札幌訴訟の植村本人尋問

櫻井側からは植村が「挺身隊」「連行」と書いた理由について、質問が集中した

 

 

植村氏の本人尋問は第11回口頭弁論で行われた(札幌地裁、2018年3月23日)。

この日は、植村氏の後に櫻井氏の尋問も行われたため、傍聴希望者は定員の4倍となり、抽選が行われた。満席となった805号法廷は、開廷前から緊迫した空気に包まれた。午前10時32分、開廷。裁判長が証拠類の採否を告げた後、植村氏に証言台で宣誓をするように促し、尋問が始まった。尋問の前半は植村氏、後半は櫻井氏。自身の弁護団に答える主尋問、相手側からの質問に答える反対尋問という順で行われ、重要な争点についての考えが明らかにされた。この中で、櫻井氏のこれまでの言説には重大な誤りや虚偽があることがはっきりした。

植村氏は、1991年当時の記事執筆の経緯と、捏造決めつけ攻撃による被害の実態を詳しく説明した。質問は植村弁護団若手の成田悠葵、桝井妙子両弁護士が行った。主尋問は淡々と進み、予定の1時間で終わって昼休みに入った。

午後1時再開。植村氏への反対尋問が始まった。質問したのは、浅倉隆顕(ダイヤモンド社)、安田修(ワック)、野中信敬(同)、林いづみ(櫻井氏代理人)、高池勝彦(同)の5弁護士。尋問は1時間40分にわたった。質問が集中したのは、植村氏が記事の前文で「挺身隊」「連行」という用語を使ったこと、また、本文でキーセン学校の経歴を書かなかったことについてだった。このほかに、記事執筆の開始・終了時間や、慰安婦関連書籍の読書歴、関連記事のスクラップの仕方など、争点とは直接関連のない質問も繰り返された。

植村氏は終始ていねいに答えたが、「吉田証言」についてのやりとりで、怒りを爆発させる場面もあった。
朝日新聞社は1997年に「吉田清治証言」(済州島で「慰安婦」を狩り出したとの証言)について調査チームを作り、検証作業を行った。当時ソウル特派員だった植村氏もチームに加わり、済州島での調査結果メモを提出した。安田弁護士はそのメモについて、2014年に朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会の報告書は「あなたの調査はずさん、という表現をしている」と言った。ところが同報告書には植村メモについて「徹底的な調査ではなかったようである」と書かれているものの、「ずさん」という表現は一切ない。
植村氏は、「名誉棄損裁判の法廷で名誉棄損発言をするのですか」と激しく抗議した。安田弁護士は植村氏の剣幕に圧されて「怒らないで下さい、謝ります」と述べ、そのまま尋問を終えてしまった。廷内のあちこちから失笑と溜息が聞こえてきた。

主任弁護人格の高池弁護士はこれまでの弁論ではほとんど発言しなかったが、今回は質問に立った。しかし、慰安婦問題や植村氏の記事について深く踏み込んだ質問はなかった。意外だったのは、植村氏が朝日新聞を早期退職して大学教授を志した理由や、植村氏が東京と札幌で提訴したことなど、訴訟の基本的な情報についての質問だった。植村氏が、自由な立場で研究と著作活動ができる場として大学教授の道を選んだこと、バッシング当時も現在も札幌市の住民であることを伝えると、高池弁護士は怪訝な表情を浮かべた。初めて知った、という表情に見えた。

植村氏の反対尋問が終わった後、岡山忠広裁判長とふたりの陪席裁判官から、植村記事の「(女子挺身隊の)名で」「連行」の意味、韓国内での「挺身隊」という表現や吉田証言の韓国内での影響などについて、質問があった。植村氏の尋問は午後2時50分に終わった。

 

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主尋問での「挺身隊」の記述についての成田悠葵弁護士と植村氏のやり取りは次の通り。

 

 成田 記事Aについてお聞きします。植村さんは、何の取材を基にこの記事を書きましたか。

 植村 これは、先ほども言いましたが、91年8月9日の尹貞玉さんの自宅での取材、そして、当日の8月10日の挺対協の事務所及びそのテープの内容、それから、もう1つは、その前に2年間私が取材していた、そういうふうな知見、そういうのを含めて、この記事を書きました。

 成田 この記事の中には、かぎ括弧で括っている部分と地の文がありますが、かぎ括弧についてお聞きしますが、新聞記事では一般的に、かぎ括弧はどのような場合に使うんですか。

 植村 通常ですね、まず、取材した相手のお話、コメントを伝える場合、生の声で伝える場合に、かぎ括弧を使います。それから、ある言葉を強調するときにもかぎ括弧を使います。また、いわゆるというような意味でもかぎ括弧を使います。

