判決を批判する 東京訴訟 判決批判
地裁判決について
◆判例基準を逸脱し法理を捻じ曲げる判決(神原元)
◆記者会見と報告集会での発言
◆控訴理由書が指摘する原判決の誤り
高裁判決について
◆ついに集団的狂気に陥った裁判所(穂積剛)
◆連敗だが高裁でも「人身売買説は認定されなかった(佐藤和雄)
◆過去を否定する者には寛大な判決だ(植村隆)
東京地裁判決 判例基準を逸脱し法理を捻じ曲げる判決 |
■解説 神原元(東京弁護団事務局長)
東京地裁の判決は、西岡氏の記載が①原告が、金学順氏のキーセン一に身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事に記載しなかった、②原告が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いた、③原告が、意図的に、金学順氏が女子挺身隊として日本軍によって強制連行されたとの、事実と異なる記事を書いた、との三つの事実を摘示したものであることを認め、これにより植村氏の名誉が毀損されたことを認めた。ところが、判決は、①、②については「推論として一定の合理性がある」などとして「真実相当性」(事実を真実と信じたことについて相当な理由があること)を認め、③については事実の真実性が立証されたとして、いずれも被告らの不法行為を免責した。
しかし、判決は、西岡氏が上記①、②の事実を真実であると信じたことについて説得的な根拠を示していない。とりわけ「意図的に事実と異なる記事を書いた」という植村氏の「故意」を裏付ける証拠はひとつもない。
「真実相当性」により免責を認めるためには、その報道された事実を基礎づける確実な根拠・資料が必要であるというのが確立した判例であり、「推論として一定の合理性がある」などとして不法行為を免責する例はない。この判決は、従来の判例基準から大きく逸脱したものであり、判例法理をねじ曲げるものである。
そもそも金学順氏が妓生学校にいたとの事実は金氏が「慰安婦」制度の被害者であることを否定するものでもない。植村氏が妓生の件に触れなかったのはむしろ当たり前のことにすぎない。この当たり前のところを「握造」と攻撃するところに「慰安婦」問題否定派の根深い女性差別が露呈している(「週刊金曜日」2014年7月4日号、能川元一氏)。判決はこの女性差別の論理となんら異ならない。
③について、判決は「意図的に、事実と異なる記事を書いた」との事実の真実性が立証されたというが、植村氏の記事には「だまされて慰安婦にされた」との記載がある。植村氏の当時の認識がそうだったからだ。植村氏は自己の認識どおりの記事を書いており、「意図的に、事実と異なる記事を書いた」などということはありえない。また、金学順氏は自ら「私は挺身隊だった」と述べており、当初はだまされて中国に行ったが、最終的には日本軍の強制連行によって「慰安婦」にされたと述べていた。
だまされて「慰安婦」にされたことと強制連行の被害者であることはなんら矛盾するものではない。裁判所の認定は真実をねじ曲げ「慰安婦」制度の被害者の尊厳をも踏みにじるものである。
判決には[従軍慰安婦]の説明として「公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性」との記述がある。「慰安婦」制度が被害者の存在する強制売春であることをねじ曲げた、ゆがんだ歴史観に立つ判決である。
=「週刊金曜日」2019年7月11日号より部分収録
東京地裁判決 記者会見と報告集会での発言 |
■神原元弁護士 「従来の判例を逸脱する暴挙だ」
判決は西岡と文藝春秋の名誉棄損は認めたが、相当性と真実性によって免責した。これは名誉棄損の判断基準を逸脱し、さらに歴史の真実を歪めてしまった言語道断の不当判決だ。判決によると、西岡の名誉毀損表現は次の3つの事実を摘示したとされる。
①原告が、金学順のキーセンに身売りされたとの経歴を認識しながらあえて記事にしなかったという意味において、意図的に事実と異なる記事を書いた
