東京訴訟での陳述
裁判の重要局面で植村氏が法廷で陳述した書面
①東京地裁第1回
②第13回
③第14回(結審)
④東京高裁第1回、
⑤第2回(結審)
の計5通を収録する
札幌訴訟での陳述は→こちら
1 提訴後に届いた脅迫状
今回の名誉毀損裁判を提訴してから約20日後の2月初めのことです。私が勤務する札幌の北星学園大学の学長宛に、またしても脅迫状が送られてきました。入学試験の前、私を雇っていることを理由に、入試の際に受験生や教職員に危害を加えると脅していました。脅迫状の中には、私や私の娘の名前が書かれていました。こういう内容の書き出しでした。
「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定する」ものだ。
そして最後は、娘の実名をあげて、こんなような殺害予告を繰り返していました。
「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」
北星学園大学への脅迫状は、これで5回目です。最初の脅迫状は昨年5月末で、その時は私を「なぶり殺しにしてやる」というものでしたが、今度は娘への殺害予告です。警察が娘の警備を強化しました。
しかし、私は親として、脅迫状が来たことを娘には言えずにいました。娘がどんなに恐れるか、そう思うと告げるのが怖かったのです。しかし、しばらくして娘から聞かれました。
「何かおかしい。学校の行き帰りにパトカーがついてくるの」。もう隠せませんでした。娘を「殺す」と言った脅迫状が来ていることや登下校の際にパトカーが巡回していることを、正直に伝えました。娘は黙って聞いていました。
娘への脅しは、これが初めてではありません。昨年8月には、インターネットに実名と顔写真がさらされ、誹謗中傷が溢れかえりました。例えば、こんな内容です(甲12)。
「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」「この子をいじめるのは『愛国無罪』。堂々といじめまくりましょう」「国家反逆の売国奴 植村隆 の娘といった看板を背負って一生暮らさなければならない」
私はいま24年前に書いた記事で激しいバッシングを受けています。しかし、そのときには生まれてもいなかった17歳の娘が、なぜこんな目にあわなければならないのでしょうか。私には愚痴をこぼさなかった娘が、地元札幌の弁護士さんに事情を聞かれ、ぽろぽろと涙をこぼすのを見た時、私は胸がはりさける思いでした。
2 破れた大学教員への夢
私は朝日新聞社に記者として32年間、勤務しました。大阪社会部時代には在日コリアンの人権問題を担当しました。テヘラン、ソウル、北京の特派員も務めました。アジアとの和解が記者人生のテーマでした。そして、人生の後半は、大学教員になろうと考えました。ジャーナリストとしての体験を若い世代に伝えるとともに、一緒に人権や平和の尊さを学びたいと思ったのです。
大学教員の公募へ何度か挑戦し、一昨年2013年12月、神戸松蔭女子学院大学のメディア分野担当教授に公募で採用され、雇用契約を結びました。最高70歳まで働けるという話でした。大学教員への夢がかない、「あと15年も若者たちと共に学べる」と思うと、とてもうれしかったです。
しかし、2014年2月6日号の「週刊文春」(甲7)で、東京基督教大学教授の西岡力さんが、私の1991年8月11日の署名記事について、「捏造記事と言っても過言ではありません」と非難したことで、大学教員になる夢は破れました。
私の記事は、見出しからもわかりますが、元朝鮮人従軍慰安婦がつらい体験を語り、韓国の団体が聞き取り調査を開始したというものです。この女性が、のちに実名で名乗り出た、金学順(キム・ハクスン)さんです。本人に会うことも、名前を聞くこともできませんでしたが、調査団体へ取材し、証言を録音したテープを聴かせてもらい、それらをもとに記事を書きました。決して捏造ではありません。
しかし、「週刊文春」は西岡さんのコメントを受けて、「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という見出しをつけていました。「週刊文春」の記事が出た後、神戸松蔭に「なぜ捏造記者を雇うのか」などという抗議の電話やメールが殺到しました。私は、大学当局から事実上の就任辞退を求められました。当初は、大学の対応に憤りました。しかし大学もまた被害者だと考え、示談で契約を合意解除しました。
3 「週刊文春」と西岡さんの悪意
後で知りましたが、「週刊文春」は神戸松蔭への質問状の中で、私の記事について、こう書いていたそうです。
「重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」。私が「捏造記者」である、と大学側に印象づける質問です。
西岡さんが、私の記事を最初に批判したのは1992年、月刊「文藝春秋」4月号です。その時は、私の記事について、「重大な事実誤認」と書いていました。
その上で、各社の金学順さんの記事について、こう述べています。
「朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受けとめてしまった」(甲26号証38頁)
つまり、西岡さんは当初は日本の新聞全体を批判していたのです。ところが98年ごろからは、私の記事を「捏造」とフレームアップし、私を狙い撃ちにするようになりました。
西岡さんはなぜ私を攻撃するのでしょう。「週刊文春」の記事が出た後、西岡さんの著書「増補新版・よくわかる慰安婦問題」(甲3)を読んで驚きました。その中で、西岡さんは、このように書いています。
「私はこの植村記者の悪質な捏造報道について、92年以降、繰り返し雑誌や単行本に書き、テレビの討論番組や公開講演会などで実名をあげて批判してきた。しかし、朝日新聞は今日に至るまでも一切の反論、訂正、謝罪、社内処分などを行っていない。それどころか、後日、植村記者を、こともあろうにソウル特派員として派遣し、韓国問題の記事を書かせたのだ。この開き直りは本当に許せない」(甲3号証47~48頁)
「本当に許せない」―--西岡さんのこの言葉にぞっとしました。
私は、神戸松蔭との契約解除後、55歳で朝日新聞社を早期退職しました。残された仕事は記者時代から続けている北星学園大学の非常勤講師だけです。週1回2コマ、月給は約5万円です。
「週刊文春」は、その北星に対してもひどい質問状を送って来ました。「大学教員としての適性には問題ないとお考えでしょうか」(甲27号証)という内容です。そして昨年8月14日・21日号で、「『慰安婦火付け役』朝日新聞記者はお嬢様女子大 クビで北の大地へ」という見出しがついた記事(甲8)を掲載しました。北星へも抗議のメールや電話、脅迫状が相次ぎました。大学は一時、次年度の雇用継続を躊躇する事態にまで追い込まれました。
4 卑劣な攻撃をやめさせるためにも、司法の救済を
「捏造」とは、事実でないことを事実のようにこしらえること、デッチあげることです。「捏造記者」と言われることは、新聞記者にとって「死刑判決」に等しいものです。記者が本当に「捏造」したら、すぐにも懲戒免職です。もちろん私は、捏造などしていませんし、懲戒免職にもなっていません。
かつて、「週刊文春」は遺跡捏造疑惑を記事にしました。遺跡調査に関わった大学の名誉教授が、記事掲載後に「死をもって抗議します」との遺書を残して、自殺しました。遺族は名誉毀損で訴え、文藝春秋側が敗訴しました。原告弁護団が裁判記録をまとめた本を最近読みました。学者とジャーナリストは共に事実を追究するのが仕事です。あの事件で亡くなった名誉教授の無念が、痛いほどわかりました。
昨年8月、「朝日新聞」の検証記事は、私の記事について「事実のねじ曲げない」と報じました。その後、私は新聞やテレビなど多数のメディアの取材を受け、きちんと説明してきました。「文藝春秋」1月号や「世界」2月号などの月刊誌に反証の手記を掲載しました。
にもかかわらず、「捏造」と非難し続ける人たちがいます。大学や家族への脅迫もやみません。こうした事態を変えるには、「司法の救済」が必要だと考えました。
私の記事に「捏造」というレッテルを貼り、世間に触れ回っている西岡さんと、その言説を広く伝えた「週刊文春」の責任を、司法の場で問いたい。
私の記事が「捏造」でないことを、司法の場で証明したいと思います。
こうした司法の判断が示されなければ、卑劣な攻撃は終わりません。
今回の裁判は、私の汚名を晴らし、報道の自由、学問の自由を守るための闘いであります。裁判長、裁判官のみなさま、ぜひ、正しい司法判断によって、「私を」「私の家族を」そして「北星学園大学を」救ってください。
どうぞよろしくお願いします。
以上
② 東京地裁第13回口頭弁論 2018年9月5日提出書面
【編注=この陳述書の構成内容、小見出しは原告がつけた】 1 はじめに /2 経歴 /3 従軍慰安婦について取材を始めた経緯 /4 91年8月11日付の記事(本件A)を書いた経緯 /5 当該記事の中でなぜ「女子挺身隊の名で戦場に連行され」と記載したのか 6 金学順さんが実名で名乗り出たこと /7 12月25日付の記事(本件B)を書いた経緯 /8 どのような脅迫や嫌がらせを受けたのか(1)娘を殺すという脅迫状、続く恐怖(2)閉ざされた大学教員への道 9 週刊文春の取材姿勢の問題点 /10 私は捏造記者ではありません(1)私が事実を捏造したことはないこと(2)「義母の裁判を有利にする意図」がなかったこと(3)まとめ /11 なぜ裁判を起こすに至ったか
1 はじめに
私が1991年に朝日新聞大阪本社版に書いた日本軍慰安婦問題の記事をめぐって、「週刊文春」2014年2月6日号に「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」と題する誹謗中傷の記事が掲載されました。筆者は竹中明洋記者(当時)で、東京基督教大学教授(当時)の西岡力氏の「捏造記事と言っても過言ではありません」の談話が記事で紹介されていました。見出しはこの談話から取られていました。この記事がインターネットなどで増幅され、転職予定の神戸松蔭女子学院大学へ私の教授就任に抗議するメールや電話が殺到し、同大学への転職を諦めざるを得ませんでした。さらに竹中記者は「週刊文春」2014年8月14日・21日号に「慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」という記事を執筆しました。
私が非常勤講師をしていた札幌市の北星学園大学(以下、「北星学園」と省略することがあります)へも激しい攻撃が押し寄せるなどの事態に至り、私の人生は大きく翻弄されました。一連の週刊文春の記事のせいで、ネットでは私や私の家族への誹謗中傷の書き込みが氾濫し、娘を殺すという脅迫状まで送られてくる事態となりました。私自身、日本の大学でジャーナリズム論を教えるという人生後半の大きな夢は遠のきました。そして、私が報じた韓国の元慰安婦の女性の名誉も汚されました。
ジャーナリストにとって、記事を「捏造」と断定されるのは、死刑判決に等しいものです。西岡氏は、この週刊文春の談話だけでなく、ほかの論稿でも、私の記事を「捏造」と繰り返しています。私は「捏造」はしておりません。このため、私や家族、北星学園、そして元慰安婦たちの名誉の回復のために、私は西岡氏と「週刊文春」を発行している文藝春秋を2015年1月に名誉毀損で提訴しました。
私の経歴、同上記事を書くに至った経緯、西岡氏や竹中氏から「捏造記者」呼ばわりされたことによって私がどのような攻撃を受けたのか、また現在、どのような思いでこの裁判を進めているのか、西岡氏、竹中氏、「週刊文春」についてどう思っているのかなどについて、次の通り、陳述します。
2 経歴
私は元朝日新聞記者です。1958年4月に高知県で生まれました。同地の私立土佐高校を卒業し、早稲田大学政経学部政治学科に進学しました。1982年3月に同大を卒業し、その年の4月に朝日新聞社に入社しました。2014年3月まで、32年間、同社で記者をしました。
最初の仙台支局では主に事件、裁判取材などを担当しました。2カ所目の千葉支局の時に、朝日新聞社の語学留学生に選ばれ、韓国の延世大学の語学堂で1年間、韓国語を勉強しました。これが韓国との本格的な出会いとなりました。帰国後着任した大阪社会部では在日韓国・朝鮮人問題など人権問題を担当しました。その後は、外報部を中心に国際報道に従事しました。テヘラン、ソウル、北京の各特派員も経験しました。
外報部次長時代に取材班デスクをつとめた連載「テロリストの軌跡 アタを追う」が2002年度新聞協会賞を受賞しました。また、取材メンバーだった連載「新聞と戦争」が2008年度石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞しました。著書に「ソウルの風の中で」(社会思想社)、「真実 私は『捏造記者』ではない」(岩波書店)、共著に「マンガ韓国現代史 コバウおじさんの50年」(角川ソフィア文庫)、「新聞と戦争」(朝日新聞出版)などがあります。
