記事が「捏造」であると断定し続ける人がいます。大学や家族への脅迫もやむことがありませんでした。こうした事態を変えるには、「司法の力」が必要です。

脅迫や嫌がらせを受けている現場はすべて札幌です。櫻井さんの「捏造」発言が事実ではない、と札幌で判断されなければ、こうした脅迫や嫌がらせも、根絶できないと思います。

私の記事を「捏造」と決めつけ、繰り返し世間に触れ回っている櫻井さんと、その言説を広く伝えた「週刊新潮」、「週刊ダイヤモンド」、「WiLL」の発行元の責任を、司法の場で問いたいと思います。私の記事が「捏造」でないことを証明したいと思います。

裁判長、裁判官のみなさま。どうか、正しい司法判断によって、「捏造」記者の汚名を晴らしてください。家族や大学を脅迫から守ってください。そのことは、憲法で保障された個人の表現の自由、学問の自由を守ることにもつながると確信しています。                

 

以上  

 


② 札幌地裁口頭弁論11回  2018年3月23日提出書面 


【編注=提出原文から次の5項を抜粋、小見出しは原告がつけた】 1/1991年の記事を書くに至った経緯 2/当該記事の取材の経緯 3/記事の中でなぜ「挺身隊」という言葉を記載したのか 4/櫻井氏の情報改ざん例とルール違反例 5/櫻井氏が「捏造」と言わなくなった理由はなにか

 

1 1991年の記事を書くに至った経緯

私は1987年夏から1年間、朝日新聞社の派遣で、朝日新聞社に籍を置きながら、ソウルで韓国語を勉強した。早大生時代から隣国に関心があった私は、一年間の自由な時間に韓国社会の観察にはげみ、韓国語をマスターした。89年11月から、大阪社会部に勤務することになり、在日担当になったこともあり、大阪市生野区のかつて猪飼野と呼ばれた地域に住んだ。当時、朝日新聞の記者で、この地域に住んだ人はおらず、話題になった。

私は母一人子一人の母子家庭に育った。母親が働きながら、私を育てていたため、豊かな暮らしではなかった。そうした体験から、社会的に弱い立場の人びとへの共感を小さいときから抱いていた。私はこの旧猪飼野の街で、社会部記者として、在日の人びとの人権問題に取り組んだ。在日韓国人政治犯問題も担当していた。この取材などで、大阪からソウルに出張することもよくあり、当時のソウル支局長や支局員は、私を「準支局員」のように扱ってくれ、私もまた韓国取材が自分の取材範囲の一つだと認識していた。

1990年、日韓の間で、「慰安婦問題」が大きなテーマとして、浮上した。同年6月、参議院予算委員会で本岡昭次議員(社会党)が、慰安婦問題について質問し、当時の労働省職業安定局長は「民間の業者が軍とともに連れ歩いている」と答えた。これに対し、韓国側では強い反発があった。韓国では民主化が進み、女性の人権運動も盛んになり、慰安婦問題にも関心が高まっていた。

このような時期に、私は朝日新聞大阪本社が当時取り組んでいた平和企画の記事に、元慰安婦を取り上げたいと思った。過去の悲惨な歴史を記録し、再びそうしたことが生じないように記憶せねばならない、真の日韓和解のためにも、この問題が解決されなければならないと考えた。

1990年夏に2週間韓国を取材した。当時、梨花女子大学教授だった尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生にも協力を得ることができた。尹貞玉先生は、慰安婦問題に精通された方でした。尹先生の情報をはじめ、いくつかの情報をたどったが、結局、元慰安婦への取材はできなかった。空振りの取材となった。長い時間をかけて成果が無かったのに、担当デスクは怒るどころか、私を労わってくれたのが忘れられない。そのデスクは、その後、東京本社の論説委員となり、92年9月2日の夕刊コラム「窓・論説委員室から」に「元慰安婦から」と題して、その当時の私の取材について、書いている。【記者を2週間も韓国に派遣して探したが、見つけ出せなかった。がっかりして帰ってきた記者は、大阪で焼肉屋をやっているおばあさんが「挺身隊」にいたらしい、というわずかな情報を頼りに、ようやく店を尋ね当て、通い続けた。でも、「たとえそうだったとしても、話すわけがないよ。無駄なお金を使いなさんな」と言われてしまった】。このコラムでも、慰安婦の意味で「挺身隊」が出てくる。

1990年11月には、尹先生らが中心となって、韓国挺身隊問題対策協議会(略称「挺対協」)ができた。この名称の中の「挺身隊」という言葉も、慰安婦を意味していた。この1990年夏の取材で、太平洋戦争犠牲者遺族会で働いている女性と知り合い、お互いに惹かれあうようになり、1991年2月に大阪市生野区役所に婚姻届けを出した。

 

2 当該記事の取材の経緯

1991年夏、ソウル支局長に用事があって電話したところ、尹貞玉先生ら挺対協が、元慰安婦の聞き取り調査をしているという情報を得た。私はすぐに取材を希望し韓国に出張させてもらった。出張前に尹先生に取材を申し込んだときに、証言者はマスコミの取材を拒否しており、名前も教えられないと言われた。しかし、尹貞玉先生らが調査した時の録音テープは聞かせてもらえるということなので、私は大阪からソウルへ出張したのだった。たとえ、本人にお会いできなくても、元慰安婦が証言をしているということがとても重要なニュースだと思った。

ソウルに出張して、1991年8月10日に「挺対協」の事務所で、尹貞玉先生とスタッフの女性に会った。二人は聞き取った調査結果の内容を話してくれた。尹貞玉先生の話では、この女性は中国の東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされたということだった。そして尹先生らは、元慰安婦の女性の証言を録音したテープを聞かせてくれた。机の上に置いた録音機から淡々と語る女性の声が聞こえてきた。テープの長さは約30分。私はついに証言する人が出てきたんだと、驚き、震えた。女性は「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あの時のことを考えると腹が立って涙が止まらない」「思い出すと今でも身の毛がよだつ」などとつらい過去を振り返っていた。その言葉は、はっきりと聞き取れた。 

しかし、挺対協のメンバーによると、話をする前に泣いていた、という。どれほど勇気が要ったことだろう。それまで沈黙を続けていた女性がやっと思い口を開き始めた。私は大きな歴史の転換期だと思った。私はソウル支局に戻り、すぐに記事を書きあげた。元慰安婦の録音テープを再生して、その声を聴いている尹先生とスタッフの女性の二人のポーズ写真も電送した。この記事は、翌日1991年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面トップに同上の写真付で、出た。