②原告が、義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いた
③原告が、意図的に、金学順が女子挺身隊として日本軍によって戦場に強制連行されたとの、事実と異なる事を書いた
判決は、このうち①②は相当性を認め、③は真実性まで認めた。①と②の相当性の理由は、西岡の推論に一定の合理性があるというのだが、それ以上の根拠は示していない。とくに②についてはひどい。私たちは、植村さんは義母の裁判を有利にするために記事を書いたのではない、と反証をたくさん提出したが、判決はそれらを一切無視した。
相手を捏造などと激しく非難した場合に相当性を認めるには、それを裏付ける取材とそこで得られた確実な資料が必要だというのがこれまでの裁判例だ。この判決が、西岡の勝手な決めつけを認めたことは、これまでの判例を逸脱した暴挙に近いものだろう。
相当性というのは、(真実かどうかはわからないが)真実と信ずるに足る理由があるということ。札幌判決はすべての点で相当性を認めて櫻井を免責した。ところがこの判決は③で相当性ではなく、真実性を認めている。これは札幌判決よりもっと悪い。真実性は、それが真実だということ。重要な免責条件だ。判決は、「挺身隊の名で連行」は「強制連行を意味する」と決めつけ、植村さんは「だまされて」と認識があったのに「強制連行」との印象を与える記事を書いたのだから、③には真実性がある、というのだ。しかし、金学順さんはだまされて中国に行き、そこで慰安婦にさせられた、と繰り返し証言している。だから、植村さんが書いた「だまされて」と、「強制連行」は矛盾せず、両立する。
「植村さんが読者をあざむくために強制連行でないのに強制連行だと書いた」といわんばかりの認定は、真実を捻じ曲げるものだ。同時に、慰安婦制度の被害者の尊厳をも傷つけるのものだ。安倍政権の慰安婦問題への姿勢を忖度したような不当判決であり、控訴し、全力でたたかう。
■穂積剛弁護士 「推論に合理性認める根拠示さず」
名誉毀損の訴訟構造というのは、最高裁のこれまでの判決の積み重ねでほぼ確立している。いままでの判例をきちんと解釈して適用すれば間違いようがないのだ。だから、本件も勝てると思っていたし、みなさんも、法律論の難しいところはわからなくても、おかしいと確信を持っていると思う。法律論としてもできあがっている訴訟の結論を正反対にしてしまうのだから、この判決はおかしいに決まっている。
判決は西岡の表現について、「被告西岡が、原告が義母の裁判を有利にするために意図的に事実と異なる記事を書いたことについて、推論として一定の合理性があるものと認められる」と言っている。しかし、「一定の合理性」を認める根拠は示していない。ひとつのものごとの解釈について、いろいろな推論があることはわかるが、A、B、C、Dという推論があって、B、C、Dは検討せずにAだけは認める、というのであれば、どんな表現をしても相当性があり、セーフになるではないか。
これほどにメチャクチャな判決が通れば、この世の中に名誉毀損は成立しなくなる。この異常性をぜひ認識してもらいたい。こんな判決を維持していくのは日本の司法の名折れだ。絶対に許さないという決意を持って控訴し、やっていく。
■小野寺信勝弁護士 「札幌判決の劣化コピーだ」
ある程度覚悟はしていたが、結論もさることながら、想像以上に内容がひどい。札幌判決の劣化コピーだ。札幌判決の悪いところばかりを抽出したような内容だ。
じつは裁判所は基本的なこと、イロハのイがわかっていないのではないか、という危機感を私たちは持っている。法曹ならだれでも知っている名誉毀損裁判の判例の枠組みを、もしかしたら裁判官はわかっていないのではないか。私たちが最初から主張しなければ裁判所は分からないのではないか、という危機感だ。
■植村隆氏 「巨大な敵はもう捏造とは言わなくなった」