51歳になった2009年、北海道支社に転勤しました。これは希望したものです。ライフワークのひとつである坂本龍馬の子孫たちについて、取材するのが最大の目的でした。33歳で暗殺された幕末の志士・龍馬には子供はいませんでしたが、その甥の坂本直寛が明治時代に自由民権家となり、その後、家族を連れて北海道に移住し、キリスト教の布教につくしました。こうした人びとを取材したかったのです。それを実現させ、「北の龍馬たち」というタイトルで、朝日新聞北海道版に60回連載しました。老後は北海道で暮らそうと思い、北海道支社時代に札幌に自宅をローンで購入しました。また大学で教鞭を執りたいという思いが強まり、2010年には、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科の博士後期課程に入学しました。
朝日新聞での最後の職場は、函館支局でした。2013年4月に支局長に着任し、14年3月に55歳で退職しました。函館支局時代に、神戸松蔭女子学院大学(以下「神戸松蔭」といいます)の教員公募に応募し、専任教授として採用が決まりましたが、1991年の慰安婦問題の記事をめぐって、同大学に対する激しいバッシングが起き、同大学への転職を断念せざるを得ませんでした。さらに非常勤講師をしていた北星学園大学にもいわれのない抗議が押し寄せる事態となりました。
私は北星学園では、2012年4月から国際交流講義を担当していました。姉妹校の韓国カトリック大学からの留学生のためにつくった科目で、教え子の大半はカトリック大学からの留学生でした。私の講義の評判が良かったこともあり、そのカトリック大学の総長から招かれて、2016年3月からカトリック大学の客員教授となりました。韓国でも家を借り、また、日本で裁判や講演会などがあり、日本と韓国を往復する二重生活をしています。カトリック大学の客員教授は2018年春で、3年目となりました。
3 従軍慰安婦について取材を始めた経緯
私は1987年夏から1年間、朝日新聞社の派遣で、朝日新聞社に籍を置きながら、ソウルで韓国語を勉強しました。早大生時代から隣国に関心があった私は、一年間の自由な時間に韓国社会の観察にはげみました。そして、韓国語をマスターしました。そのあと、私は1989年11月から、大阪社会部に勤務することになりました。大阪市生野区には、かつて猪飼野(いかいの)と呼ばれた地域があり、在日韓国・朝鮮人(以下「在日」と省略することがあります)が多数集まり住んでいるところとして、知られています。私は在日担当になったこともあり、大阪在勤中は、この街に住みました。当時、朝日新聞の記者で、この地域に住んだ人はおらず、話題になったという記憶があります。
私は母一人子一人の母子家庭に育ちました。母親が働きながら、私を育てていたため、豊かな暮らしではありませんでした。そうした体験から、社会的に弱い立場の人びとへの共感を小さいときから抱いていました。私はこの旧猪飼野の街で、社会部記者として、在日の人びとの人権問題に取り組みました。当時、就職や結婚などの際に日本国籍でないということで差別される在日の人々が多数おりました。私は日本社会に住む外国籍の人も、同じ社会の構成メンバーであり、お互いの文化や人権を尊重して仲良く暮らすことが大事だと思っています。そうした思いを込めて、在日韓国・朝鮮人問題をテーマにした「イウサラム(韓国語で「隣人」の意味)」というタイトルの連載をしました。在日の人びとが直面している様々な問題を伝え、一緒に考えて欲しいという思いがあったのです。私はクリスチャンではありませんが、学生時代にキリスト教系の財団法人が運営する寮に住んでいたこともあり、キリスト教には親近感を抱いています。「イウサラム(隣人)」というタイトルは、「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の言葉から考えたものです。連載のタイトルは、ハングルをデザインしてもらいました。
私は在日韓国人政治犯問題も担当しておりました。留学などで祖国・韓国へ行き、北朝鮮のスパイとされ、国家保安法違反で投獄された人びとのことです。南北の厳しい対立が背景にありますが、多くは、韓国の軍事独裁政権が作り上げたものだと言われていました。約100人が投獄されましたが、私の大阪社会部時代には救援運動や韓国が民主化される流れの中で、7割ほどが釈放されていました。この元政治犯の釈放の取材などで、大阪からソウルに出張することもよくありました。当時のソウル支局長や支局員は、私を「準支局員」のように扱ってくれ、私もまた韓国取材が自分の取材範囲の一つだと認識していました。
1990年、日韓の間で、「慰安婦問題」が大きなテーマとして、浮上しました。同年6月、参議院予算委員会で本岡昭次議員(社会党)が、慰安婦問題について質問し、当時の労働省職業安定局長は「民間の業者が軍とともに連れ歩いている」と答えました。これに対し、韓国側では強い反発がありました。当時、韓国では民主化が進み、女性の人権運動も盛んになり、慰安婦問題にも関心が高まっていたのです。
本岡議員は翌1991年4月の参議院予算委員会で、「政府が関与し軍がかかわって、女子挺身隊という名前によって朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だというふうに思います。その裏づけができないので、今ああして逃げているわけでありますけれども、やがてこの事実が明らかになったときにどうするかということを思うと、本当に背筋が寒くなる思いがするわけでございます。海部総理、これはあなたが総理として日韓関係を考えるときに、この問題をどういうふうに対応していったらいいと思われますか」と質問しています。
このような時期に、私は朝日新聞大阪本社が当時取り組んでいた平和企画の記事に、元慰安婦を取り上げたいと思ったのでした。過去の悲惨な歴史を記録し、再びそうしたことが生じないように記憶せねばならないと考えたからです。真の日韓和解のためにも、この問題が解決されなければならないと考えたのでした。担当の大阪社会部デスクも慰安婦問題に関心を持っておられ、励ましてくれました。
1990年夏に2週間韓国で取材しました。当時、梨花女子大学教授だった尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生にも協力を得ることができました。尹貞玉先生は、韓国のハンギョレ新聞に「挺身隊『怨念の足跡」取材記』を連載(1990年1月)するなど、慰安婦問題に精通された方でした。尹先生の情報をはじめ、いくつかの情報をたどりましたが、結局、元慰安婦を一人も見つけることはできませんでした。それらしいという方にもお会いしましたが、慰安婦ではなかった、と否定されました。当時、私は32歳。いくら韓国語を話せても、朝鮮を過去に植民地支配した日本の若造です。仮に慰安婦にされた体験があっても、そんなつらい記憶を日本人の一記者である私に容易に話すわけがなかったのです。私は帰国後、大阪で焼き肉屋を営む在日韓国人の女性にも取材しましたが、そこでも証言は聞けませんでした。長い時間をかけて成果が無かったのに、その担当デスクは怒るどころか、私を労わってくれたのが忘れられません。その担当の大阪社会部デスクだった鈴木規雄氏は、その後、東京本社の論説委員となり、92年9月2日の夕刊コラム「窓・論説委員室から」に「元慰安婦から」と題して、その当時の私の取材について、書いています。「記者を2週間も韓国に派遣して探したが、見つけ出せなかった。がっかりして帰ってきた記者は、大阪で焼肉屋をやっているおばあさんが『挺身隊』にいたらしい、というわずかな情報を頼りに、ようやく店を尋ね当て、通い続けた。でも、『たとえそうだったとしても、話すわけがないよ。無駄なお金を使いなさんな』と言われてしまった」。このコラムでも、慰安婦の意味で「挺身隊」が出てきます。
1990年11月、尹貞玉先生らが中心となって、韓国挺身隊問題対策協議会(略称「挺対協」)ができました。この名称の中の「挺身隊」という言葉も、慰安婦を意味していました。この1990年夏の取材で、太平洋戦争犠牲者遺族会(以下、「遺族会」といいます)で働いている韓国人女性と知り合い、お互いに惹かれあうようになり、1991年2月に大阪市生野区役所に婚姻届を出しました。
4 91年8月11日付の記事(本件記事A)を書いた経緯
このように、元慰安婦の証言を取る取材は空振りとなり、私はいったんあきらめかけていたのですが、91年8月、後に金学順(キム・ハクスン)さんと分かる元慰安婦の肉声テープをついに聞くことができ、本件裁判で問題となる記事Aの執筆に至りました。その経緯を説明します。
1991年夏、たまたまソウル支局長の小田川興氏に用事があって電話をしたところ、小田川氏は、尹貞玉先生ら挺対協が、元慰安婦の聞き取り調査を始めたという情報を教えてくれました。私は驚きと喜びで、すぐに取材を希望し韓国に出張させてもらうことになりました。
出張前に尹先生に取材を申し込んだときに、証言者はマスコミの取材を拒否しており、名前も教えられないと言われました。しかし、尹貞玉先生らが調査した時の録音テープは聞かせてもらえるということなので、私は大阪からソウルへ出張したのです。たとえ、本人にお会いできなくても、元慰安婦が証言を始めたことがとても重要なニュースだと思いました。
ソウルに出張して、1991年8月9日に尹貞玉先生のご自宅にうかがい、まず話を聞きました。翌10日には「挺対協」の事務所で、尹先生とスタッフの女性に会いました。二人は聞き取った調査結果の内容を話してくれました。尹先生の話では、この女性は中国の東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされたということでした。そして尹先生らは、元慰安婦の女性の証言を録音したテープを聞かせてくれました。机の上に置いた録音機から淡々と語る女性の声が聞こえてきました。テープの長さは約30分。私は戦後46年が経ち、ついに被害体験を証言する人が出てきたのだと、驚き、震えました。女性は「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あの時のことを考えると腹が立って涙が止まらない」「思い出すと今でも身の毛がよだつ」などとつらい過去を振り返っていました。その言葉は、はっきりと聞き取れました。
挺対協のメンバーによると、女性は話をする前に泣いていたといいます。どれほど勇気が要ったことでしょう。それまで沈黙を続けていた女性がようやく重い口を開き始めたのです。私は大きな歴史の転換期だと思いました。尹先生は「これからも聞き書きを続けていきます」と話されていました。
私はソウル支局に戻り、すぐに記事を書きあげました。元慰安婦の録音テープを聴いている尹先生とスタッフの女性の2人のポーズ写真も電送しました。この記事は、翌日1991年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面トップに同上の写真付きで、出ました。
私の記事の直近の慰安婦報道では、小田川氏が書いた、7月31日付け朝日新聞記事があります。これは、尹先生らが朝鮮人慰安婦の補償などを日本政府に要求することを報じた記事で、「日中戦争や太平洋戦争で、『女子挺身隊』の名で戦場に送られた朝鮮人従軍慰安婦」という表現がとられています。私の記事は、その挺対協の活動という意味で、小田川氏の記事の続報という位置づけになるでしょう。
この記事が当時社会でどのくらい注目されたかというと、この記事が韓国の新聞に一切転電されなかったことから分かるとおり、全く関心が持たれていません。翌日の12日には東京本社版朝刊第二社会面に掲載されましたが、記事は短く削られ、扱いも小さめです。慰安婦問題が注目を浴び日韓の政治課題にまでなったのは、後に述べる金学順(キム・ハクスン)さんの実名記者会見によるところが大きいのです。
西岡氏は、この記事について、私が親族の便宜によってスクープ情報を得て記事にした、と長い間誹謗してきました。たとえば、「闇に挑む」(徳間文庫)では私が遺族会幹部の梁順任(ヤン・スニム)の娘と結婚していることを捉え「金学順さんについて植村記者が第一報を書けたのは、義理の母からの情報提供によるのだろう」と記載しています。本件訴訟で対象となっているブログの記載でも、「最初の朝日新聞のスクープは、金学順氏が韓国で記者会見する三日前です。なぜ、こんなことができたかというと、植村記者は金学順氏も加わっている訴訟の原告組織『太平洋戦争犠牲者遺族会』のリーダー的存在である梁順任常任理事の娘の夫なのです。つまり、原告のリーダーが義理の母であったために、金学順氏の単独インタビューがとれたというカラクリです。」と、「カラクリ」という言葉まで使って、私が義母からスクープを得たと断定しています。
しかし、これまで述べてきたところからわかるとおり、私が情報を得たのはソウル支局長の小田川氏からであって親族からではありません。また、その際の取材先は「挺対協」であり、義母が役員を務めたのは、「遺族会」であって「挺対協」ではありません。さらに、義母が金学順さんに初めて会ったのは、1991年9月19日で、私が記事Aを書いた1カ月以上後です。西岡氏は当事者に取材もせず、長年事実に基づかないことで私を誹謗してきたのです。そして、その間違いが判明するとその点をはっきりと訂正することもなく、「原告が本件各記事について利害関係を有していた」等と論点をすり替えてきたということです。西岡氏のこのような論争態度は、全く誠実さに欠けると言わざるを得ません。