3 記事の中でなぜ「挺身隊」という言葉を記載したのか

この記事の前文の中に私は、この女性について、「「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人」と書いた。韓国では当時、慰安婦のことを「挺身隊」(チョンシンデ)と表現していた。「挺身隊の名で」という表現は以前から韓国や日本のメディアで使われていました。常套句のように使われていた表現だったため、私もそれを踏襲した。たとえば、朝日新聞は1984年8月25日の慰安婦問題を伝えた朝刊記事で、「韓国人女子てい身隊(軍慰安婦)」という用字を使っている。1987年8月14日の読売新聞夕刊でも「『女子挺身隊』の名のもとに」、1991年6月4日の毎日新聞朝刊でも「『女子挺身隊』の名目で」とある。

また、先にも述べたように、1991年4月の参議院予算委員会でも本岡議員が、「政府が関与し軍がかかわって、女子挺身隊という名前によって朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だというふうに思います」と述べるなど、当時、慰安婦問題に関心のある人たちは普通にこの「挺身隊」という言葉を使っていた。櫻井氏は「女子挺身隊と慰安婦を結びつけた」などと繰り返し、私を批判しているが、当時のことを調べれば、私が結びつけたのではないことは、すぐにわかることだ。

ただ、この「挺身隊の名で」というのは、私の記事の本質ではなかった。慰安婦を説明する常套句であり、この記事の根幹は、戦時中、悲惨な体験をし、韓国に戻った元慰安婦が勇気を持って証言をし始めたというものだった。朝日新聞は同じ記事を翌日の8月12日、東京本社版の朝刊第二社会面に4段で載せている。その記事では、「挺身隊の名で」という表現はない。東京のデスクが削ったわけだが、「挺身隊の名で」という表現が、この記事の根幹・本質とは関係がないから、省略したのだろう。もしそれが、重要なデータで、この記事の本質であったら、私は削ったことに抗議しただろう。

この元慰安婦の女性は私の記事が大阪本社版に出た3日後の8月14日、ソウルで記者会見を開いた。私は記者会見をするなどとは予想もせず、8月12日に大阪へ戻っていた。このため、あとで、記者会見があったことを知り、とても残念に思った。8月15日付の韓国各紙に記事が出たわけだが、私はその記事をソウル支局から大阪本社社会部へファックスで送ってもらい、国際電話で尹貞玉先生にも取材をして、後追い記事を書いた。国内で書いた記事なので、署名はない。記事は、こんな内容だ。

「韓国の「韓国挺(てい)身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表)が聞き取り調査をしている元従軍慰安婦(女子挺身隊)の女性が十四日午後、ソウル市内で、実名を出して証言した。同夜のテレビニュースで流され、十五日朝の韓国の新聞各紙に大きく報道されるなど反響が広がっている」

この記事でも私は「従軍慰安婦(女子挺身隊)」と書いている。あくまでも、当時は従軍慰安婦=挺身隊という観念が頭の中にあったからだ。記事の中には尹貞玉先生のコメントも入っている。

「尹代表によると、十四日、二回目の聞き取り調査をしたところ、金さんは『日本政府は挺身隊の存在を認めない。怒りを感じる』と自分の体験を公表すると申し出た」。

尹先生は金学順さんが「挺身隊」という言葉を使っていたことを、私に伝えたのだ。挺身隊は韓国語で、チョンシンデと言う。ユン先生が「チョンシンデ」と言ったのを私が漢字で「挺身隊」と書いた。

8月14日には、当時の北海道新聞(道新)のソウル支局長の喜多義憲さんが金学順さんに直接インタビューに成功し、翌日の紙面で、大きな記事を書いたのを後で知った。記者会見の現場にいなかった私は、たいへん悔しい思いをしたのを記憶している。道新の記事では、金さんについて、「女子挺(てい)身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに陵(りょう)辱された」と書いてある。私と同じような書き方だ。私は筆者の喜多さんとは当時、面識がなかった。2006年前後に、札幌で開かれた地元の方の本の出版記念会で同席したのが、最初の対面だったと思う。2014年のバッシングの激しい最中に、喜多さんと久しぶりに会い、この時、初めて喜多さんの記事について、話をした。私は喜多さんに「私の記事を見て書いたのですか」と聞いた。すると、喜多さんは「あなたがそんな取材をしているのは知らなかった」という内容の答えをした。私の記事が与えた社会的影響の内実を推測することができる話だ。道新の続報(同年8月18日付)によれば、金学順さん自身もまた「私は女子挺身隊だった」と語っていたという。

8月15日付の韓国各紙の記事も「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(東亜日報)、「私は挺身隊だった」(中央日報)、「挺身隊の生き証人として堂々と」(韓国日報)などという見出しで報じている。このように当時、「挺身隊」は慰安婦を意味する表現として普通に使われていたのである。

私へのバッシングの激しかった2015年春、「週刊金曜日」の4月10日号にソウル在住の日本人研究者の吉方べきさんが、《「『朝日』捏造説は」は捏造だった」》という題の記事を発表した。吉方さんがこの記事を書かれた当時、私は吉方さんとは面識がなかった。吉方さんのこの記事では、「挺身隊」という言葉が、慰安婦を意味する用語として1960年代から韓国の新聞で使われていたというのである。私の記事よりずっと前から、この用語が韓国社会で一般的な表現になっていた事実を明らかにした調査報道の記事で、非常に励まされる思いがした。

また、私は1991年12月25日付の朝日新聞大阪本社版で「帰らぬ青春 恨の半生」という見出しで、金学順さんらの原告弁護団が同年11月25日に、金さんに聞き取った内容を紹介する記事を書いた。金さんらは同年12月6日に日本政府を相手に謝罪と賠償を求めて、東京地裁に提訴した。その19日後に出た記事だ。同年8月の記事では、「韓国挺身隊問題対策協議会」が聞き取りをしていたが、11月に金さんは、戦争被害者の会である「太平洋戦争犠牲者遺族会」に入り、訴訟を準備していた。その原告側弁護団の聞き取りに同席させてもらい、書いたものだ。

独自の取材ではなかったが、その時初めて金さんと会った。私は櫻井氏から、金さんが親に売られて慰安婦になったことを書いていないと批判されているが、私自身は金さんが親に売られて慰安婦になったとは聴いていないし、そのような認識はないので、記事にはしていない。

聞き取りに同席した裁判支援の市民団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の『ハッキリ通信』第2号がこの時の様子を記録している。そこでは、金さんが「私は平壌にあったキーセンを養成する芸能学校に入り、将来は芸人になって生きていこうと決心したのでした」と語ったことが記されている。私はそうした話を自分の記事には書かなかった。キーセンとは朝鮮の芸者である。キーセン学校に通ったことと、慰安婦にさせられたことは関係ないと思ったからだ。金さんらが日本を訴えた訴状にはキーセン学校に通った経歴も記されていた。しかし、金さんの提訴を報じた「読売新聞」「毎日新聞」「産経新聞」「日経新聞」の夕刊記事は、キーセン学校の経歴は書いていない。