私が闘っている相手は一個人ではなく巨大な敵だ。ちょっとやそっとでは勝てない敵だが、これまでの成果はある。もう捏造とは言わなくなった、バッシングがとまった。塗炭の苦しみの中で、たくさんの人との出会いがあり、その恵みの中で希望も感じてきた。私の夢は崩されていない。高裁では逆転をしたい。これからも闘いを続け、歩み続けたい。
東京地裁判決 控訴理由書が指摘する原判決の誤り |
控訴理由書全文はこちら
■「控訴理由書」p12~15より
1 摘示事実1のキーセン経歴に関する推論に「一定の合理性」を認め免責した誤り
原審判決は、上記摘示事実1について、ハンギョレ新聞や宝石、平成3年訴訟の訴状を根拠に、「推論として一定の合理性がある」として相当性の抗弁を認め免責した。
しかし、相当性の抗弁が認められるためには摘示事実が真実であると信じたことについて「確実な資料、根拠」が必要である(最高裁昭和44年6月25日判決刑集23巻7号975頁、最高裁平成11年10月26日民集53巻7号1313頁等)。したがって、「確実な資料、根拠」がなく「推論として一定の合理性がある」として相当性の抗弁を認めた原判決は明白な判例違反である。
そして、金学順が慰安婦にされた本当の理由(キーセンへの身売り)を控訴人が認識していて、この本当の理由を誤魔化すために、キーセンの身売りによって金学順が慰安婦にさせられたとの事実を記事に書かず、逆に「地区の仕事をしている人」を持ち出したり、あるいは何も書かなかったりすることによって、控訴人が意図的に事実と異なる記事を書いた等といえる「確実な根拠、資料」はない。
仮に裁判所認定摘示事実1を前提とした場合でも、記事Aを控訴人が書いた当時、控訴人が「キーセンに身売りされたとの経歴」を認識していたと言える「確実な資料、根拠」はないし、控訴人が「キーセンに身売りされたとの経歴」を認識していた場合に、あえてこれを控訴人が記事にしなかった(原判決40頁②)として、そのことの何が問題なのか不明であり、そのことが何故に「金学順が日本軍に強制連行されたとの印象を与えるため」だった(原判決40頁③)と認定できるのか、そのことを立証しうる「確実な資料、根拠」はどこにも存在していない。
かえって、新証拠の証言テープによれば、控訴人が「妓生に身売りされた」事実を記事に記載しなかったのは、金学順氏が控訴人の前でその旨の証言しなかったから、すなわち、証言テープにその旨の証言がなかったから、という単純な理由に過ぎないことが明らかであった。
よって、裁判所認定事実1について免責を認めた原判決は誤りである。
2 摘示事実2の執筆動機に関する推論に「一定の合理性」を認め免責した誤り
原判決は裁判所認定事実2について「推論として一定の合理性がある」等として免責を認めた。これも、相当性の認定について「確実な根拠、資料」を要求する最高裁判例に違反している。
そして、記事A執筆時点では控訴人は金学順氏の妓生の経歴について知らないし、この段階では金学順氏は提訴する予定もなかった。記事Bは大阪社会面のみに企画物の一つとして掲載されたもので、この記事が義母の裁判を有利にする動機で執筆されたという「確実な根拠、資料」は全くない。
よって、執筆動機に関する摘示事実について免責を認めた原判決は誤りである。
3 摘示事実3の「意図的に記事を書いた」に関して真実性を認めて免責した誤り
原判決は、控訴人記事A中「女子挺身隊の名で連行され」という記載から同記事を「金学順を日本軍により強制的に戦場に連行された従軍慰安婦として紹介した」記事であると認定した上で、「控訴人が、意図的に、金学順が女子挺身隊として日本軍によって戦場に強制連行されたとの、事実と異なる記事を書いたとの事実」との事実は真実であると認定する。
しかし、前記のとおり、西岡論文C及びDは、いずれも、金学順自身が自分では「女子挺身隊の名で」慰安婦にされたとは述べたことがない、との点を捏造の根拠としているところ、金学順氏自身が自らを「挺身隊だった」とくり返し述べているのであるから、ここでの摘示事実は、「控訴人が、意図的に、金学順が女子挺身隊の名で戦場に連行され慰安婦にされたとの本人が語っていない経歴を記事Aに記述することにより、事実と異なる記事を書いた」事実は真実ではない。