5 当該記事の中でなぜ「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され」と記載したのか
私は、91年8月の記事の「前文まえぶん(リード)」で、以下のとおり記載しています。
「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人」
このリードこそ、私が慰安婦問題を「捏造した」等と批判される重要な部分ですので、このように記載した理由を詳しく説明します。
そもそも、この文章は「朝鮮人従軍慰安婦」を説明する定義付けの部分です。つまり、記事の冒頭で、「この記事は、いわゆる『女子挺身隊』と言われるところの『朝鮮人従軍慰安婦』に関する記事なんだよ」ということを端的に読者に伝えるために記載した部分なのです。「女子挺身隊」という言葉をかっこでくくったのは、「いわゆる」「そのように呼ばれているところの」という意味で使ったのです。
当時、韓国では、従軍慰安婦のことを「挺身隊(チョンシンデ)」と表現していました。また、「挺身隊の名で」という表現も、以前から韓国や日本のメディアで定着していました。たとえば、朝日新聞は1984年8月25日の慰安婦問題を伝えた朝刊記事で、「韓国人女子てい身隊(軍慰安婦)」と表記しています。1987年8月14日の読売新聞夕刊も「『女子挺身隊』の名のもとに」と伝え、1991年6月4日の毎日新聞朝刊でも「『女子挺身隊』の名目で」という表現が使われています。前述の91年4月の参議院予算委員会における本岡議員の質問でも「政府が関与し軍がかかわって、女子挺身隊という名前によって朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だというふうに思います」として「女子挺身隊という名前によって」という表現が出てきます。このように、当時、慰安婦問題に関心のある日本の人たちはこの「挺身隊」「挺身隊の名」という表現をごく自然に使っていました。ですから、私は、それを踏襲したのです。
また、取材時には、尹先生からは、この証言テープの女性も、自らを「挺身隊」と言っていると聞きました。後で述べるとおり、この証言テープの女性は、のちに金学順さんであることが判明し、記者会見をするのですが、その際も自らのことを「挺身隊」と表現していたことが明らかになっています。
私は、このリードの中で「連行」という言葉も使用しています。当時、従軍慰安婦が連行される過程について「強制的に徴用された」とか「強制連行された」という表現を使用する記事が多くありました。例えば、前記読売新聞は「強制的に徴発されて戦場に送り込まれた」と書いていますし、前記毎日新聞は「強制的に戦場に送られ」としています。しかし、私は、尹先生から「だまされて慰安婦にされた」事案であると聞いていたので、暴力的に拉致されたのではないと考え、「連行」という表現を用い、「強制連行」とは書いていません。最初だまされたとしても連行・監禁され、繰り返しレイプされたという一連の状況を考えれば「連行」という表現で間違っていなかったと思っています。
ところで、後述のとおり金学順さんは8月14日に記者会見し、12月には裁判所に提訴するのですが、金学順さんの連行方法について、産経新聞などは「強制的に連行」(91年12月7日)、「強制連行」(93年8月31日)と表現しています。私は91年8月の段階のこの記事では、「連行」という表現をしていたのですが、金学順さん自身が最初の記者会見で「16살 조금 넘은 것을 끌고 가서. 강제로.(16歳ちょっと過ぎたくらいの(私)を引っぱって。強制的に)」と明確に述べていることからすれば、むしろ産経新聞が使った「強制連行」という表現の方が正しかったのかもしれません。
このように、「挺身隊の名で連行され」という表現は、私としては、間違ってはいなかったと考えています。ただし、当時、「挺身隊の名で連行され」という記載は、私の記事全体の中で重要な部分とは考えていませんでした。なぜなら、当時の思いとしては、戦時中、壮絶な性暴力を受け、韓国に戻った元慰安婦が勇気を持って証言をし始めたということを報じたかったからです。朝日新聞は大阪本社版の記事を大幅に削って翌日の8月12日、東京本社版の朝刊第二社会面に囲み記事で載せています。その記事では、「挺身隊の名で」という表現はありません。東京のデスクが削ったわけです。「挺身隊の名で」という表現が、この記事の根幹・本質とは関係がないから、省略したのでしょう。もしそれが、重要なデータで、この記事の本質に関わる部分であったら、私は削ったことに抗議したでしょう。
なお、西岡氏は、この8月の記事について「キーセンの経歴を記載していない」とも非難しています。しかし、この日、私は金学順さんの証言テープでも、尹先生からも、「キーセン学校に通った」という話を聞いていませんでしたので、記事に書きませんでした。当時知らなかった情報を記事に書かなかったことが記事「捏造」の根拠とされるのは全く心外ですし、非難される意味が分からないというのが正直なところです。
6 金学順さんが実名で名乗り出たこと
金学順さんは私の記事が大阪本社版に出た3日後の8月14日、ソウルで記者会見を開きました。私はマスコミ取材を拒否していた元慰安婦が記者会見をするなどとは予想もせず、8月12日に大阪へ戻っていました。このため、あとで、記者会見があったことを知り、とても残念に思いました。
8月14日には、記者会見とは別に、当時の北海道新聞(以下、「道新」といいます)のソウル特派員の喜多義憲氏が金学順さんに直接インタビューに成功し、翌日の紙面で、大きな記事を書いたのを後で知りました。私は、たいへん悔しい思いをしたのを記憶しています。道新の記事では、金さんについて、「女子挺(てい)身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに陵(りょう)辱された」と書いてあります。私と同じような書き方です。私は筆者の喜多氏とは当時、面識がありませんでした。2006年前後に、札幌で開かれた地元の方の本の出版記念会で同席したのが、最初の対面だったと思います。2014年のバッシングの激しい最中に、喜多氏と久しぶりにお会いし、この時、初めて喜多さんの記事について、話をしました。私は喜多氏に「私の記事を見て書いたのですか」と聞きました。すると、喜多氏は「あなたがそんな取材をしているのは知らなかった」と答えました。道新の続報(同年8月18日付)によれば、金学順さん自身もまた「私は女子挺身隊だった」と語っています。
8月15日付の韓国各紙の記事も「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(東亜日報)、「私は挺身隊だった」(中央日報)、「挺身隊の生き証人として堂々と」(韓国日報)などという見出しで報じています。金さん自身、自らを「挺身隊」と言っていたのです。このように当時、「挺身隊」は慰安婦を意味する言葉として普通に使われていたことがここでも明らかです。
私へのバッシングの激しかった2015年春、「週刊金曜日」の4月10日号にソウル在住の言語心理学者の吉方べき氏が、<「『朝日』捏造説」は捏造だった>という題の記事を発表されました。吉方氏がこの記事を書かれた当時、私は吉方氏とは面識がありませんでした。吉方氏のこの記事では、「挺身隊」という言葉が、慰安婦を意味する用語として1960年代から韓国の新聞で使われていたというのです。私の記事よりずっと前から、この用語が韓国社会で一般的な表現になっていた事実を明らかにした調査報道の記事で、非常に励まされる思いがしました。
7 12月25日付の記事(本件記事B)を書いた経緯
私は1991年12月25日付の朝日新聞大阪本社版で「帰らぬ青春 恨の半生」という見出しで、記事(本件記事B)を書きました。この記事を書いた経緯と内容について説明します。
前述のとおり、同年8月の本件記事Aの段階では、金学順さんの聞き取りは、挺対協がしていましたが、11月の段階では、金学順さんは、戦争被害者の会である「遺族会」に入り、訴訟を準備していました。金学順さんらの原告弁護団は、同年11月25日に、金さんに聞き取りを行います。そこで、私は、原告側弁護団の聞き取りに同席させてもらい、その時の情報に基づいて記事を書いたのです。
聞き取りの席で初めて金さんと会いました。金さんはとても知的で誠実な話し方をする人だという印象でした。
金さんらは同年12月6日に日本政府を相手に謝罪と賠償を求めて、東京地裁に提訴しました。提訴後、大阪本社企画報道室の副室長であった柳博雄氏から、当時柳氏が担当していた大阪版「語り合うページ」で連載されていた「女たちの太平洋戦争」の欄に金学順さんの体験を記事にしてくれないかという依頼がありました。そこで、11月に金さんから聞き取った取材メモと、既に手に入れていた「弁護団聞き取り要旨」、取材時の録音テープ等を参照しながら執筆したのが、12月25日付の記事です。
私は、西岡氏から、この記事について、①「金学順が貧困のために母親にキーセンの検番に売られた事実」を書いていない、②「金学順を慰安婦として慰安所に連れて行った主体が検番の義父・養父であるという事実」を書いていないと批判されています。これらの批判についてそれぞれ反論します。
まず、①の点ですが、私の手元には当時の取材メモがなく、金学順さんが聞き取りの際「キーセンに売られた」と話したかどうかははっきりとはしません。ただ、聞き取りに同席した裁判支援の市民団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の「ハッキリ通信」第2号には、金さんが「私は平壌にあったキーセンを養成する芸能学校に入り、将来は芸人になって生きていこうと決心したのでした」と語ったことが記されています。
しかし、そもそも、キーセンとは朝鮮の芸妓のことであり、日本軍を相手にする慰安婦とは全く違います。また、金さんがキーセン学校に通ったのは14歳の時であり、慰安婦にされたのは17歳の時ですから、3年も時期がずれています。したがって、金さんがキーセン学校に通ったことと、その後に慰安婦にさせられたこととの間に何の関係もないため、私は、「キーセン学校に通った事実」を記載しなかったに過ぎません。
次に、②の点ですが、そもそも、金学順さんを慰安婦として慰安所に連れて行った主体が検番の義父・養父であるという認識は、私には、当時も今もありません。
この点、前出「弁護団聞き取り要旨」には、「一九三九年、一七歳(数え)の春、『そこへ行けば金儲けができる』と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に出稼ぎに行くことになった」と記載されています。また、前出の「ハッキリ通信2号」には「私が17歳のとき、町内の里長が来て『あるところに行けば金儲けができるから』としきりに勧められました。私は日本名で『エミコ』さんと呼んでいた友だちと二人で行くことに決め、おおぜいの朝鮮人が乗せられたトラックに乗ったのです。」(傍点は原告による)とありますから、11月の聞き取りの際には、金さんは養父の話をしていなかったのだと思います。私は自分が直接聞き取りに参加した取材結果をもとに記事を書いたので、養父には触れなかったのです。
もっとも、12月に東京地裁に提出された訴状には、「一九三九年、一七歳(数え)の春、『そこへ行けば金儲けができる』と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。」(傍点は原告による)とあります。しかし、訴状はこれに続けて「トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが『北支』『カッカ県』『鉄壁鎭』であるとしかわからなかった。『鉄壁鎭』へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて『しまった』と思った」とあるだけです。訴状から分かるのは、養父と一緒に中国に行ったことだけです。したがって、訴状を見ても「金学順を慰安婦として慰安所に連れて行った主体が検番の義父・養父である」とは断言できないと思います。
西岡氏は、「金学順を慰安婦として慰安所に連れて行った主体が検番の義父・養父であるという事実」の根拠として、ジャーナリスト臼杵敬子氏が執筆した月刊宝石92年2月号の記事をあげるようです。この記事によれば、金学順さんが慰安婦にされた経緯は次のとおりです。
「十七歳のとき、養父は『稼ぎにいくぞ』と、私と同僚の『エミ子』を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満洲のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり『おかしいな』と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが『北支のカッカ県テッペキチン』(鉄壁鎭)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。一九四〇年春ごろでした。日本軍が占領したその集落には三百人ほどの日本兵が駐屯していました。トラックで夜着いた私たちは、将校に案内され、真っ暗な部屋に入れられ、外から鍵をかけられ閉じ込められたのです。そのとたん、私は『しまった』という後悔でいっぱいでしたが、もうどうしようもありません。」(傍点は原告による)