この裁判の原告は、私の妻の母、つまり義母である梁順任(ヤン・スニム)が幹部を務める「太平洋戦争犠牲者遺族会」に所属していた。このため、義母の裁判を有利にするためなどという批判があるが、朝日新聞だけでなく、朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会も「縁戚を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたとはいえない」としています。

そもそもこの記事は東京地裁への提訴の19日後に、朝日新聞大阪本社版のみに出たもので、東京本社版には出ていない。それなのに、なぜ東京での裁判を有利にするためなどと批判されるのか、理解ができない。

4 櫻井氏の情報改ざん例とルール違反例

2014年2月6日の週刊文春が「慰安婦捏造朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という見出しの記事で、私のこの記事を攻撃した。当時、東京基督教大学教授だった西岡力氏の「捏造記事と言っても過言ではありません」というコメントも載せている。櫻井氏は、この文春記事に加勢するかのように、執拗に私に対して誹謗中傷を加えた。このため、私は札幌の訴訟で、櫻井氏の6つの記事を名誉毀損の対象として訴えた。

例えば、その中の「WiLL」2014年4月号で櫻井氏は、「過去、現在、未来にわたって日本国と日本人の名誉を著しく傷つける彼らの宣伝はしかし、日本人による『従軍慰安婦』捏造記事がそもそもの出発点となっている。日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事とはどんなものだったのか」と書いた上で、私の1991年8月11日の記事を取り上げている。

「(金学順さんが日本政府を訴えた訴訟の)訴状には、十四歳のとき、継父によって40円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭というところに連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とは何の関係もない『女子挺身隊』と結びつけて報じた」

しかし、私の記事の約4カ月後に金学順さんが日本政府を訴えた訴訟の訴状には「継父によって40円で売られた」とか、「再び継父によって・・・・慰安婦にさせられた」という記述はない。訴状には金学順さんが「人身売買の犠牲者である」と断定するような記述はない。

「訴状にない」ことを、あたかも「訴状にある」かのように書いて、私の記事を攻撃しているのだ。それは故金学順さんの尊厳を冒涜し、名誉を毀損することにもつながると考える。「訴状には」として、訴状にないことを書くのは、情報の改ざんだ。事実に基づいて書くという、ジャーナリストにとっての「基本的なルール」を、なぜ守らなかったのか。

櫻井氏は2014年3月3日付の産経新聞のコラム「真実ゆがめる朝日報道」でも、同じようなルール違反をしている。この記事で、櫻井氏は、金さんの訴状を紹介した上で、「植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じず、慰安婦とは無関係の『女子挺身隊』と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と書いている。

この櫻井氏の紹介した訴状のくだりの部分は、「この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」とあるが、訴状にはそのようなことは全く書かれていない。訴状には金学順さんが「人身売買の犠牲者である」と断定するような記述はない。先に述べた「WiLL」2014年4月号での、訴状の改ざんと同じ種類の改ざんだ。

この産経コラムの改ざんについて、この訴訟の第1回口頭弁論が2016年4月22日にあった際、私は意見陳述や記者会見で指摘した。同じ日に櫻井氏は札幌で開いた記者会見で、「訴状にそれが書かれていなかったということについては率直に私は改めたいと思います」と語っている。しかし、その後も、訂正されなかった。このため、私は産経新聞に訂正を求める民事調停を2017年9月1日、東京簡裁に申し立てた。いま世の中では、フェイクニュースという言葉が流布している。ウソを基にしたニュースということだ。この櫻井氏の記述も、その類ではないか。

私を長時間取材したジャーナリストの青木理さんが、著書「抵抗の拠点から」(講談社、2014年12月)で、こう指摘している。「植村氏が何かを捏造したわけでもなければ、事実を意図的にねじまげたフシもない。むしろジャーナリズムの原則からいえば『ごく普通』と評すべき元記者に対し、決して見過ごしにできないほど重大な人権侵害が私たちの眼前に立ち現れている。それは、大学の自治や学問の侵害といった重大な命題のほか、昨今の日本社会の底流に澱む風潮などについて深刻に考察させることごとをはらんでいる」

こうした受け止め方は、私を取材したジャーナリストたちに共通するものである。だからこそ、新聞社の労働組合がつくる日本新聞労働組合連合(新聞労連)、ジャーナリストや研究者、市民らで構成された日本ジャーナリスト会議(JCJ)が組織を挙げて私の裁判を応援してくれているのだと思う。

5 櫻井氏が「捏造」と言わなくなった理由はなにか

最近、ひとつ気づいたことがある。櫻井氏は、私が裁判を起こした後、自身のコラムでは私の記事について「捏造」という表現を使わなくなっているようなのだ。櫻井氏のオフィシャルサイトには櫻井氏が週刊誌で書いたコラムを掲載している。サイトには、検索機能がある。そこで、「植村隆 捏造」と入れると、私が櫻井氏を提訴した後には、記事が出てこない。提訴前は各誌のコラムで、私の記事を「捏造」と書き続けていたにも関わらず、札幌訴訟後の大きな変化だと思う。

例えば、櫻井氏は「週刊新潮」2016年5月5日・12日合併号のコラム「日本ルネッサンス」に「朝日慰安婦報道の背景を分析する」という題で、私について触れている。これは、4月22日にあった札幌訴訟の第1回口頭弁論に出廷した櫻井氏が裁判の様子などを書いているものである。

その中で、櫻井氏は、こう指摘している。「慰安婦報道については、植村氏の記事だけを見るのでは全体像は見えない。朝日新聞の報道全体を見ることが大事である。」「このような朝日の元記者、植村氏との裁判は恐らく長い闘いになるだろう。私はこれを慰安婦問題を生み出した朝日の報道、朝日を生み出した日本の近現代の歪みについて、より深く考える機会にしようと思う」

これまでずっと主張してきた「捏造」という言葉のかけらもない。これはいったい、どういうことなのだろうか。もしかしたら、櫻井氏は、自らの言説が私の名誉を毀損したと考えているのではないか。櫻井氏は気づいたのではないか。「植村の記事は捏造とは言えない」と。そうであれば、速やかにそう認識して、言明して欲しいと思う。櫻井氏は、事実に敬意を払うべきだと思う。今回の裁判は、ジャーナリズムにとって事実がいかに大切ということを問いかける歴史的な裁判だと確信している。私は今回の裁判で、蔓延するフェイクニュースに歯止めをかけ、真のジャーナリズムの道を切り開いていきたいと思う。

 

 


③ 札幌地裁口頭弁論第12回(結審) 2018年7月6日陳述

 