また、裁判所認定摘示事実3を前提としても、控訴人は、従軍慰安婦を一般的に説明する慣用的な表現として『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との表現を使ったに過ぎないし、控訴人は、他紙が「強制連行」との文言を使用する中その文言の使用を避け、かえって「だまされて慰安婦にされた」と書いているのであるから、「意図的に、事実と異なる記事を書いた」との部分の真実性も立証されない。
よって、女子挺身隊という記載に関連した摘示事実について免責を認めた原判決は誤りである。
以上、東京地裁判決 解説と批判
以下、東京高裁判決 解説と批判
東京高裁判決 ついに集団的狂気に陥った裁判所 穂積剛 |
※植村弁護団の穂積剛弁護士は、判決確定後の2020年7月に、同氏が所属する「みどり共同法律事務所」(東京・新宿区)のホームページに論考を寄稿しています。原文はこちら
1. 「裁判所が狂い始めている」
2018年5月のこのコラムで、私は「裁判所が狂い始めている」という記事を書いた。「従軍慰安婦」問題に関する吉見義明教授の名誉毀損訴訟での裁判所の判決内容が、あまりに常軌を逸した狂った内容だったことを指摘して、裁判所が狂気に陥りつつある状況を指摘し、著しい質の低下について問題提起したものだった。
この時点ではまだ、裁判所という組織が全体として狂気に陥ったのか、それとも大半の裁判官がまだ常識的な水準を維持できているのか、断定するところまでは至っていなかった。しかし現状ではついに、裁判所は「集団的狂気」に陥ったものと判断せざるを得なくなった。それは同時に、この国全体が「集団的狂気」に陥りつつあることを意味することとなる。
2. 朝鮮人「従軍慰安婦」金学順に関する1991年8月の記事
この事件は、植村隆名誉毀損訴訟である。
朝日新聞記者だった植村隆は、「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦」「戦後半世紀重い口開く」という記事を、1991年8月11日の朝日新聞大阪本社版社会面に掲載した。これは、朝鮮人「従軍慰安婦」として後に初めて実名で名乗り出ることになる金学順(故人)が、韓国国内で匿名で被害を名乗り出たことについて報道した記事であった。
この記事のリードの部分に、「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」との記述があった。
3. 植村隆に対する異常なバッシング
そしてこの報道の23年も後になって、朝日新聞の「従軍慰安婦」報道について異常なバッシングが繰り広げられる2014年に、「週刊文春」2月6日号で「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との記事が掲載された。そこに、東京基督教大学教授(当時)の西岡力の以下のコメントが掲載されていた。
「植村記者の記事には、『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」
この記事が発売されるや植村に対して大量の非難が湧き上がり、朝日新聞を退職して就職予定だった大学には抗議が殺到して仕事を失い、さらに当時高校生だった植村の娘の写真までネットに晒され、「こいつの父親のせいでどれだけ日本人が苦労したことか。(中略)自殺するまで追い込むしかない」と書き込みされた。植村のもとに送られてきた匿名の手紙には、「『国賊』植村隆の娘である○○(手紙では実名)を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス。」と書かれてあった。
4. 植村隆の訴訟提起
しかし、植村がこの記事で捏造をした事実などない。植村は家族を守り名誉を回復するため、2015年1月に東京地裁で文藝春秋と西岡力を被告として、同年2月に札幌地裁で櫻井よしことワック、新潮社、ダイヤモンド社を被告として、それぞれ名誉毀損による損害賠償請求訴訟を提起した。