西岡氏が論拠とするこの記事から「金学順を慰安婦として慰安所に連れて行った主体が検番の義父・養父であるという事実」を読み取ることは不可能ではないでしょうか。むしろ、金さんはどこかで養父と引き離され、日本軍によって慰安所まで強制的に連れて行かれたと解釈するのが素直だろうと思います。
この「父親が土下座した」というエピソードは、金さんが最初に実名で受けたインタビューである北海道新聞の前記91年8月15日の記事にも出てきます。きっと金さんにとって記憶が鮮明な場面だったのでしょう。
西岡氏は、「金学順の経歴にあるキーセンの検番は、朝鮮女性を就業詐欺や人身売買などの手段で朝鮮国内の遊郭などの接客業婦に駆り出しており、この手段は朝鮮人軍隊慰安婦の募集に導入されることで、従軍慰安婦募集の一手を担っていた」と主張し、その根拠として文献も提示しています。しかし、この文献は、そのような行為に手を染める検番もいたという事実を指摘するに過ぎず、養父が金さんを慰安婦にした事実を具体的に示す証拠ではありません。
以上からすれば、①「金学順が貧困のために母親にキーセンの検番に売られた事実」は、金学順さんが慰安婦にされた経緯とは無関係であり、②「金学順を慰安婦として慰安所に連れて行った主体が検番の義父・養父であるという事実」はそもそも存在しないので、私はいずれも記事に書きませんでした。これについて「捏造」等と批判されるいわれはありません。
8 どのような脅迫や嫌がらせを受けたのか
(1)娘を殺すという脅迫状、続く恐怖
私が先述の1991年8月に元慰安婦の本件記事Aを書いた後、西岡力氏は、翌年の月刊「文藝春秋」4月号で「重大な事実誤認を犯している」と批判をしました。その当時は、「捏造」などと言っていなかったのです。私には一切取材はありませんでした。私の記事については先に述べたとおりのことでしたから不当な攻撃だと思いました。大手雑誌に批判の記事が出たため、社内向けに報告書を提出しましたが、朝日新聞としては「問題はない」との結論になっていました。西岡氏はその後も、私への誹謗中傷をしていました。今にして思えば、その時もっと反論しておけば、ここまで問題が大きくはならなかったかも知れません。しかし、当時は会社として「反論の必要はない」と判断しており、私もおかしなことを言っているくらいにしか、思っていませんでした。
しかし、2013年12月に私が神戸松蔭の専任教員に採用されることが決まったことが「週刊文春」2014年2月6日号(1月30日発売)に「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」と出たことで、神戸松蔭に抗議の電話やファックス、メールなどが殺到することになったのです。この記事には、西岡氏が「植村記者の記事には、『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」という談話を寄せていました。この談話から、見出しが取られていたのです。さらにこの記事を雑誌「WiLL」の編集長(当時)の花田紀凱氏が2月1日の産経新聞のコラムで紹介し、「こんな記者が、女子大でいったい何を教えることやら」と揶揄しました。これで情報がさらに拡散しました。
神戸松蔭によると、「週刊文春」に記事が出てから、わずか約1週間で、私の教授就任取り消しなどを求めるメールが約250本送られて来ました。多くが、文春の記事を引用していました。インターネットにも神戸松蔭の電話番号や問い合わせメールアドレスが掲載され、私を教授にさせるなと要求する運動がネットで広がりました。当時在勤していた函館支局にも嫌がらせの手紙が来ました。神戸松蔭側は私を受け入れることができない、辞退していただきたいと言いました。当初はいわれのない批判なので到底納得できないと思いましたが、大学も被害者だと考え、やむなく神戸松蔭への就職を断念しました。神戸松蔭は私との雇用契約解除をホームページ上で公表しました。インターネットでもその情報は広がりました。これが慰安婦問題を否定する人々の成功体験になったのは明らかです。
その後、北星学園大学へも抗議が押し寄せました。5月上旬から、抗議が始まっていましたが、「週刊文春」8月14日・21日号が「慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」という記事を出した後、激増しました。北星の資料によれば、メールの抗議件数は5月が214件、6月が44件、7月が19件でしたが、8月には530件になりました。抗議電話は6月が9件、7月が7件でしたが、8月には160件になりました。メールの多くにはやはり文春の記事が引用されていました。
インターネットでも、私や私の家族に対する誹謗中傷が広がりました。自宅の住所、電話番号がネットで公開され、「連絡取りたい方は○○○○(自宅の電話番号)にかけてあげてください」というような書き込みも相次ぎました。私が不在のときに、嫌がらせの電話がかかり、妻が対応したこともありました。それ以降、電話の受信音が聞こえないように音量を最小に絞り、電話機に毛布を掛けるなどの対策を取りました。自宅の写真がネットに出たときは、「バッシングをする人たちが自宅に押しかけたらどうしよう」と背筋が凍る思いでした。妻や高校生の娘の身に危害が加えられないかと気が気ではありませんでした。
北星学園大学に最初の脅迫状が届いたのは、5月末。爆破予告でした。「あの元朝日(チョウニチ)新聞記者=捏造朝日記者の植村隆を講師として雇っているそうだな。売国奴、国賊の。朝鮮慰安婦捏造記事がどれ程日本国、国民の利益を損なったか?」 「植村の居場所を突き止めて、チンポをちょん切って、なぶり殺しにしてやる。」「すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」「これをやる-ガスボンベ爆発、サビ釘混ぜて。」「学校に送りつけてもいい、校門あたりに置いてもいい、学園祭なんかもいいね」という内容でした。その後も何通もの脅迫状が届きました。
大学の警備は強化されました。留学生たちが楽しみにしていた私の講義の恒例の校外学習も、大学事務局から危険だと言われてできなくなりました。大学内で、教職員の中にも、「植村先生に辞めてほしい」という声が上がっていることを聞いて、とてもつらい思いをしました。学生たちに、私の潔白を説明する機会を与えて欲しいと希望しましたが、公開的な説明会などの機会もありませんでした。
私は「捏造記者」ではありません。このため、朝日新聞社にはきちんと私を調査してほしいとお願いしました。
朝日新聞は私の要望を受け入れて、調査をし、その結果を検証紙面という形で2014年8月5日に発表しました。朝日新聞は吉田清治証言の記事16本(のちに計18本)を取り消しましたが、私の記事については、「事実のねじ曲げない」として、捏造ではないことをはっきりさせてくれました。私は、吉田清治証言の記事は一本も書いていません。私としては、自分の記事が捏造でないと発表されたので、「これでやっと無実が証明された」と思いました。
ところが、朝日新聞の検証記事が出た数日後のことです。娘が私の部屋に入ってきて、「ツイッターで私のことがつぶやかれている。ツイッターは拡散力がすごいから」と訴えたのです。不安に包まれた蒼白な顔でした。実は、娘に対する誹謗中傷がネットで広がっているのは知っていました。でも、娘には言わないでいました。心配させたくなかったからです。ところが、娘はすでに自分がネットで中傷されていることは、知っていたというのです。ツイッターでつぶやかれて、もう我慢できなくなって、私に告げたのでした。学校のホームページに掲載された娘の写真が剽窃され、ツイッターで流れていました。
そのころ、ネットのブログにも同じ写真が出ているのを見つけました。8月10日付のブログには、「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。(中略)自殺するまで追い込むしかない」と書かれていました。この言葉は私の胸にぐさりと突き刺さりました。このブログには「晒し支持」「まるで朝鮮人だな」など、1時間で29件の誹謗中傷のコメントが書かれていました。こんな誹謗中傷が、あちこちにあり、気が遠くなるようでした。私が記事を書いた時には生まれてもいなかった17歳の少女の写真がさらされ、なぜこんな罵詈雑言が浴びせられなければならないのでしょうか。こうした書き込みを削除するため、札幌の弁護士たちが、娘の話を聞いてくれました。私には愚痴をこぼさず、明るく振舞っていた娘が、弁護士の前でぽろぽろ涙をこぼすのを見て、私は胸が張り裂ける思いでした。
娘だけではありませんでした。息子の高校時代の同級生で、同じ植村姓の大学生が私の息子に間違われて、インターネットに顔写真をさらされ、「気持ち悪い〓」などと誹謗中傷されました。全く関係ない人までバッシングに巻き込んでしまったのです。どうすればいいのか。しかし、何もできないことが、辛くてなりませんでした。彼には謝罪しましたが、「おかしな人たちのやることですから」と言われ、逆に励まされました。
「週刊文春」は2014年10月23日号で、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい “OB記者脅迫”を錦の御旗にする姑息」との見出しで、西岡力氏とジャーナリスト櫻井よしこ氏の対談記事を掲載しました。この中で、西岡氏は「脅迫事件とは別に、記者としての捏造の有無を大学は本来きちんと調査する必要がある。脅迫に『負けるな!』という情緒的な言葉で有耶無耶にしてはいけません」と述べた上で、「捏造した事実は『断じてある』」とまで強調しています。北星学園大学に抗議のメールが押し寄せ、脅迫状まで送られて苦しんでいるときに、西岡氏は「捏造の事実」をことさら強調しているのです。
2015年2月2日には、娘の殺害予告の脅迫状が北星学園大学に届きました。こういう書き出しでした。「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するだけでなく、南朝鮮をはじめとする反日勢力の走狗と成り果てたことを意味するものである」
5枚に及ぶ脅迫状は、次の言葉で締めくくられていました。「『国賊』植村隆の娘である●●●(●は実名)を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」。なぜ、娘がこんな目にあわなければならないのか。悔しくてなりませんでした。娘が地元の高校に通っている時は、登下校の際にパトカーが警備する態勢までとられました。
娘への攻撃に対しては、許せないという声が全国的に広がりました。大阪や東京の弁護士たちが手弁当で弁護団を組織し、ツイッターに誹謗中傷の書き込みをした別の男性を突き止めました。そして、娘はこの男性に対し、プライバシー侵害などで損害賠償を求める裁判を東京地裁に起こしました。2016年8月に娘の勝利の判決が下され、それが確定しました。しかし、膨大な誹謗中傷の書き込みからみれば氷山の一角です。娘に殺害予告をした犯人もまだ捕まっていません。いつになったら、私たちは、この恐怖から逃れられるのでしょうか。
ここに1枚の抗議声明があります。2014年10月27日付で、公益社団法人自由人権協会が出したもので、植村バッシングなどを「刑法犯罪」だと批判しています。当時、出された多数の抗議声明のうちのひとつで、この植村バッシングの原因について、こう書いています。
「1991年8月11日付朝日新聞大阪版にいわゆる従軍慰安婦についての記事を書いた朝日新聞記者は、2014年3月に同新聞社を退職のうえ神戸松蔭女子学院大学の教授に就任することが決定していた。ところが、同年1月末発売の週刊誌が同記者の氏名や就任予定先の大学名を明記して報じたところ、その直後からネット上に同記者を誹謗中傷する書き込みが拡散し、同大学にも同記者を教授にすることについて抗議する電話などが殺到した。これによって、同大学は同記者に教授就任辞退を要望し、その結果、同記者は新聞社退職の前提であった教授就任を断念せざるを得なかった」
この抗議声明は、3人の代表理事の連名で出されています。その筆頭にあるのが、喜田村洋一弁護士です。喜田村弁護士は、現在はこの植村裁判の被告側代理人として行動されています。しかし、この植村裁判の提訴の3か月前には、こうした意見を連名で表明されるほど、深刻な問題だったことがわかると思います。
(2)閉ざされた大学教員への道
今回のバッシングで、日本の大学の専任教員となって、ジャーナリズム論を教えたいという私の第二の人生の夢も遠のきました。私は2016年3月から韓国の私立大学であるカトリック大学の客員教授として講義をしています。同大側に招聘されたのですが、契約は単年度です。1年ごとに、契約更新をしなければなりません。学生にとっては、専任も非常勤も同じ先生であり、尊敬もされており、やりがいはあります。しかし、専任に比べると薄給で、身分は不安定です。