今年3月、支援メンバーらの前で、直前に迫った本人尋問の準備をしていました。「なぜ、当該記事を書いたのか」、背景説明をしていました。こんな内容でした。

 私は高知の田舎町で、母一人子一人の家で育ちました。豊かな暮らしではありませんでした。小さな町でも、在日朝鮮人や被差別部落の人びとへの理不尽な差別がありました。そんな中で、「自分は立場の弱い人々の側に立とう。決して差別する側に立たない」と決意しました。そして、その延長線上に、慰安婦問題の取材があったと説明していました。

 その時です。突然、涙があふれ、止まらなくなり、嗚咽してしまいました。

 

新聞記者となり、差別のない社会、人権が守られる社会をつくりたいと思って、記事を書いてきました。それがなぜ、こんな理不尽なバッシングにあい、日本での大学教員の道を奪われたのでしょうか。なぜ、娘を殺すという脅迫状まで、送られて来なければならなかったのでしょうか。なぜ、私へのバッシングに北星学園大学の教職員や学生が巻き込まれ、爆破や殺害の予告まで受けなければならなかったのでしょうか。「捏造記者」と言われ、それによって引き起こされた様々な苦難を一気に思い出し、涙がとめどなく流れたのでした。強いストレス体験の後のフラッシュバックだったのかもしれません。

 

 本人尋問が迫るにつれ、悔しさと共に緊張と恐怖感が増してきました。反対尋問では再び、あのバッシングの時のような「悪意」「憎悪」にさらされるだろうと思ったからです。

「そうだ、金学順(キム・ハクスン)さんと一緒に法廷に行こう」と考えました。そして、金学順さんの言葉を書いた紙を背広の内ポケットに入れることにしたのです。

 

この紙は、私に最初に金学順さんのことを語ってくれた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生の著書の表紙にあった写真付の著者紹介の部分を切り取ったものです。その裏の、白い部分に金学順さんが自分の裁判の際に提出した陳述書の中の言葉を黒いマジックで、「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」と書きいれました。

私の受けたバッシング被害など、金さんの苦しみから比べたら、取るに足らないものです。いろんな夢のあった数えで17歳の少女が意に反して戦場に連行され、数多くの日本軍兵士にレイプされ続けたのです。絶望的な状況、悪夢のような日々だったと思います。

そして、私は、こう自分に言い聞かせました。「お前は、『慰安婦にされ人生を奪われた』とその無念を訴えた人の記事を書いただけではないか。それの何が問題なのか。負けるな植村」

金さんの言葉を、胸ポケットに入れて、法廷に臨むと、心が落ち着き、肝が据わりました。

 きょうも、金さんの言葉を胸に、意見陳述の席に立っています。

 

私は、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけなのです。

そして「日本の加害の歴史を、日本人として、忘れないようにしよう」と訴えただけなのです。韓国で慰安婦を意味し、日本の新聞報道でも普通に使われていた「挺身隊」という言葉を使って、記事を書いただけです。それなのに、私が記事を捏造したと櫻井よしこさんに繰り返し断定されました。

 

 北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、ほぼ同じような内容の記事を書きました。記事を書いた当時、私との面識はなく、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったのです。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」でない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、2月に証人として、この法廷で、櫻井よしこさんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示されました。

そして、こうも述べられました。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」この言葉に、私は大いに勇気づけられました。

 

 1990年代初期に、産経新聞は、金学順さんに取材し、金学順さんが慰安婦になった経緯について、少なくとも二度にわたって、日本軍の強制連行と書きました。読売新聞は、「『女性挺身隊』として強制連行され」と書きました。

いま産経新聞や読売新聞は、慰安婦の強制連行はなかったと主張する立場にありますが、1990年代の初めに金学順さんのことを書いたこの両新聞の記者たちは、金さんの被害体験をきちんと伝えようと、ジャーナリストとして当たり前のことをしたのだと思います。私は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、「だまされた」と書きました。「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。彼女が慰安婦にさせられた経緯が重要なのではなく、慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということです。

しかし、私だけがバッシングを受けました。娘は、「『国賊』植村隆の娘」として名指しされ、「地の果てまで追い詰めて殺す」とまで脅されました。

 

あのひどいバッシングに巻き込まれた時、娘は17歳でした。それから4年。『殺す』とまで脅迫を受けたのに、娘は、心折れなかった。そのおかげで、私も心折れず、闘い続けられました。私は娘に「ありがとう」と言いたい。娘を誇りに思っています。

 

 被告・櫻井よしこさんは、明らかに朝日新聞記者だった私だけをターゲットに攻撃しています。私への憎悪を掻き立てるような文章を書き続け、それに煽られた無数の人びとがいます。櫻井さんは「慰安婦の強制連行はなかった」という強い「思い込み」があります。その「思い込み」ゆえなのでしょうか。事実を以て、私を批判するのではなく、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、この裁判を通じて明らかになりました。そして誤った事実に基づいた、櫻井さんの言説が広がり、ネット世界で私への憎悪が増幅されたことも判明しました。

 

 WiLL」の2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした「月刊宝石」やハンギョレ新聞の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。

 

しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、2年以上経っていましたが、「WiLL」と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。実は、訂正文には新たな間違いが付け加えられていました。金さんが強制連行の被害者でないというのです。日本軍による強制連行という結論をもつ記事に依拠しながらも、その結論の部分を再び無視していました。極めて問題の大きい訂正でしたが、櫻井さんの取材のいい加減さが、白日のもとに晒されたという点では大きな前進だったと思います。支援団体の調べでは、この種の間違いが、産経、「WiLL」を含めて、少なくとも6件確認されています。

 

 提訴以来3年5か月が経ちました。弁護団、支援の方々、様々な方々の支援を受け、勇気をもらって、歩んでまいりました。絶望的な状況から反撃が始まりましたが、「希望の光」が見えてきたことを、実感しています。

そして櫻井よしこさんをはじめとする被告の皆さん、被告の代理人の皆さん。長い審理でしたが、皆様方はいまだに、ご理解されていないことがあると思われます。大事なことなので、ここで、皆様方に、もう一度、大きな声で、訴えたいと思います。

 「私は捏造記者ではありません」

 裁判所におかれては、私の意見を十分に聞いてくださったことに、感謝しております。公正な判決が下されることを期待しております。

 

以上

 


④ 札幌高裁口頭弁論第1回 2019年4月25日陳述

 