なお上記の西岡のコメントについていうと、「このとき名乗り出た女性」すなわち金学順が、「親に身売りされて慰安婦になった」などと述べたことは一度もないし、もちろん「訴状」にも「韓国紙」にもそのような記載はない。
このどちらの訴訟も、これまで積み上げられてきた通常の名誉毀損訴訟の枠組みから考えれば、植村が勝訴するに決まっている事件だった。特に難しい法律論上の問題があるわけではない。名誉毀損訴訟についてはこれまでいくつもの最高裁判決によって基本的構造が構築されてあり、その内容はすでに確定している。この枠組みに沿って判断すれば、どの裁判官が担当したとしても、基本的には結論は同じになるはずだった。 交通事故訴訟で、事故類型によって過失割合がほとんど決まってしまっているのと同じことだ。婚姻費用・養育費の問題で、裁判所当局によって標準算定表が作られ、これにより全国の裁判所で同一水準の婚姻費用・養育費の認定がされているのと同じである。
5. 東京と札幌で相次ぐ敗訴
ところがどういう訳か、これまでのすべての判決で植村は敗訴している。2018年11月9日札幌地裁判決、2019年6月26日東京地裁判決、2020年2月6日札幌高裁判決、そして2020年3月3日東京高裁判決のいずれについても、裁判所は植村隆の請求を棄却した。
その判断内容が、なるほどそういう論理であれば請求棄却もやむを得ない、というような「痛いところを突かれる」判決では全くなかった。実際にはまったく逆で、どれもデタラメきわまりない、読んでいてこちらが恥ずかしくなるレベルの低い判示となっていた。
その低次元ぶりを逐一説明するには字数が足りないので、ここでは最後の東京高裁判決の論旨が自己矛盾を来していることを端的に指摘しておこう。
6. 名誉毀損訴訟の「真実性」と「相当性」
名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損して被害者の社会的評価が低下させられた場合であっても、その記載した内容が「真実」すなわち本当であったことを被告が証明できるか(真実性)、真実性の証明ができなかった場合でも、名誉毀損の当時には真実だったと思い込んだとしてもやむを得ないだけの相当の根拠があったと言える(相当性)なら、違法性あるいは故意過失がないとして、不法行為の成立が否定される。
簡単に言えば、植村の捏造が「本当」だったと文春と西岡が立証できたなら、文春と西岡は責任を問われない。仮に本当でなかったとしても、「週刊文春」の発売時点で文春と西岡の側に、捏造が本当だったと言えるだけの充分な根拠があったなら、やはり文春と西岡の責任は否定される。
実際には「真実性」を立証できない、すなわち記事が本当だったと証明できないのに、「相当性」があれば責任が否定されるのは、「表現の自由」に対する配慮があるからだ。「真実性」を証明できなくても、記事を書いた時点で充分な根拠があったと言えるのなら、その責任を問わない、とすることで自由な表現活動を守ろうとしたのである。
7. 「真実性」の否定と「相当性」による救済
この構造のもとで東京高裁判決は、週刊文春での上記の西岡のコメントについて、その「真実性」を否定した。
この西岡コメントについては、金学順が「親に身売りされて慰安婦(裁判所の認定は「キーセン」)になった」と植村は実際には知っていたのに、そのことを記事に書くと「権力による強制連行」という自分の前提にとって都合が悪いので、あえて記事に書かなかったと言えるかどうかとの点が、「捏造」の対象として問題にされていた。
この部分について裁判所は「真実」ではないとした。つまり、植村が「捏造」した事実はないと判示したのだ。
けれども裁判所は、西岡と文春について「相当性」を認めて免責した。つまり、文春記事が出された時点では、西岡と文春が「捏造」だと信じてしまったとしても、仕方がないと言えるだけの根拠があると判示したのである。