私が本当にやりたいのは、長年の記者体験を生かして、日本の若者にアジアとの和解・交流の大切さを伝えることなのです。いま、西岡氏に対する裁判などで日本と韓国を行ったりきたりする生活で、往復の旅費も重い負担となっています。韓国と札幌の二重生活は非常にコストがかかります。札幌の病院に入院している老母の健康状態も心配です。なるべく、近くにいてあげたい、しょっちゅう面会してあげたいと思います。こうしたこともあり、私は日本の大学で専任教員の仕事を見つけたいと希望しています。
しかし、西岡氏らによって私の記事が「捏造」と断定され、誤解が広がっており、また、北星学園大学に対してなされたような攻撃をおそれるということもありましょう。日本の大学で専任教員になるのが非常に難しい状況です。私自身、応募してもなかなか採用されないだろうという不安を持っています。私に関心を寄せてくれた先生のいる日本のある大学で、無給の客員研究員になりたいと思い、履歴書を送ったのですが、かないませんでした。バッシングの前には連続して3つの大学で書類審査を通過し、最終面接まで進みました。いずれもジャーナリズム論関係の学科でした。そのうちの一つである、神戸松蔭女子学院大学に2013年12月に採用されて、専任教員になることが決まったのに、大学への激しい攻撃で、就職がだめになったのです。
30年以上の記者経験、3カ国(イラン、韓国、中国)での特派員経験などに加え、著書があり、大学での教員経験や大学院博士後期課程への進学(2010年)などが、大学教員に採用される際の有利な業績だったと思います。しかし、いまはその経歴に加え、「捏造」記者としてバッシングされたという「実績」が加わりました。北星学園大学へのバッシングの時にも、体験しましたが、大学の当局者がトラブルに巻き込まれたくないという思いを抱くのは容易に想像できます。
私は若い記者の頃から、後輩にいろいろ教えるのが好きでした。新聞記者には様々なタイプがあります。情報を独り占めにして、自分で特ダネを放つ孤独なスタイルの人もいます。私の場合は、チームワークの仕事が得意で、後輩を励まし、ネタを与えて書いてもらうのが、好きなタイプでした。前向きで明るい性格です。千葉支局時代、県警担当のキャップ(新聞記者用語で、チームリーダーのこと)をしていた時に、他社の若手記者から「元気のでるキャップ」と言われたことがあります。まさに私の取材スタイルを表現している呼び名として、とても気に入っています。大学でも、自分の体験を伝え、若い人たちを励ます「元気のでる教員」を目指しています。これまで非常勤で教えた学生たちからは、私の講義は非常に好評でした。それだけにやりがいを感じています。しかし、それがいまのところ、実現できないのは、非常に残念です。
9 週刊文春の取材姿勢の問題点
私は、私に対する「バッシング」を引き起こした「週刊文春」の取材姿勢は、ジャーナリズムの方法として問題があり、単なる「名誉毀損」を超えた不法行為ではないかと思っています。この点について説明します。
前記のとおり、私へのバッシングのきっかけになったのは、2014年2月6日号の「週刊文春」の記事ですが、この記事を書いたのは、当時、「週刊文春」の記者だった竹中明洋氏です。
竹中氏が私に取材を申し込んできたのは、2014年1月26日の日曜日でした。支局にかかってきた電話が私の携帯に転送されたのです。私は「広報を通して欲しい」と頼みました。竹中氏は翌朝、当時私が勤務していた朝日新聞函館支局の前にやってきて、インターフォン越しに取材を申し込みましたが、私は前日と同じように答えました。朝日新聞は記事の内容などについて、外部から取材があった場合は、書いた記者本人でなく、広報部が窓口として対応することになっています。このルールは、朝日新聞の記事について取材する週刊誌などのメディアには、周知されているはずでした。私は、支局前でトラブルが起きても困ると考え、当時の上司である札幌の報道センター長に連絡しました。「とにかく事務所の外に出ろ」という指示を受けたので、タクシーで支局を離れました。その時に支局のドアの前に来て、私に声をかけたのは、竹中氏一人でした。竹中氏には、記事で「逃げた」と書かれました。私も記者ですから、待ち伏せすることはあります。しかし、「広報を通して」と答えた取材対象者について、「逃げた」とは書きません。扇情的な記事を狙っていたのでしょう。こうした手法で、読者の憎悪を引き出すやり方は、決して許せません。
竹中氏は、1月27日に、神戸松蔭に、私の就職などについて以下のような質問状をメールで送っています。「この記事をめぐっては現在までにさまざまな研究者やメディアによって重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」。私はのちにこの質問状を神戸松蔭から見せてもらい、憤りを感じました。これを見た瞬間、この記者と闘わなければと思いました。取材対象者に対する脅しのような内容で、私の名誉を毀損する内容だからです。これを受け取った大学側は追い詰められたのではないでしょうか。想像するだけで、怒りを禁じえません。
1月30日にこの記事が載った「週刊文春」2月6日号が発売されました。竹中氏は、朝日新聞の広報部に取材をしておきながら、私の記事についての朝日側の説明を全く掲載せず、極めて一方的で、アンフェアな記事でした。しかも、私が大学で慰安婦問題に取り組みたいと言っているという内容もありました。当時の私は慰安婦問題から距離を置いており、そんなことを言った覚えはありません。作り話でした。この記事が出た後、神戸松蔭には、就任取り消しなどを要求するメールが1週間で250本送られてきたというのです。ファックスや電話での抗議も多数ありました。私は大学の当局者に呼び出され、2月5日に面談をしたのですが、大学側は「捏造記者でない」という私の説明は聞いてくれませんでした。
「文春の記事を見た人たちから『なぜ捏造記者を雇用するのか』などという抗議が多数来ている。記事(植村の)内容の真偽とは関係なく、このままでは学生募集などにも影響が出る。松蔭のイメージが悪化する」などと言われました。大学当局者はおびえきっていて、話は平行線でした。外部からの攻撃だけでなく、週刊文春という大手雑誌の威嚇的な質問もまた大学当局に大きな影響を与えたのだと思います。
後でわかったのですが、1月27日に函館支局には、ジャーナリストの大高未貴氏も来ていたというのです。大高氏は2月3日のインターネットのテレビ番組「チャンネル桜」に登場し、私のことを「元祖従軍慰安婦捏造記者」と中傷しました。その中で彼女は、こう言いました。「インターホン越しにあの、取材申し込みしても、朝日新聞の広報を通してくれの一点張り。で、朝日新聞本社の広報を通しても、え、今回は忙しくて、取材お受けできませんといって、必死に植村記者の、を、かばって、取材させない訳なんですね」。さらに、こうも言っています。「ある週刊誌の記者と一緒に行ってたんですけれども」。大高氏はこの番組で、竹中氏と一緒に行っていたことを明らかにしているのです。しかし、私が、インターフォンで話したのは竹中氏のみです。私は大高氏とは会ってもいません。来ていたことも知りませんでした。ネットで、大高氏は自分でインターフォン越しに話したように語っていますが、これは竹中氏から聞いた話だと思われます。竹中氏はネットで流されることを承知の上で、大高氏に自分の取材情報を伝えたことになります。こうしたネットと連動するような取材のやり方は、犯罪的だと思います。「捏造記者」というレッテルがネットに流れれば、すさまじい植村バッシングがおきることは容易に想像できたはずです。
これは一種の「未必の故意」ではないでしょうか。この「チャンネル桜」のサイトには「外患罪で死刑にしろ」「ノイローゼにさせ本物の基地外にしよう」などの誹謗中傷の書き込みが相次ぎました。私は週刊誌記事とネットの両方で個人攻撃を受けたのです。
神戸松蔭の代理人からの情報によると、「週刊文春」から、同年3月3日に神戸松蔭に私の着任について、「白紙になったのか」との問い合わせがあったとのことです。大学側の事務局長が「着任しない」と伝えたそうです。「週刊文春」は3月13日号でも私の問題を書いています。私が着任しないことを聞いた後で、この記事に朝日新聞の「91年8月11日付朝刊記事を書いた当時、韓国では広い意味で『女子挺身隊』と『従軍慰安婦』が同義語として使われていました」などとする朝日新聞側の私の記事についての説明を16行も書いています。本来なら、2月6日号の記事に朝日側の説明として書くべき内容でした。「週刊文春」のやり方はひどいものです。初報(2月6日号)で朝日を言い分を載せず、私の就職がだめになってから、その後の報道(3月13日号)で、いかにも朝日の言い分も載せましたという書きぶりは、卑怯です。
さらに竹中氏は、私が非常勤講師をしている北星学園大学へも質問状を送っています。2014年8月1日に送られた質問状では「植村氏をめぐっては、慰安婦問題の記事をめぐって重大な誤りがあったとの指摘がなされていますが、大学教員としての適性には問題ないとお考えでしょうか」とありました。神戸松蔭に送ったものと似た内容です。やはり大学を怯えさせるような内容です。そして、竹中氏は「週刊文春」2014年8月14日・21日号「慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」という記事を執筆しました。この記事の最後には「韓国人留学生に対し、自らの捏造記事を用いて再び“誤った日本の姿”を刷り込んでいたとしたら、とんでもない売国行為だ」とありました。仮定の話をしておきながら売国行為と書いて、読者の憎悪を扇動するような書き方です。実際にこの記事が出た後、8月30日付の消印で、私のことを「売国奴」と名指しする匿名のハガキが送られてきました。そこには「出て行けこの学校から 出て行け日本から」とありました。裏面には「日本人は植村隆を決して許さない」とありました。
そもそも、2月6日号の記事がきっかけで、神戸松蔭に激しいバッシングが起きて私が教授に採用されなかったことを知りながら、その半年後に同じような記事を北星について書いているわけです。当然、同じようなバッシングが北星にも起きて非常勤講師の職を失いうることは十分に予見できたはずです。しかし、竹中氏は同じことを繰り返しています。そこには植村の仕事を失わせ、経済的にも精神的にも追い詰めようという強い悪意が感じられます。まともな言論活動ではありません、言論によるテロ行為だと思います。この竹中氏の8月14日・21日号の記事の結果、北星学園にもさらに激しい抗議や嫌がらせが殺到し、私や家族は、さらに大きな人権侵害を受けることになりました。以上のような竹中氏の取材のやり方、記事の書き方は、ジャーナリズムの範囲を逸脱した、扇動とも言うべきものだと思います。
こうした植村バッシングの引き金になった記事を竹中氏に書かせた「週刊文春」編集部、そして、それを発行する文藝春秋社には大きな責任があると思います。
10 私は捏造記者ではありません
私は故意に事実をねじ曲げて記事を書いたことはありません。私が捏造記者ではないことを、以下のとおり、整理してご説明します。
(1)私が事実を捏造したことはないこと
西岡氏は、「このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言では」ないと主張しています。
しかし、まず、西岡氏も陳述書で認めているとおり、金学順さんが東京地裁に提出した訴状には親に身売りされたという記載はどこにもありません。西岡氏はいろいろ弁明を書いていますが、そもそも事実関係を誤ったのだから、謝罪して訂正してから先に進むべきではありませんか。記者にとって致命的な「捏造」をしたと断定する際に前提とした事実で、間違えたことを謝罪、訂正しない西岡氏の論争態度は、研究者を名乗り論考を発表する言論人として、ファクトを軽視した極めて不誠実なものであり、他人を批判する資格は全くありません。
金学順さんが、身売りされたという事情は先の「月刊宝石」記事に「平壌にあったキーセン専門学校の経営者に40円で売られ」という記載があることから初めてわかります。しかし、前述のとおり、宝石記事が出たのは92年1月であり、私の記事は91年12月ですから、私が記事を書いた当時、宝石の記事を参照できるはずがありません。また、先に詳しく引用したとおり、この記事によれば、金さんは「満洲のどこかの駅」で日本人の「将校たちに刀で脅され」た養父と引き離され、「将校」によって慰安所まで強制的に連れて行かれたことになりますから、「親に身売りされて慰安婦になった」事実がないことは歴然としています。西岡氏は全く事実に基づかない批判をしているのです。