今年1月4日午後、私の裁判を支援してくれている仲間と二人で、札幌市中央図書館に行きました。櫻井よしこさんに関する新証拠を探すためです。その資料は、古いもので閉架資料室にありました。『週刊時事』という雑誌の1992年7月18日号です。「ずばり一言」という欄に櫻井さんは日本軍慰安婦に関する文章を書いていたのです。前の年1991年12月6日、3人の韓国人元日本軍慰安婦が日本政府に謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴したことについて、取り上げていました。この元慰安婦の原告で唯一、実名を公表していたのが、金学順さんでした。私が1991年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面で、匿名で証言内容を報じた元慰安婦です。櫻井さんは『週刊時事』でこう書いていました。


「東京地方裁判所には、元従軍慰安婦だったという韓国人女性らが、補償を求めて訴えを起こした。強制的に旧日本軍に徴用されたという彼女らの生々しい訴えは、人間としても同性としても、心からの同情なしには聞けないものだ」
「売春という行為を戦時下の国策のひとつにして、戦地にまで組織的に女性達を連れていった日本政府の姿勢は、言語道断、恥ずべきである」

びっくりしました。櫻井さんが金学順さんについて「強制的に旧日本軍に徴用された」と書いていたからです。徴用とは国家権力による強制的な動員を意味します。まさに、強制連行のことです。櫻井さんは、雑誌が出た1992年当時は、金学順さんら3人の元慰安婦の主張を、「強制的に旧日本軍に徴用された」と認識していたのです。今は金学順さんが日本軍によって強制的に慰安婦にさせられた事実を否定している櫻井さんが、『週刊時事』の記事では日本政府の関与を認め、被害者の声をありのままに受け止めていたのです。

櫻井さんは2014年以来、金学順さんについて「人身売買されて慰安婦になった。植村はそれを隠して強制連行と書いた」という趣旨の主張をし、1991年8月の私を記事を「捏造」だと繰り返し断定しましたが、実際は櫻井さん自身が、「強制連行」と同義の表現を使っていたのです。それも私の記事の出た約11カ月後、『週刊時事』に書いていたのです。自分自身が、強制連行と書いていたのに、それを隠して、私を批判するとは、ジャーナリストとして、あまりにアンフェアです。それは、公正な言論ではありません。これは新証拠として、札幌高等裁判所に提出すべきだと考えました。一審の裁判長が知らなかった事実なのです。

この『週刊時事』の記事が出た5カ月後、櫻井さんは再び、慰安婦の強制連行を伝えています。自身がキャスターを務めていた日本テレビのニュース番組「NNNきょうの出来事」です。日本弁護士連合会が後援した「日本の戦後補償に関する国際公聴会」のニュースで、櫻井さんはこう伝えました。

「日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた女性たちが、当時の様子を生々しく証言しました」

櫻井さんがそう伝えた後、切り替わったテレビ映像には、壇上で涙ながらに抱き合う、何人かの元慰安婦が映りました。その中に、金学順さんの姿がはっきり映し出されていました。つまり、櫻井さんは、金学順さんを含む元慰安婦について、「日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた女性たち」と、全国放送のニュース番組で報じたのです。櫻井さんはキャスターとしてニュースの編成段階から関わっており、「日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた」という櫻井さん自身の認識を、明らかにしたことになります。

私自身は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、1991年8月の記事では「だまされて」と書きました。直接、金さんに取材できない状況での表現でした。その後、金さんは会見などで、強制連行だったと話しています。しかし、「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、数えで17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということなのです。

私の1991年8月の記事を読んだ西岡力さんは、月刊『文藝春秋』1992年4月号で、金学順さんについて「人身売買による強制売春」と決め付けて、私が記事で金さんを強制連行と書いたとして、「事実誤認」と主張しました。櫻井さんは、西岡さんと交友があり、当時、西岡さんの記事を知りながら、『週刊時事』や「NNNきょうの出来事」で金学順さんのことを、強制連行と報道していたのです。

櫻井さんは2014年に突然、「捏造」だと断定し始めました。「捏造」の根拠は、92年に西岡さんが指摘したのと同じ人身売買説です。もう一度言います。かつて、西岡さんの指摘を知りながら、櫻井さん自身が、強制連行と報道したのに、私の記事を「捏造」と言うのです。櫻井さんの言説は公正ではありません。

私は「植村捏造バッシング」の影響で、内定していた神戸松蔭女子学院大学の専任教授のポストを失いました。さらに、私が当時、勤務していた北星学園大学も「植村捏造バッシング」に巻き込まれ、大学を爆破する、学生、教職員を傷つける、といった脅迫を受けました。大学が脅迫に苦しんでいた時、櫻井さんは、私と『朝日新聞』だけでなく、矛先を北星学園大学にまで向けました。2014年10月23日号の『週刊新潮』の連載コラムでは、「23年間、捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける元記者を教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿なのか」と書き、私が「捏造」したことを根拠に、大学教員として不適格であるという烙印を押しました。そして、同じ2014年10月23日号の『週刊文春』に載った西岡力さんとの対談記事で、櫻井さんは、こう言い放ちました。「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」

この櫻井さんの文章の約3か月後、北星学園大学の学長宛に、私の娘を殺害する、という脅迫状が送られてきました。暴力的言辞の最たるものでしょう。「『国賊』植村隆の娘である●●●を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」。この脅迫状を見て、私は、足が震えました。大学に脅迫状が送られてきたのは5回目で、その中には私への殺害予告がいくつかありましたが、娘を殺すというのは初めてでした。なぜ、娘まで巻き込まれなければならないのか。絶望的な気持ちになりました。脅迫事件の犯人は捕まっていません。いつになったら、私たち一家は、この恐怖から逃れられるのでしょうか。

それだけでは、ありません。櫻井さんと西岡さんの「植村捏造バッシング」の後、日本での私の大学教員の道は閉ざされてしまいました。それだけでなく、家族まで殺害予告を受けた「植村捏造バッシング」を見て、新聞やテレビの記者たちが萎縮し、慰安婦の被害を伝えるような記事がほとんど出なくなっています。

櫻井さんが「植村捏造バッシング」を始めて5年が過ぎました。私は、法廷の中だけでなく、様々な言論活動で、「捏造記者」でないことを訴えてきました。『週刊金曜日』に呼ばれ、発行人になったのも、私が「捏造記者」ではないということが、一部の言論の世界では理解されている証拠だと思います。『週刊金曜日』に通うために首都圏に小さな部屋を構えました。しかし、表札に名前を書くことができません。怖くて、表札に名前を出せないのです。バッシングの激しい時期には、私の自宅の様子や電話番号などがインターネットにさらされました。当時、出張先の神戸の駅で、見知らぬ大きな男からいきなり、「植村隆か。売国奴」と言われて、震え上がったことがあります。いまだに殺害予告の恐怖は続いているのです。

私は、1991年8月の記事で、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけです。櫻井さんには、言論の自由があります。しかし、私の記事を「捏造」と断罪するからには、確かな取材と確かな証拠集めが必要です。櫻井さんは、そのいずれも怠っています。朝日新聞や私への取材もありませんでした。そして、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、札幌地裁の審理を通じて明らかになりました。