8. 判断のわかれることが正当化される場合
さて、裁判所は「捏造の事実はない」と判示したのに、西岡と文春が捏造だと信じたとしても仕方がないという。どうして判断がわかれたのか。
通常、「真実性」が否定されたのに「相当性」で救済されるのは、その前提となる根拠が違っている場合だ。
例えば典型例としては、一審判決において有罪と判決が出された被告人について、有罪を前提に記事を書いたところ、その後の控訴審で逆転無罪となり、それが確定したというケースがある。記事を書いた段階では一審の有罪判決しかなかったのだから、それを根拠に被告人を犯人だとする記事を書いたとしても、それは仕方のないことだろう。けれども名誉毀損訴訟の判決の時点では、無罪判決がでていたので「前提が違った」のである。
だからこの場合には、「真実性」は否定されたが「相当性」は肯定され、新聞社は免責されることになる。実際に最高裁の判例にこうした事案があった。
9. まったく同じ資料に基づく矛盾した判断
しかしこの東京高裁のケースは、まったく違う。この判決は、まったく同じ資料を根拠として、裁判所としては「真実性」を否定し、文春と西岡に対しては「相当性」を認めて救済しているのだ。
ここで具体的な根拠として挙げられている資料は、①1991年8月15日付ハンギョレ新聞記事、②1991年12月に金学順が日本政府を訴えた訴状、③「月刊宝石」1992年4月号の臼杵敬子記事、の3点である。これらの資料があったことから、捏造があったと西岡と文春が信じたとしてもやむを得なかったと裁判所は判示したのだが、それにも関わらず裁判所自身は、まったく同じこれらの資料をもとにしても、「捏造」とは認定できないと判示しているのだ。
これはあまりにメチャクチャだろう。裁判所自身が「捏造とは認められない」と判示しているのに、同じ資料を前提として、どうして文春と西岡に対してだけ「捏造と信じたとしても仕方がない」なんて判断ができるのか。この判決は何の説明も示さず、文春と西岡に対してだけ、自分たちよりもずっと緩い基準で「相当性」を認定したのである。
文春と西岡をどうしても救済したかったから、こんな論理矛盾を来しまくった判示をするしかなかった、という以外に評価のしようがあるだろうか。裁判所は論理的整合性ではなく、どうしても植村を勝たせたくなかったから無理やりこんなデタラメな判断をしたのだ。植村が、「従軍慰安婦」の被害を訴える記事を書いたからである。
10. 狂気に陥った司法による「恐怖」
こんな小学生でもわかるような自己矛盾を露呈させてまで、裁判所は政治的好悪だけで結論を出して判決を出した。
しかもこんなことが、東京と札幌の地裁と高裁で連続して行われたのである。これが裁判所の「集団的狂気」ではなくて、何だといえるのだろうか。
こんな狂った判決を裁判所が出した理由は、この国全体があたかも「従軍慰安婦問題は韓国の捏造、言いがかり」であるかのような狂った言説に冒されてきているからだ。それこそ、国家全体が「集団的狂気」に陥ってきていることを如実に意味している。
しかし本来の司法権の役割とは、「弱者の正当な権利の救済」のはずだ。国会や行政は「多数決の論理」にしたがって動いていくが、それだけでは弱者の正当な権利を救済できない。だからこそ、多数派から構成される世論に逆らってでも、事実と論理の整合性に依拠して毅然と判断を示すことが本来の司法の職責のはずなのである。
そのように機能すべき司法機関が、逆に世論と一緒に集団として狂気の沙汰に陥っている。これは国家として極めて深刻な事態である。
これほどまでに頭のおかしいことが公然と行われていて、どうして世論が大騒ぎにならないのか、不思議で仕方がない。
残念ながらこの国の裁判所が、事実と論理に基づき公正な判断を下すなどと、夢にも期待しない方がいい。
裁判所は集団的狂気に陥っており、質的にも大幅に下落して、正当な権利の救済などとてもできない。
そういう制度であることを前提として、この裁判という手続を利用して行くしかないだろう。