西岡氏は、金学順さんが「韓国紙の取材に対してもそのように(親に売られて慰安婦になったと)答えた」と主張しています。しかし、西岡氏が自ら翻訳した91年8月のハンギョレ新聞を見れば、金学順さんは、「1924年満州吉林省で生まれた金さんは父親が生後100日で亡くなってしまい、生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった。」という経緯を話す一方、「『私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした。その後、5ヵ月間の生活はほとんど毎日、4~5名の日本軍人を相手にすることが全部でした』」と証言しているのです。つまりハンギョレ新聞を素直に読めば、金学順さんは、人身売買で慰安婦になったのではなく、「武力で奪われた」と韓国紙の取材に答えたのです。そのようにしか読めません。この点、91年の記者会見では、金学順さんは、「16살 조금 넘은 것을 끌고 가서. 강제로.(16歳ちょっと過ぎたくらいの(私)を引っ張っていって。強制的に)」と明確に述べているのであって、この記事を書いたハンギョレ新聞の記者も、「金学順さんは強制連行されたと証言していた」と述べているではありませんか。西岡氏はハンギョレ新聞を読んで「武力で奪われた」と翻訳したのですから、当然、そのような認識に達していたはずです。それなのに、私を批判するために、意図的に事実をねじ曲げたとしか思えません。
西岡氏は、私が「(存在しない)強制連行があったかのように記事を書い」たと主張しています。しかし、すでに述べたとおり、私は、91年8月の記事で慎重に「連行」という表現をしており、産経新聞のように「強制連行」という表現は用いていません。これは、当時、私は「だまされた事案だ」「拉致された類の事案ではない」と認識していたからです。私は91年8月の記事で「だまされて慰安婦にされた」と明確に書いており、読者が誤解する余地もありません。したがって、西岡氏の批判は全く事実に基づいていません。
ただ、「月刊宝石」やハンギョレ新聞に現れた連行の経緯、金学順さん自身が最初の記者会見で「16살 조금 넘은 것을 끌고 가서. 강제로.(16歳ちょっと過ぎたくらいの(私)を引っ張っていって。強制的に)」と明確に述べていることを考えあわせれば、今では、むしろ産経新聞等が使った「強制連行」という表現の方が金学順さんの認識に近かったのではないかと考えています。したがって、私が仮に「連行」ではなく「強制連行」という表現を使ったとしても誤りではなく、真実に近いとすら思っています。
以上のとおり、私が故意に事実をねじ曲げて記事を書いた事実はありません。西岡氏の批判は、全て事実に基づかないものです。私は捏造記者ではありません。
(2)「義母の裁判を有利にする意図」がなかったこと
西岡氏のもう一つの批判は、私が金学順さんの裁判を支援した遺族会の理事・梁順任の娘と結婚しているということにあるようです。西岡氏は、書籍等では、「義理のお母さんの起こした裁判を有利にするために、紙面を使って意図的なウソを書いた」などと痛烈な批判をしていましたが、訴訟に至っては、朝日新聞綱領、朝日新聞社行動規範を引用しながら「本件各記事に利害関係を有していた」等と主張を変更させています。しかし、私の名誉を毀損したのは書籍の方ですから、こちらに反論したいと思います。
まず、そもそも、私が慰安婦問題の取材を始めたのは、既に述べたとおり90年夏のことです。記事を書く取材の過程で遺族会の理事の娘である妻と知り合ったわけで、自分の親族の裁判を記事にするために取材を始めたのではありません。
また、91年8月の記事で、私が金学順さんの情報を得たのは当時のソウル支局長の小田川氏からで、親族からの情報ではありません。取材の対象は遺族会ではなく挺対協ですし、この記事を書いた当時、金学順さんは裁判を起こす意思も明らかにしておらず、そもそも実名も明かしていません。遺族会は保守系の団体であり、革新系の挺対協とは全く考え方が違っていましたので、協力関係もありませんでした。加えて、金学順さんと梁順任とが初めて会ったのは91年9月でそのときは裁判の話もしなかったというのですから、この記事で私が親族の裁判を有利にしようとした等というのは全く事実無根です。
91年12月25日の本件記事Bが出た段階では、すでに金学順さんは訴訟を起こしていました。この訴訟自体は遺族会が中心になって起こした訴訟でした。しかし、そもそも本件記事Bは東京地裁への提訴の19日後に、朝日新聞大阪本社版のみに出たもので、東京本社版には出ていません。既に19日前の提訴の段階で、その事実が東京で大きく報道されており、たとえば、産経新聞などは、もっと直接的に「金さんは17歳の時、日本軍に強制的に連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として働かされた」と書いています。私が大阪本社版に書いた記事はこれよりはるかに慎重なのに、なぜ私が書いた記事だけが裁判を有利にするといえるのでしょうか。
私が書かなかったと非難されている「キーセン学校に通った事実」は産経新聞も書いていません。そして、この事実は訴状に書いてあるというのですから、私が記事に書かなくとも裁判官の知るところとなっているはずです。それなのに、私が当該事実を朝日新聞大阪版に書かなかったからといって、なぜ、金学順さんの裁判が有利になるというのでしょうか。
このように、私が書いた記事で、金学順さんが日本政府に対して起こした裁判が金さんに有利になるということはおよそありえません。私が金さんの裁判を有利にする目的で事実をねじ曲げて記事を書いたという西岡氏による非難は、あまりに荒唐無稽であり、およそ意味が分からないというのが正直なところです。
(3)まとめ
以上のとおり、私が故意に事実をねじ曲げて捏造記事を書いた事実はありません。このことは、朝日新聞だけでなく、被告が引用する朝日新聞第三者委員会も「縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたとはいえない」として、はっきり認めているところです。
なお、訴訟に至って、西岡氏は、「捏造」は事実ではなく、論評である等と主張を変遷させました。しかし、西岡氏は、訴訟前、2014年10月の「週刊文春」の櫻井よし子氏との対談では「捏造した事実は断じてある」とはっきり述べていたのです。西岡氏の発言を聞いて「事実ではなく論評である」とは誰も思わないのではないでしょうか。ここでも、西岡氏の論争態度の不誠実さは明らかです。
11 なぜ裁判を起こすに至ったか
最後に、なぜ私が裁判を起こすに至ったか、その理由について述べたいと思います。なぜなら、私が裁判を起こしたことに対して「言論では言論で闘えばよいではないか」という批判があるからです。
まず、前提として、私は、裁判で闘うと同時に言論でも闘っています。手記や著作も出して反論していますし、私を執拗に非難する産経新聞と読売新聞についてはきちんと取材を受け、その中で反論しています。
それでも、なお、裁判を起こす必要があったのは、次の2つの理由からです。
第1に、私と家族の生存が脅かされているからです。私は、あいつぐ脅迫と嫌がらせによって大学教授の職を失い、非常勤講師の仕事も継続が危なくなり、国外の大学で仕事を得るに至りました。そのように自らの生存を脅かされている状態で言論の力だけによって自分の名誉を回復することはできません。まして、相手は日本最大の発行部数を誇る雑誌メディアです。朝日新聞を辞めた私は一個人に過ぎず、言論を行使しようにもその場が保証されているわけでもありません。
さらに心配だったのは家族の身の安全です。問題の記事が書かれた当時生まれてもいなかった私の娘は、「自殺に追い込む」等とネットに書かれ、殺害を予告する脅迫状まで送り付けられました。娘の高校には、大量の中傷ファクスが送り付けられました。このような匿名で人の命を脅かす相手が日本中にいるのに、言論の力だけで、どうやって家族を守ることができるでしょうか。公平な議論を可能にするためにも、司法の場をお借りせざるを得なかったのです。
私が裁判に訴えざるを得なかった第2の理由は、被告特に西岡氏が、ご自身の誤りをきちんと訂正もせず、理由もなく主張を変遷させていくためです。
例えば、西岡氏は、当初私が義母の梁順任から金学順氏の情報を得てスクープを書いたと批判して参りました。ところが、私が手記を書く等してそのような事実がないことを証明すると、自分の誤りをきちんと訂正することなく、今度は、「裁判に利害関係があった」等と主張をずらしています。
また、西岡氏は、文春記事等では「挺身隊と慰安婦とは全く関係がない」と主張していました。ところが、私が「挺身隊が慰安婦の意味で使われていた」ことを証明すると、最新の陳述書では、「『職業としての慰安婦』と『連行方式としての女子挺身隊』がある」等と全く新しい主張をし始めています。
このように、自分の誤りをきちんと訂正せず、主張を変遷させていく相手と論争しても真実に近づくことはなく、実りのある議論にはなりえません。そこで、私は、証拠に基づいて判断を頂ける場として司法の場を選んだのです。
証拠を厳密に見ていただければ、少なくとも、私が故意に事実をねじ曲げて報道した事実はないこと、すなわち、私が捏造記者でないことだけは証拠上明らかではないでしょうか。そのことを裁判所にお認め頂ければ、私の名誉は回復し、私の家族の命が匿名の人物から執拗に狙われるという事態は収束するはずです。
どうか、公正な判決を下して頂けるようお願い申し上げます。
以上
1 断たれた夢
「私の書いた慰安婦問題の記事が、捏造でないことを説明させてください」
いまから、4年10か月ほど前の2014年2月5日、神戸松蔭女子学院大学の当局者3人に向かって、私はこう訴えました。
場所は神戸のホテルでした。
私は同大学に公募で採用され、その年の春から、専任教授として、マスメディア論などを担当することになっていました。テーブルの向かいに座った3人の前に、説明用の資料を置きました。しかし、誰も資料を手に取ろうとしませんでした。「説明はいらない。記事が正しいか、どうか問題ではない」というのです。
緊張した表情の3人は、こんなことを言いました。
「週刊文春の記事を見た人たちから『なぜ捏造記者を雇用するのか』などという抗議が多数来ている」
「このまま4月に植村さんを受け入れられる状況でない」
要するに大学に就職するのを辞退してくれないか、という相談でした。採用した教員である私の話をなぜ聞いてくれないのか。怒りと悲しみが、交錯しました。面接の後、「70歳まで働けますよ」と言っていた大学側が、180度態度を変えていました。
その週刊文春の記事とは、1月30日に発売された同誌2014年2月6日号の「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」のことです。その記事が出てから、大学側に抗議電話、抗議メールなどが毎日数十本来ているという説明でした。私は、この週刊文春の記事が出たことで、大学当局者に呼び出されたのです。当局者によれば、産経新聞にもこの文春の記事が紹介され、さらに拡散しているとのことでした。私の記事が真実かどうかも確かめず、教授職の辞退を求める大学側に、失望しました。結局、私は同大学への転職をあきらめるしかありませんでした。
この週刊文春の記事で、日本の大学教授として若者たちを教育したいという私の夢は実現を目前にして、打ち砕かれました。そして、激しい「植村捏造バッシング」が巻きおこったのです。「慰安婦捏造の元朝日記者」「反日捏造工作員」「売国奴」「日本の敵 植村家 死ね」など、ネットに無数の誹謗中傷、脅し文句を書き込まれました。自宅の電話や携帯電話にかかってくる嫌がらせの電話に怯え、週刊誌記者たちによるプライバシー侵害にもさらされました。私自身への殺害予告だけでなく、「娘を殺す」という脅迫状まで送られてきました。殺害予告をした犯人は捕まっておらず、恐怖は続いています。いまでも札幌の自宅に戻ると、郵便配達のピンポンの音にもビクビクしてしまいます。週刊文春の記事によって、私たち家族が自由に平穏に暮らす権利を奪われたのです。そして、家族はバラバラの生活を余儀なくされました。私は日本の大学での職を失い、一年契約の客員教授として韓国で働いています。
2 激しいバッシングの中で
神戸松蔭との契約が解消になった後、週刊文春は、私が札幌の北星学園大学の非常勤講師をしていることについても、書き立てました。このため、北星にも、植村をやめさせないなら爆破するとか学生を殺すなどという脅迫状が来たり、抗議の電話やメールが殺到したりしました。このため、北星は2年間で約5千万円の警備関連費用を使うことを強いられました。学生たちや教職員も深い精神的な苦痛を受けました。北星も「植村捏造バッシング」の被害者になったのです。
私を「捏造記者」と決めつけた週刊文春記者の竹中明洋氏、そして週刊文春の記事に「捏造記事と言っても過言ではありません」とのコメントを出した西岡力氏の2人が今年9月5日の尋問に出廷しました。神戸松蔭に対し電話で、私の「捏造」を強調した竹中氏は、「記憶にありません」と詳細な回答を避けました。本人尋問では、西岡氏が私の記事を「捏造」とした、その根拠の記述に間違いがあったことが明らかになりました。また、西岡氏自身が自著の中で、証拠を改ざんしていたことも判明しました。それこそ、捏造ではありませんか。
「捏造」と言われることは、ジャーナリストにとって「死刑判決」を意味します。人に「死刑判決」を言い渡しておいて、その責任を回避する2人の姿勢には強い憤りを感じています。