 成田 地の文は、どのようにして書かれた部分ですか。

 植村 地の文というのは、私が取材した、この場合は尹貞玉先生、あるいはテープを聞き取った中で私が整理して書いた部分であります。

 成田 記事の中の「【ソウル10日=植村隆】」から始まるリードの中に、「『女子挺(てい)身隊』」という記述がありますが、これは先ほど説明されたかぎ括弧の使い方のうち、どの使い方に当たりますか。

 植村 このかぎ括弧は、韓国でいわゆる女子挺身隊と言われているところの元朝鮮人従軍慰安婦ということで、いわゆるというような意味で使いました。

 成田 リードの中の「日中戦争や第二次大戦の際、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、『韓国挺身隊問題対策協議会』(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。」という部分がありますが、ここについては何の取材を基に書いた部分ですか。

 植村 これは、もちろん先ほど言いました3つの取材ですが、基本的には尹先生の聞き取り、それから、テープの内容は矛盾がないというようなことから書きました。

 成田 「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人」という部分では、なぜ、「『女子挺(てい)身隊』の名で」と書いたんでしょうか。

 植村 韓国では、挺身隊とか女子挺身隊を慰安婦の意味で使っておりました。韓国語ではチョンシンデというんでうけれども、そういうような意味で、韓国では女子挺身隊と言われているところの従軍慰安婦の人の話だという、そういう意味で書きました。

 成田 ほかに、ここで女子挺身隊と書いた理由はありませんか。

 植村 これは、聞き取りをしている団体が、前文にもありますが、韓国挺身隊問題対策協議会という、ここに挺身隊がありますね、これは慰安婦の意味であります。それkら、この記事の最後の段落の1つ手前ですかね、最後から2つ目の段落に「挺身隊犠牲者申告電話」というのが出てきます。それから、最後の段落にも「挺身隊問題」というふうに、挺身隊という言葉が出てきます。それから、最期の段落にも「挺身隊問題」というふううに、挺身隊という言葉が出てきます。これはいわゆる日本語で言うところの慰安婦であります。だから、定義付けのために、まず、リード部分で、読者に挺身隊あるいは女子挺身隊と言われているところの慰安婦問題の記事であるんだよと言うことを示すために、こういうふうな表記を取ったわけです。

 成田 甲4号証の記事を書いた91年当時の植村さんの認識として、戦時中の制度として勤労挺身隊というものがあったことはご存じでしたか。

 植村 はい、知っておりました。

 成田 当時の植村さんの認識として、この記事に出てくる女子挺身隊と、制度としての勤労挺身隊は、どのような関係にあるものとして整理されてましたか。

 植村 挺身隊は慰安婦の意味で理解してまして、勤労挺身隊は韓国語ではクンロウ・チョンシンデというんですけれども、この場合も、記事では同じものではないという意味で使っております。

 成田 テープの中で、女性は自分のことを挺身隊あるいは女子挺身隊と言っていましたか。

 植村 テープの中でそういうふうに言ってたかどうか、今そのテープの内容がはっきり記憶にありません。しかし、前日の尹貞玉先生の聞き取りから、この女性が、自分は挺身隊だった、女子挺身隊だったということで、そもそも挺対協に名のり出てきたということを認識しておりますし、当日も、チョンシンデ・ハルモニ、挺身隊のおばあさんの話を取材に来ましたということで確認をスタッフにも取っておりますので、そういうふううに言っていたというふうに考えられます。

 成田 先ほど読み上げたリードの部分に「連行され、」という言葉が書いてありますが、ここで、なぜ連行という言葉を使ったんですか。

 植村 この本文のほうには「だまされて慰安婦にされた。」というふううに書きましたけれども、まず、人間をどこかに連れていくときには、だまされてその行動が起こされるわけですけれども、連れていかれた先で、この記事Aの本文の4段目を見ていただくと、「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけていた」というような証言がありました。つまり、だまされて連れていかれたんだけど、意に反して慰安婦にさせられて、監禁されて、逃げ出したいと思ったけど逃げ出せなかった、そして、繰り返し繰り返し日本軍人にレイプを受けた状況ですよね、こういうふうな一連の流れを、私は連行というふうに表現しました。それ以外の表現は、私は当時思い浮かびませんでした。

 成田 甲4号証の記事Aについて、この女性が親に売られた女性でもあるにもかかわらず、この記事にはそういった経歴が書かれていないということで批判されていますが、この点はなぜ書かれていないんでしょうか。

 植村 そういうことは聞いていないからですね。テープでも、尹貞玉先生からも。書きませんでした。

(植村本人調書8~12ページ)