WiLL』2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした『月刊宝石』や『ハンギョレ新聞』の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、札幌地裁の尋問で訴状の引用の間違いを認めました。そして、『WiLL』と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。

北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは1991年、私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、私とほぼ同じ内容の記事を書きました。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」ではない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、昨年2月に札幌地裁で証人として、出廷し、櫻井さんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示しました。そして、喜多さんは、こう証言しました。

「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」

記事を書いた当時、喜多さんは私と面識はありませんでした。しかも、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったといいます。私はライバル紙の記者から、「無罪」の判決を受けたのです。ジャーナリズムの世界では、それは大きな「無罪」証明でした。

しかし、昨年11月の札幌地裁判決では、櫻井さんの間違いの訂正や、喜多さんの証言は、全く採用されず、私は敗訴しました。判決は、唯一の証人だった喜多さんの証言を全く無視していたのです。判決では櫻井さんの人身売買説を真実であるとは認定しませんでした。しかし、櫻井さんが、私の記事を「捏造」だと信じたことには、相当の理由があると判断し、櫻井さんを免責したのです。この理屈でいけば、裏づけ取材をしなくても「捏造」と思い込むだけで、「捏造」と断じることが許され、名誉毀損には問えないことになります。あまりに公正さを欠く、歴史に残る不当判決だと思います。

札幌高等裁判所におかれては、これまでの証拠や新しい証拠を検討していただき、歴史の検証に耐えうる公正な判決を出していただきたいと願っております。

以上

 


⑤ 札幌高裁口頭弁論第2回 2019年7月2日陳述

 

裁判官が交代されたこの時期に、発言の機会が与えられたことに感謝しております。

 

昨年11月、札幌地裁判決を聞いた瞬間、司法による救済を確信していた私は愕然としました。第一に「女子挺身隊の名で戦場に連行され」などと表現した私の記事が、他紙でも同じ表現をしている、ごく一般的な記事だったことが、元北海道新聞ソウル特派員の喜多義憲さんの証言などで明らかになっていたからです。そして第二に、櫻井さんが、私が記事を捏造した根拠として、元日本軍慰安婦金学順(キム・ハクスン)さんの訴状に40円で売られたなどと書いてある、と雑誌『WiLL』などの記事で伝えていた問題です。実際の訴状にはその記述は一切なく、事実無根であるなど、取材のずさんさが明らかになっていたからです。

 

地裁の審理で唯一証人として採用された喜多さんの証人尋問があったのは昨年2月です。喜多さんは、1991年8月、私の記事が出た3日後、金学順さん本人に単独取材し、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、私とほぼ同じ内容の記事を書きました。喜多さんは、櫻井さんが私だけを「捏造」したと決めつけた言説について、「言い掛かり」との認識を示しました。そして、こう証言しました。

「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」

 

記事を書いた当時、喜多さんは私と面識はありませんでした。しかも、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったといいます。私はライバル紙の記者から、この記事を捏造であるなどというのは、言い掛かりである、と証言していただいたのです。

 

昨年3月、櫻井さんの本人尋問がありました。櫻井さんは『WiLL2014年4月号の記事にある「訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という部分がないことを認めて、訂正しますと言明しました。実際、『WiLL』には訂正記事が出ました。櫻井さんがこの種の間違いを少なくとも6回、やっていることが分かりました。

 

しかし、昨年11月の札幌地裁判決は、櫻井さんの間違いを重視せず、喜多さんの証言を全く無視しました。判決では、人身売買であったとする櫻井さんの主張については、真実であるとは認定しませんでした。十分な取材をしてないのに、また根拠である資料を最後までしっかり読めば容易にわかることなのに、これを怠った櫻井さんが、私の記事を「捏造」だと信じたことについて、相当の理由があると判断し、櫻井さんを免責したのです。この理屈でいけば、裏づけ取材をしなくても「捏造」と思い込むだけで、「捏造」と断じることが許され、名誉毀損には問えないことになります。あまりに公正さを欠く判決だと思います。

 

私は1991年8月11日付の朝日新聞大阪本社版の記事Aで、元日本軍慰安婦であったとして被害を訴える一人の韓国人女性の思いを書きました。匿名の女性の録音テープを聞く取材方法でした。この元慰安婦の女性は私の記事の3日後に、金学順と実名を名乗り、被害体験を記者会見で明らかにしました。この勇気ある証言で、被害者の名乗り出が相次ぎ、慰安婦問題が国際的な戦時性暴力問題として、クローズアップされることになりました。

 

それから23年経った2014年になって、櫻井さんは突然、私の記事を「捏造」であると、私への個人攻撃を始めました。

「日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事はどんなものだったのか」。

これは、月刊雑誌『WiLL』2014年4月号の櫻井さんの記事です。櫻井さんは、ここで、私が書いた1991年8月の記事Aを「捏造」と決めつけています。

 

櫻井さんは、この『WiLL』の記事で、金学順さんが1991年12月に、日本政府を相手に裁判を起こしたことに言及し、こう主張しています。

「訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とは何の関係もない『女子挺身隊』と結びつけて報じた」。 

 

この櫻井さんの記事などの後に、激しい「植村捏造バッシング」が起きました。転職先の大学専任教授のポストを失い、非常勤講師をしていた北星学園大学は爆破すると脅され、2015年2月2日には、「娘を殺す」という脅迫までされました。「捏造」という言葉が脅迫状や抗議メールの中にも繰り返されていました。私は、櫻井さんらを名誉毀損で2015年2月10日に訴えました。

 

先月26日、東京地裁で、元東京基督教大学教授の西岡力さんらを訴えた裁判の判決の言い渡しがありました。西岡さんも櫻井さん同様、私が捏造したという証拠を一つも示せず、捏造の根拠とした訴状の引用などを間違えていたにも関わらず、判決は西岡さんが私の記事を「捏造」と信じた真実相当性について、「推論として一定の合理性がある」などとして認め、西岡さんを免責しました。異常な判断だと思います。

 

私は札幌高裁の審理と判断に希望をつないでいます。証拠と事実に基づいて判断していただけるという裁判に対する信頼を失っていないからです。

 

札幌高裁には、櫻井よしこさんに関する新証拠を提出しました。『週刊時事』という雑誌の1992年7月18日号です。ここに、櫻井さんは日本軍慰安婦に関する文章を書いていました。前の年の1991年12月、金学順さんら3人の韓国人元慰安婦が日本政府に謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴したことについて、取り上げていました。