「植村捏造バッシング」には、当時高校2年生だった私の娘も巻き込まれました。ネットに名前や高校名、顔写真がさらされました。「売国奴の血が入った汚れた女。生きる価値もない」「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。(中略)自殺するまで追い込むしかない」などと書き込まれました。娘への人権侵害を調査するため、女性弁護士が娘から聞き取りをした時、私に心配かけまいと我慢していた娘がポロポロと大粒の涙を流し、しばらく止まりませんでした。私は胸が張り裂ける思いでした。
3 裁判官の皆様へ
「植村捏造バッシング」の扇動者である西岡力氏と週刊文春に対する裁判がきょう、結審します。慰安婦問題の専門家を自称して様々な媒体で、「捏造記事」だと繰り返し決め付けてきた西岡氏と、週刊誌として日本最大の発行部数を誇る週刊文春がもし、免責されるなら、「植村捏造バッシング」はなぜ起きたのかわからなくなります。「植村捏造バッシング」は幻だった、ということになります。しかし「植村捏造バッシング」は幻ではなく、様々な被害をもたらした巨大な言論弾圧・人権侵害事件なのです。
私は1991年に当時のほかの日本の新聞記者が書いた記事と同じような記事を書いただけです。それなのに、二十数年後に私だけ、「捏造記者」とバッシングされるのは、明らかにおかしいことです。こんな「植村捏造バッシング」が許されるなら、記者たちは萎縮し、自由に記事を書くことができなくなります。こんな目にあう記者は私で終わりにして欲しい。そんな思いで私は、「捏造記者」でないことを訴え続けてきました。「植村捏造バッシング」を見過ごしたら、日本の言論の自由は守られないと立ち上がってくれた弁護団の皆さん、市民の皆さん、ジャーナリストの皆さんたちの支えがあって、ここまで裁判を続けて来られました。
裁判長におかれては、弁護団が積み重ねてきた「植村が捏造記事を書いていない」という事実の一つ一つを詳細に見ていただき、私の名誉が回復し、言論の自由が守られ、正義が実現するような判決を出していただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
以上
以上
第1 証言テープについて
1 はじめに
私は、1991年11月25日に私が金学順さんの証言を録音したテープ(以下、「証言テープ」といいます)を高等裁判所に提出しました。
証言テープは、金学順さんが日本国政府を相手に裁判を起こすにあたって弁護団が聞き取りを行った際、私がその聞き取りに立ち会い、聞き取りの内容を録音したものです。証言テープに録音されている音声は、弁護団の高木健一弁護士、通訳の臼杵敬子氏のものであり、私の声も聞き取りが終わった後の最後の方に少しあります。録音には当時日本で使われていたカセットテープレコーダーが使用されました。
今回発見されたのは、私が録音したテープそのものではなく、それをダビングしたものでした。後述のとおり、私は92年頃、元のテープをダビングして臼杵氏に送りました。私の手元にあった元のテープは無くなってしまったものの、臼杵氏はダビングテープを保存しており、それが今回発見されたのです。そこで、今回問題となる証言テープは、厳密にはそのダビングテープだということになります。
証言テープは全体として90分テープ2本(甲199写真①②)で、2本目は表面のみ録音してあります。証拠としては、1本目の表面(甲199写真③)を「金学順さん証言テープ⑴」(甲195)、1本目の裏面(甲199写真④)を「金学順さん証言テープ⑵」(甲196)、2本目の表面(甲199写真⑤)を「金学順さん証言テープ⑶」(甲197)と表示して提出してあります。
証言テープのケースにある「金学順ハルモニⅠ 91.11.25」(甲199写真①)、「金学順ハルモニⅡ 91.11.25」(甲199写真②)、テープ本体に貼付されたシールに記載された文字「金学順ハルモニ①」(甲199写真③)、「金学順ハルモニ②」(甲199写真④)、「金学順ハルモニ③」(甲199写真⑤)の文字は間違いなく私の筆跡です。私がは元テープをダビングしたのち、これらの記載をして、臼杵さんに送ったものです。
2 証言テープが発見された経緯と提出に至る経過
証言テープは、2019年8月22日、通訳の臼杵敬子氏の自宅で見つかりました。臼杵氏の自宅は香川県丸亀市にあります。私と支援者、弁護団は、当時のことを聞くため臼杵氏の自宅を訪問したのですが、臼杵氏に対する聞き取りの際、臼杵氏より証言テープの存在を示されたのです。
そこで、証言テープを臼杵氏の自宅にあるカセットテープレコーダーで再生し、これを私が持っていたICレコーダーで録音しました。ICレコーダーのマイクをテープレコーダーに近づけて録音するという方法です。その方法で採取したデータをメールで支援者に送って聞いてもらい、そこで金学順さんが「妓生」について言及していないことが確認できました。そこで、東京地裁に提出する控訴理由書にその旨を記載することができたのです。
ところが、証言テープの大半は韓国語なので、証拠提出するためには反訳書をつくるだけでなく、翻訳をする必要があることが分かりました。そこで、朝鮮語翻訳の第一人者である米津 篤八(よねづ とくや)氏に依頼して、臼杵氏の通訳を省いた部分について翻訳をしてもらいました。翻訳は9月16日頃完成し、9月17日、札幌地裁で櫻井よしこさんを訴えている裁判に証拠として提出することができました。
ところが、10月7日夜、このテープの内容について分析をしていた東京の弁護団から、重大な指摘を受けました。テープの内容と私の記事との間に齟齬があるというのです。具体的には、私の記事中、「翌朝、馬の声に気づきました」「夫は酒を飲むと、『お前が慰安所にいたのを助けてやったではないか』と言って私を責めました。」という部分が証言テープにないというのです。そこで、支援者の人たちに聞き直してもらうと、前者については反訳の間違いであること、後者については証言テープにちゃんとあることが分かりました。そのほかにも、弁護団からいくつか指摘を受け、支援者をお願いしてさらに修正を重ね、最終的に証言テープの反訳書と翻訳が完成したのは、10月18日でした。弁護団は、これを直ぐに相手方と裁判所に提出したと聞いています。
3 なぜ臼杵氏の手元に証言テープがあったのか
それでは、なぜ、臼杵氏の手元に証言テープがあったのかという点について、次に述べたいと思います。
前記のとおり、私は、1991年11月25日、金学順さんが日本国政府を相手に裁判を起こすにあたって弁護団が聞き取りを行った際、その聞き取りに立ち会い、その聞き取りの内容をテープに録音しました。大阪本社企画報道室副室長の柳博雄さんの依頼で、本件で問題となる12月25日付け記事(甲2,記事B)を執筆するわけですが、その際、証言テープを使用したのです。
ところで、西岡力さんは、1992年4月号の文藝春秋誌に「『慰安婦問題』とはなんだったのか」という論文を発表しました。そこには「植村記者はある意図を持って、事実の一部を隠蔽しようとしたと疑われても仕方ない」(甲26、37頁)と私を非難するくだりがありました。そこで、当時の朝日新聞社社内でも西岡氏の批判を否定できるかが問題となったのです。
当時、証言テープは私の手元にありましたから、「金学順さんは妓生については証言しなかったはずなのに、おかしいな」と思いました。そこで、証言テープをダビングして、当時通訳をしていた臼杵敬子さんにダビングテープを送り、「妓生について証言があるかどうか聞いてみて欲しい」と依頼したのです。
いろいろ調べた結果、証言テープの中には妓生に関する証言はありませんでした。そこで、私は、会社にその旨報告し、社内ではこの件は「問題なし」という結果に終わりました。そのことは、当時の1992年3月11日付けで「『文芸春秋』記事について」と題する社内文書(甲200)の以下の記載とも整合します。
「この記事について西岡氏は、二番目の「」、どうやって慰安所に行ったかの部分について、『それまでの韓国の報道と違う。韓国では、キーセンに売られていったと報道されている。植村記者は、それを書いていない』と指摘していますが、金さんは、この聞き取りの時には、この点は話していません(テープもきちんと保存しています。弁護団がつくり、マスコミにも配布した聞き取り要旨にもそうなっています=別紙参照。)」
このように会社内で「問題なし」との結論が出たことから私はこの件を忘れてしまい、テヘラン支局長、ソウル特派員、外報部デスク、北京特派員などで海外を回るうちに、テープそのものがなくなってしまいました。
4 これまでの私の弁明との整合性
これまで私は、この点について以下のとおり弁明していました(原審陳述書甲115号11頁)。
「まず、①の点(「金学順が貧困のために母親にキーセンの検番に売られた事実」を書いていない点)ですが、私の手元には当時の取材メモがなく、金学順さんが聞き取りの際「キーセンに売られた」と話したかどうかははっきりとはしません。ただ、聞き取りに同席した裁判支援の市民団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の「ハッキリ通信」1991年第2号(甲14)には、金さんが「私は平壌にあったキーセンを養成する芸能学校に入り、将来は芸人になって生きていこうと決心したのでした」と語ったことが記されています。
しかし、そもそも、キーセンとは朝鮮の芸妓のことであり、日本軍を相手にする慰安婦とは全く違います。したがって、金さんがキーセン学校に通ったことと、その後に慰安婦にさせられたこととの間に何の関係もないため、私は、「キーセン学校に通った事実」を記載しなかったに過ぎません。」
このように、私はこれまで、金学順さんが聞き取りの際「キーセンに売られた」と話したかについては「はっきりとはしません。」と述べていました。当時から私の手元には、1992年3月11日付け社内文書(甲200)がありましたから、会社には「証言テープの中には妓生に関する証言はありませんでした」と報告したことは分かっていました。しかし、「ハッキリ通信」1991年第2号(甲14)には、金さんが「私は平壌にあったキーセンを養成する芸能学校に入り、将来は芸人になって生きていこうと決心したのでした」と語ったことが記されていたことから、もしかしたら、証言テープの中にはその旨の証言があったのかもしれないと思ったのです。
他方、「金さんがキーセン学校に通ったことと、その後に慰安婦にさせられたこととの間に何の関係もない」と思っていたことも真実ですし、今でもそう思っています。
一審の段階では、証言テープが見つかっておらず、金学順さんが聞き取りの際「キーセンに売られた」と話したかどうかははっきりとしなかったため、裁判所に提出する陳述書には、その点は「はっきりしません」と記載した上、記事に妓生について触れなかった理由としては、「金さんがキーセン学校に通ったことと、その後に慰安婦にさせられたこととの間に何の関係もない」ことのみをあげたのです。
現時点では、「妓生について記載しなかった理由」を聞かれれば「証言テープになかったから」と答えることができます。記事の冒頭で「証言テープを再現する」と謳っている以上、証言テープにないことを書くはずがありません。
なお、私が聞き取り後臼杵さんから渡された弁護団の「聞き取り要旨」(甲15)にも「妓生」に関する記載はありません。やはり金学順さんはその旨の証言をしていないのです。では、「ハッキリ通信」1991年第2号(甲14)の記述はいつどのように入ったのでしょうか。この点、臼杵さんに尋ねたのですが、今では分からないとのことです。この点訴状にもその旨の記載があります。一体、これらの記載はどこからきたのでしょうか。今ではよく分からないということになります。
5 「息子が溺死した」とのエピソードについて
弁護団が分析したとおり、私の記事と証言テープとは完全に一致しており、私の記事にある内容は全て証言テープに基づいたものであるといえます。
ただ、私の記事と証言テープを比較した場合、厳密にいうと、記事にある次のエピソードだけは証言テープにありません。
「しかし、その息子も小学校4年の時に水死しました」
金学順さんは「息子が死んだから、もう生きていくつもりはありませんでした」(「金学順さん証言テープ⑶」1頁)と証言していますから、息子さんが亡くなったことは間違いないものの、それがいつであり、死亡の原因は何であったのかだけが証言テープにないのです。
しかし、さらに子細に調べると、これに相当する部分は、実は、カセットテープの入れ替えの間に証言されている可能性が高いことが分かりました。すなわち、前記のとおり、カセットテープは二本であり、1本目の裏面(甲199写真④)が「金学順さん証言テープ⑵」(甲196)、2本目の表面(甲199写真⑤)が「金学順さん証言テープ⑶」(甲197)に相当しているところ、「金学順さん証言テープ⑵」(甲196)は
金学順 そうやって生活しているうちに朝鮮戦争が起こりました。家族を亡くし、写真まで、昔の写真まで全部。
という証言で終わっているところ、「金学順さん証言テープ⑶」(甲197)は
Q臼杵 では、上海で質屋をしていたときが一番安定していましたか?