 「東京地方裁判所には、元従軍慰安婦だったという韓国人女性らが、補償を求めて訴えを起こした。強制的に旧日本軍に徴用されたという彼女らの生々しい訴えは、人間としても同性としても、心からの同情なしには聞けないものだ」。

櫻井さんは金学順さんらについて「強制的に旧日本軍に徴用された」と書いていたのです。徴用とは国家権力による強制的な動員を意味します。まさに、強制連行のことです。櫻井さんは、雑誌が出た1992年当時は、金学順さんら3人の元慰安婦の主張を、「強制的に旧日本軍に徴用された」と認識していたのです。

 

櫻井さんは2014年以来、金学順さんについて「人身売買されて慰安婦になった。植村はそれを隠して強制連行と書いた」という趣旨の主張をし、1991年8月の私の記事を「捏造」だと繰り返し断定しましたが、実際は櫻井さん自身が、「強制連行」と同義の表現を使っていたのです。それも私の記事の出た約11カ月後、『週刊時事』に書いていたのです。自分自身が、強制連行と書いていたのに、それを隠して、私を攻撃するとは、ジャーナリストとして、あまりにアンフェアです。それは、公正な言論ではありません。これは新証拠として、札幌高等裁判所に提出すべきだと考えました。一審の裁判長が知らなかった事実なのです。

 

櫻井さんには、言論の自由があります。しかし、私の記事を「捏造」と断罪するからには、確かな取材と確かな証拠集めが必要です。今回、元毎日新聞記者の山田寿彦さんの陳述書を提出しました。山田さんは2000年11月の「旧石器発掘ねつ造」スクープの取材班のキャップでした。その陳述書では、はっきりとこう書いています。捏造が「故意」を含むことから、断定して書くには、捏造をした「蓋然性の高い客観的事実」の取材に加え、当事者の認識の確認が不可欠だったと。山田さんらは、石器を埋める自作自演の決定的な瞬間をビデオ撮影で押さえた後、「取材の常道」として、本人の言い分を聞く取材もしています。

 

櫻井さんは私の記事を「捏造」と断定する直接的な証拠を何一つ示せていないのに、私に一切取材せず、金学順さんら元慰安婦に誰一人会いもせず、韓国挺身隊問題対策協議会にも、私の義母にも取材していません。今回、意見書を提出した憲法学者の志田陽子先生は、「捏造」をしたかどうかの核心部分は本人への直接取材が求められると指摘し、それをしていない櫻井さんは「真実相当性」が証明できていないと断じています。

 

私は櫻井さんから「標的」にされたのだと思います。当時、「挺身隊」という言葉を使ったのは、私だけではありません。北海道新聞の喜多さんを始め、金学順さんについて報じた読売新聞や東亜日報など日韓の記者達も書いています。金学順さん自身が、挺身隊だと言い、強制的に連行されたことを語っているのです。当時の産経新聞や読売新聞も「強制連行」という表現を使っています。しかし、私だけが「標的」にされ、すさまじいバッシングに巻き込まれました。

 

私は捏造記者ではありません。

この「植村捏造バッシング」は、私だけをバッシングしているのではありません。歴史に向き合おう、真実を伝えようというジャーナリズムの原点をバッシングしているのではないかと考えています。真実を伝えた記者が、「標的」になるような時代を、一刻も早く終わらせて欲しい。私の被害を司法の場で救済していただきたいと思います。札幌高裁におかれては、これまでの証拠や新しい証拠を検討していただき、歴史の検証に耐えうる公正な判決を出していただきたいと願っております。                                               

以上


⑥ 札幌高裁口頭弁論第3回(結審) 2019年10月10日陳述

 

この夏、私は30年ほど前の「私」に再会しました。1990年から91年にかけて、朝日新聞大阪社会部記者として、韓国ソウルで「慰安婦」問題を取材していた私の声が入った録音テープを見つけたのです。「慰安婦」問題に取り組んできたジャーナリストの臼杵敬子さんの自宅にありました。私が今回、証拠として提出したものです。

 

一つは、1990年7月17日、梨花女子大学教授で慰安婦問題の調査を続けていた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生に私がインタビューしている録音テープでした。こんなやり取りです。尹先生、「韓国でも挺身隊について関心が高まっていて、これがどんどん広がると、おばあさんたちも(中略)話をするようになるかもしれない」。私、「女子挺身隊問題は、日本では知られていないからもっと報道しなければならない。(中略)。おばあさんと会えますか」。私たちは「挺身隊」を「慰安婦」の意味で何度も使っています。

その翌年の91年2月、私は韓国人女性と結婚し、太平洋戦争犠牲者遺族会(遺族会)幹部の梁順任(ヤン・スニム)さんが義母となりました。櫻井よしこさんは、91年12月に遺族会が日本を相手取った戦後補償の裁判を支援するために、私が記事を書いたと言いますが、そのずっと前から慰安婦の記事を書こうとしていたのです。

 

91年夏、元慰安婦の女性が、尹先生が共同代表を務める「韓国挺身隊問題対策協議会」に名乗り出て来ました。そのことを朝日新聞ソウル支局長から聞き、ソウルに出張しました。女性にはインタビューできませんでしたが、尹先生の調査と女性の録音テープをもとに91年8月11日付の朝日新聞大阪本社版の記事を書きました。この裁判で記事Aとされるものです。尹先生は、その女性についても「挺身隊」だと説明していました。

もう一つの録音テープは、日本政府を相手に謝罪と賠償を求める裁判の原告になることを決めた金学順さんに対する弁護士の聞き取りを記録したものです。この裁判は、遺族会が起こそうとしたもので、聞き取りは91年11月25日にソウルで行われました。それを傍聴させてもらい、私は、91年12月25日付の記事Bを書いたのでした。金学順さんとの私の会話も録音されています。

 

私は金さんに名乗り出た時のことを聞いています。金さんは在韓被爆者の女性と一緒に「韓国挺身隊問題対策協議会」に行ったのです。金さんはこんな内容の話をしていました。「挺身隊問題の関連がある、いまそこに用事で行くと。そんな話を聞いて行ったんです」。

私はこう聞いています。「テレビに出たじゃないですか。それを見た町内の人たちに、おばあさんが昔、挺身隊にいたんだと知られましたか」。金さんは答えました。「知らない人は知りません」。金さんも私も「慰安婦」の意味で、「挺身隊」という言葉を使っています。

 

櫻井さんは、雑誌『WiLL』2014年4月号で、こう私を非難しました。(植村氏は)「慰安婦とは何の関係もない『女子挺身隊』と結びつけて報じた」。櫻井さんの論理は、私が読者に「女子挺身隊」を強制的に動員された「勤労女子挺身隊」と誤解させるため、本当は女子挺身隊と慰安婦は違うと知りながら、意図的に捏造記事を書いたというものです。しかし、今回証拠提出した二つのテープは、櫻井さんのその理屈が完全に破綻していることを客観的に証明しています。

 

櫻井さんは一審で矛盾だらけの陳述をしています。臼杵敬子さんが書いた月刊『宝石』1992年2月号の金学順さんの被害証言記事を読んだ当時の印象を、櫻井さんは一審の本人尋問でこう証言しました。「植村さんが朝日新聞に書いた女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春を強いられたという内容と全く違う(中略)ことに衝撃を受けました。強い印象を持ちました」。しかし、宝石の記事では冒頭で、挺身隊とは日本では軍需工場などで働く女子を指すが、朝鮮半島では違う、慰安婦を意味する、とはっきり書いています。さらに本文では、金さんがサーベルを下げた日本人将校に脅され養父と引き離され、強制的に慰安婦にさせられたと書かれています。この『宝石』の記事は私の記事Aと同じ内容になっています。したがって、櫻井さんが91年8月の記事Aを読んだ時に、「女子挺身隊」が、「勤労挺身隊」を指すと信じたとしても、92年の『宝石』の記事を読んだ後は、韓国でいう「慰安婦」を指すことに、容易に気づけたはずです。

 

それなのに、「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という表現で、「植村は、勤労挺身隊が慰安婦にされたと誤解させるような記事で、国の関与による強制連行説をでっち上げた」という主張をずっと続けているのは、自説に不利な要素を無視した理屈で、破綻しています。札幌地裁判決が認定した「挺身隊と慰安婦は無関係」も、この「宝石」の記事だけを読んでも、事実に反することは明らかです。

そもそも、当時の日韓の報道を見れば、慰安婦の意味で、「挺身隊」「女子挺身隊」と呼んでいたのは、簡単にわかることです。金学順さん自身が「挺身隊」だと言い、強制的に連行されたことを語っているのです。当時の産経新聞や読売新聞も金さんについて、「強制連行」という表現を使い、北海道新聞や東亜日報も「挺身隊」という言葉を使っています。

 

「挺身隊」を辞書で引くと、「任務を遂行するために身を投げ打って物事をする組織」(大辞泉)とあります。鉄道挺身隊など、広い意味で使われていた言葉です。「関東軍戦時特別女子挺身隊」と日本軍が慰安婦の意味でも使っていたという証言もあります。ところが、櫻井さんは女子挺身勤労令に基づく法律用語に限定解釈し、それに基づいて私を「標的」にして、「捏造」と批判しているのです。重大な人権侵害になりかねない「捏造」という言葉を使うなら、他の意味で使っていないか、その場合も捏造と言えるのかを調べてみる注意義務があるはずです。

 

当時、京郷新聞記者として、金学順さんの91年8月14日の記者会見を取材した韓恵進(ハン・へジン)さんが今回、陳述書を出してくれました。こんな内容です。〈「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され,日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」という表現が問題とされているそうですが,なんらおかしな表現ではないと思います。私が当時書いた京郷新聞の記事の見出しにも,「挺身隊として連行された金学順ハルモニ 涙の暴露」という同じ表現があります。」〉

 

その時の会見や、金さんへの弁護団の聞き取りテープでは、金さんは、クリョカッタ(引っ張られた)と何度も証言していました。それは日本語に訳すと、「連行された」という意味です。記事Aで私が書いた「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という表現を裏付ける内容です。

 

また櫻井さんは、雑誌『WiLL』2014年4月号で、金学順さんが日本政府を相手に裁判を起こしたことにこう言及しました。「訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと(中略)などが書かれている」。それが捏造のもう一つの根拠でした。しかし、実際の訴状にはその記述は一切なく、取材のずさんさが明らかになりました。櫻井さんは一審の本人尋問でその間違いを認め、雑誌や新聞での「訂正」に追い込まれました。

 

私は札幌高裁に新証拠などを提出しました。『週刊時事』という雑誌の1992年7月18日号と同年12月の日本テレビのニュースの録画です。『週刊時事』で櫻井さんは、金学順さんらの裁判に言及し、こう書いています。「強制的に旧日本軍に徴用されたという彼女らの生々しい訴えは、人間としても同性としても、心からの同情なしには聞けないものだ」。「売春という行為を戦時下の国策のひとつにして、戦地にまで組織的に女性たちを連れて行った日本政府の姿勢は、言語道断」。また櫻井さんはキャスターだった1992年12月に、「日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた女性たち」とテレビ報道しています。画面には金学順さんも映っていました。

それなのに、櫻井さんは2014年になって、金学順さんについて、「人身売買で慰安婦になったのに、植村はそれを隠して強制連行と書いたから捏造だ」というような内容を叫び始めます。では、自分も捏造したことにならないのでしょうか。櫻井さんの言い分は公正を欠き、矛盾だらけです。

 

櫻井さんを勝たせた札幌地裁判決は、間違っています。櫻井さんが捏造の根拠として示した訴状、ハンギョレ新聞、月刊『宝石』の3点では、私の記事を「捏造」とか「捏造の疑い」とは絶対に書けません。「捏造」は誤報と違い、間違いであると知りながら意図的にでっち上げることです。「捏造」と断定するためには、私が間違いと知っていたかどうか、植村の認識が問われるのに、この訴状、ハンギョレ新聞、月刊『宝石』の3点セットには、私の認識を示す記述が一切ないからです。

 

櫻井さんが、私の記事を「捏造」と断罪するからには、確かな取材と確かな証拠が必要でした。しかし、櫻井さんは私の記事を「捏造」と断定する直接的な証拠を何一つ示せていません。そのうえ、私に一切取材せず、金学順さんら元慰安婦に誰一人会いもせず、「韓国挺身隊問題対策協議会」にも、私の義母にも取材していません。櫻井さんには「真実性」はおろか、「真実相当性がある」と言えるファクトが、ひとつもないのです。しかし、一審では「真実相当性」があるとして、櫻井さんを免責してしまいました。極めて異常な判断でした。

 

この判決が高裁でも維持されれば、ファクトに基づいて伝えるジャーナリズムの根幹が崩れてしまいます。ろくに取材もせずに、事実に反し「捏造」と決め付けることが自由にできるようになります。第二、第三の「植村捏造バッシング」を生みかねない、悪しき判例になってしまいます。その先にあるのは「報道の自由」が弾圧されるファシズムの時代ではないでしょうか。

 

私は捏造記者ではありません。ファクトを伝えた記者が、「標的」になるような時代を一刻も早く終わらせて欲しい。裁判所は人権を守る司法機関であると信じております。司法による救済を期待しています。札幌高裁におかれては、これまでの証拠や新しい証拠を検討していただき、歴史の検証に耐えうる公正な判決を出していただきたいと願っております。

以上