A金学順 はい、約2年間。息子さえ〔訳者注:聞き取れず〕ときはこうではなかったのに。
Q高木 その後もずっと行商みたいなことをしていたんですか?
Q臼杵 1人でどうやって食べて生きてきたのですか?
A金学順 息子が死んだから、もう生きていくつもりはありませんでした。
という証言で始まっていることから、「金学順さん証言テープ⑵」と「金学順さん証言テープ⑵」の間に息子が死んだエピソードがあることがわかるのです。そこで、「しかし、その息子も小学校4年の時に水死しました」という証言があったと推測されます。
では、現在残っている証言テープになぜ当該証言がないのでしょうか。次の2つの可能性が考えられます。
① 聞き取りの現場でカセットを入れ替えている間に当該証言がなされたため、録音がなされなかった可能性。
② 元のテープには当該証言があったが、テープをダビングするに際して、テープを入れ替えた際、なんらかの技術的な理由で当該証言がダビングテープから脱落してしまった可能性
①の場合であっても私は現場で金学順さんの証言を聞いていますので、メモや自分の記憶で証言テープを補った可能性があります。②の場合であれば、元のテープに当該証言はあったのですから、やはり私の記事は証言テープに基づいていることになります。
どちらにしても、私が金学順さんの証言に基づかない記事を書いたことはありません。
第2 一審判決について
1 はじめに
新しい証拠を提出することができましたので、一審判決の認定について、改めて私が記憶する事実を述べたいと思います。
2 裁判所認定事実1について
ア はじめに
原審判決は、私が「金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」について、そのように信じられてもやむを得ないと認定しています。これは記事A(8月11日付け)、記事B(12月25日付け)両方について言われていると思いますので、それぞれの記事について述べます。
前提としてご理解頂きたいのは、 私の記事の記述がどうしてあれほど攻撃されたのは、金学順さんが「キーセンに身売り」され、それが原因で「慰安婦にされた」にされたのに、私があえてそのことを隠蔽したと思われたからだということです。だからこそ,週刊文春を読んだおおぜいの読者たちが、神戸松蔭女子や北星学園に抗議を殺到させたのです。原審判決がその事実から目を背けている点がまず問題だろうと思います。
イ 記事Aについて
まず、私が金学順さんの妓生についての経歴を知ったのは、8月15日付けハンギョレ新聞等韓国紙の報道に接した時です。したがって、それ以前の8月11日記事の執筆した段階ではそのことを知らなかったのですから、「金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかった」という事実は全くありません。
私はそのことを、朝日新聞の検証記事のための聞き取りでも、朝日新聞第三者委員会での聞き取りでも、一貫して述べています。ですから、西岡さんはそのことを当然知っていたと思います。
したがって、「そのように信じられてもやむを得ない」という原審判決の認定は明らかに間違いです。
なお、西岡さんは「金学順さんは8月14日の記者会見で妓生の経歴について語ったのだから、植村氏が8月10日に聞いたテープの中でも同じことを語ったはずだ」等と主張しているようです。しかし、8月10日のテープでは妓生についての証言があった記憶はありません。今回、証言テープの内容が明らかになり、12月25日の弁護団の聞き取りでそのことを語っていなかったことが明らかになりました。金学順さんは常に妓生について語っていたわけではないのです。したがって、8月10日のテープの中でも語っていなかったとしても不思議ではありません。
ウ 記事Bについて
私の記事Bのリード文には「証言テープを再現する」と明記しています。つまり、この記事は、「金学順さんがこのように語った」という事実を伝える記事なのです。そして、金学順さんは証言テープの中で妓生の経歴について語りませんでした。そうだとすれば、この記事は、「事実と異なる記事」だとはいえず、裁判所の認定は間違っていると思います。
確かに12月の記事を執筆する段階で私は妓生に関する情報は掴んでいました。しかし、くり返し述べるとおり、その情報が慰安婦になる過程で重要な事実だとは考えなかったのです。この点西岡さんは、ご自身の歴史観に基づき「書くべきだった」との意見を主張しておられます。それはそれで「意見」としては承りますが、そうだからと言って、私の記事が「事実と異なる」ということにはならないはずですし、まして「捏造」等といえるはずはないだろうと思います。
3 裁判所認定事実2について
ア はじめに
原審判決は、私が「義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたとの事実」について、そのように信じられてもやむを得ないと認定しています。これも、記事A(8月11日付け)、記事B(12月25日付け)両方について言われていると思いますので、それぞれの記事について述べます。
イ 記事Aについて
私の義母が理事を務める団体とは「太平洋戦争犠牲者遺族会」(以下「遺族会」といいます)です。記事Aを執筆した8月10日の段階で、金学順さんは遺族会に入会していませんでした(甲201)。8月10日の取材対象は挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」といいます)であり、遺族会とは別の団体です。
したがって、8月11日の記事は、遺族会の関係者に対する取材ではなく、私が情報提供を受けたのは当時のソウル支局長の小田川興さんからであって義母ではなく、金学順さんは当時裁判の原告になる予定はなく、名前すら分からなかったのですから、この記事について、私に「義母の裁判を有利にする意図」などあろうはずがありません。
私はそのことを、朝日新聞の検証記事のための聞き取りでも、朝日新聞第三者委員会での聞き取りでも、一貫して述べています。ですから、西岡さんはそのことを当然知っていたと思います。
なお、西岡さんは、遺族会が90年に日本政府を提訴することを公表していたと主張しています。しかし、そもそもこの裁判は日本兵として闘った軍人・軍属に関する裁判であり、従軍慰安婦問題とは何の関係もありません。その当時従軍慰安婦問題と軍人・軍属の裁判とを関連付けて考えていた人はおりません。そんなことは少し調べれば誰にでもわかることです。
ウ 記事Bについて
この記事が公表された12月25日の段階では、確かに、金学順さんは遺族会に入会し、裁判を提起していました。
しかし、そもそもこの記事Bは大阪本社企画報道室副室長の柳博雄さんの依頼で「おんなたちの太平洋戦争」というシリーズもののために執筆したものです。このシリーズは戦争体験者の証言をそのまま記録として集めるというものですから私も柳さんの依頼の趣旨に沿って記事を書いたに過ぎません。
そして、今回証拠提出した証言テープと記事とが詳細に一致していることから分かるとおり、私は、柳さんの依頼の趣旨に沿って金学順さんの証言を忠実に再現しており、一切の作為を加えていません。そうだとすると、「意図的に事実と異なる記事を書いた」という事実は全くないことになります。
裁判所は、「そのように信じられてもやむを得ない」等と認定していますが、果たしてどのような根拠があるというのでしょう。何の根拠もなしに記事を「捏造」だと信じられても困ります。
4 裁判所認定事実3について
ア はじめに
原審判決は、「控訴人が、意図的に、金学順が女子挺身隊として日本軍によって戦場に強制連行されたとの、事実と異なる記事を書いたとの事実」という事実が真実であると認定しています。これは、記事A(8月11日付け)について言われていると思いますので、この点について述べます。
イ 「だまされて慰安婦にされた」と明記していること
原審判決は、要するに、金学順さんは日本軍に強制連行されたのではないのに、私があたかも強制連行されたかのように事実をねじ曲げた、というようです。
しかし、私は記事Aの中で「女性の話によれば、だまされて慰安婦にされた」と明記しています。これはのちに金学順さんが「そこに行けばお金が儲かる」という話をされて慰安所に行った話と整合していますから、真実です。
私はこの記事を執筆した当時金学順さんのケースは「だまされて慰安婦にされた」事案だと聞いていたのでそのように書いたのです。私がそのように認識したのは挺対協の尹貞玉(ユン・ジョンオク)代表からそのように聞いたのだという記憶です。
そうだとすると、この記事について、私が「金学順が日本軍によって戦場に強制連行されたとの、事実と異なる記事を書いたとの事実」は全くありません。
ウ 「挺身隊」=「慰安婦」というのが当時の用語法だったこと
原審判決は、私が「挺身隊」という単語を使用したことで「金学順が日本軍によって戦場に強制連行されたとの記事を書いた」と認定しているようです。しかし、一審段階から繰り返し述べさせて頂いているとおり、韓国では、従軍慰安婦のことを「挺身隊(チョンシンデ)」と表現していましたし、「挺身隊の名で」という表現も、以前から韓国や日本のメディアで定着していました。朝日新聞は1984年8月25日の慰安婦問題を伝えた朝刊記事で、「韓国人女子てい身隊(軍慰安婦)」と表記しています。1987年8月14日の読売新聞夕刊も「『女子挺身隊』の名のもとに」と伝え、1991年6月4日の毎日新聞朝刊でも「『女子挺身隊』の名目で」という表現が使われています(甲65、66、49)。原審判決の理屈であれば、当時の新聞記事は全部捏造になってしまいます。
今回、私は、1990年7月17日当時梨花女子大学教授で慰安婦問題の調査を続けていた尹貞玉先生に私がインタビューしている録音テープを証拠提出しました(甲217)。ここにはこんなやりとりが録音されています。
尹先生、「韓国でも挺身隊について関心が高まっていて、これがどんどん広がると、おばあさんたちも(中略)話をするようになるかもしれない」。
私、「女子挺身隊問題は、日本では知られていないからもっと報道しなければならない。(中略)。おばあさんと会えますか」。
このように私たちは「挺身隊」を「慰安婦」の意味で何度も使っています。当時の私の認識は「慰安婦」=「挺身隊」だったのです。
エ 金学順さんは「強制連行された」とも言っていること
原審判決は、私が「金学順が日本軍によって戦場に強制連行されたとの、事実と異なる記事を書いたとの事実」を認定しています。
ところで、金学順さん自身は、1991年8月14日の記者会見で
「16살조금 넘은 것을 끌고 가서. 강제로.」
(16歳ちょっと過ぎたくらいの(私)を引っぱって。強制的に)
と述べています(甲109、甲110)。
先に述べたとおり、記事を執筆した時点で、私は、金学順さんのケースは「だまされて慰安婦にされた」事案だと考えていました。しかし、裁判の証拠として提出された甲109号証を見る限り、金学順さんは、自分は強制連行されたと認識していたようです。
5 まとめ
このように、私の経験や証拠に照らし、原審判決の認定は全く間違っています。高等裁判所におかれては、ぜひ、新証拠に正面から向き合って頂き、正しい認定をしてくださるようお願い申し上げます。
以上
凡例▼人名、企業・組織・団体名はすべて原文の通り実名としている▼敬称は一部で省略した▼PDF文書で個人の住所、年齢がわかる個所はマスキング処理をした▼引用文書の書式は編集の都合上、変更してある▼年号は西暦、数字は洋数字を原則としている▼重要な記事はPARTをまたいであえて重複収録している▼引用文書以外の記事は「植村裁判を支える市民の会ブログ」を基にしている
updated: 2021年8月25日
updated: 2021年10月18日