法に携わる弁護士という仕事に従事している身として実に悲しく、そして心底から恐怖を感じる事態である。
(敬称略)
東京高裁判決 連敗だが、高裁でも「人身売買」説は認定されなかった |
■解説 佐藤和雄(ジャーナリスト)
焦点は、西岡氏が植村氏の報道について述べてきた3つの指摘が「真実であるかどうか」もしくは「西岡氏が真実であると信じた相当の理由があるかどうか」だった。
3つとは①金さんがキーセンに身売りされたことを知りながら、権力による強制連行との前提にとって都合が悪いためあえて記事にしなかった、②記事を書いたのは太平洋戦争犠牲者遺族会の幹部である義母の裁判を有利にするためだった、③金さんが女子挺身隊の名で戦場に強制連行されたという、事実とは異なる記事をあえて書いた、というもの。真実であったり、真実と信じた相当の理由があったりすれば、西岡氏は免責される。
高裁判決は①と②については地裁判決より踏み込み、真実とは認めなかった。一方、西岡氏が当時の韓国紙報道、訴状、月刊誌の論文を読み、「あえて記事にしなかったと考えたことは推論として相応の合理性がある」と述べた。
③については植村氏が記事の本文で「『だまされて慰安婦にさせられた』と書いており、日本軍による強制連行ではないことを知っていた」と指摘。「強制連行したと報道するのとしないのでは、報道の意味内容やその位置付けが変わりうることを十分に認識していた」という地裁判決を踏襲し、「意図的に事実と異なる記事を書いたと認められ、真実性の証明がある」と結論した。
櫻井よしこ氏を同様の理由で訴えた札幌地裁と同高裁。西岡氏を訴えた東京地裁と同高裁。植村氏は「4連敗」だ。札幌はすでに最高裁に上告し、東京でもその意向という。
ところで、この裁判が「慰安婦」をめぐる言説に、何らの意味ももたらさなかったかと言えば、そうではない。
西岡氏と襖井氏の主張のポイントは「金学順さんは日本軍による強制連行ではなく、人身売買によって『慰安婦』になった」というもの。しかし東京高裁判決は、西岡氏らが根拠にしている資料だけでも「人身売買により慰安婦にさせられたことを示唆するものもあるが、養父らから力ずくで引き離されたというものもあり必ずしも一致していない」と述べ、人身売買論を肯定してはいない。
勝訴が続く西岡氏と櫻井氏だが、「金学順さんが人身売買による慰安婦」という、不確かな主張を、今後は声高に喧伝することはできなくなるだろう。
=「週刊金曜日」2020年3月13日号
東京高裁判決 過去を否定する者には寛大な判決だ |
植村氏は、判決後、裁判所前の路上に集まった支援関係者に向かって、次のように訴えた。
■植村氏 「慰安婦問題をなかったことにする動き」
主文を読み上げただけで裁判長は逃げました。金学順さんの話を聞いたテープが見つかったので、それを全部起こして裁判所に提出した。ところが裁判長は「全部録音されているのかわからない」と言って、最大の証拠を正当に評価しなかった。
このような判決が認められたら、ジャーナリズムの危機だ。私だけの問題ではない。金学順さんの証言を伝えただけで、なぜ私がここまで言われるのか。ほかのだれも攻撃されないのに、ずっと攻撃されたのは、慰安婦をなきものにしようという大きな狙いがあるからだ。
裁判所も、慰安婦の証言を伝える者には厳しい。(慰安婦問題を)なきものにしようという人をほったらかして、罪はないという。2014年の文春の記事で、激しい攻撃が大学や私に及んだ。バッシングについては、被告側の喜田村弁護士も当時批判していた。私は救済を求めたが、過去に向き合う者には厳しく、否定する者には寛大な判決が下された。しかし最高裁が残っている。上告して闘いたい。
凡例▼人名、企業・組織・団体名はすべて原文の通り実名としている▼敬称は一部で省略した▼PDF文書で個人の住所、年齢がわかる個所はマスキング処理をした▼引用文書の書式は編集の都合上、変更してある▼年号は西暦、数字は洋数字を原則としている▼重要な記事はPARTをまたいであえて重複収録している▼引用文書以外の記事は「植村裁判を支える市民の会ブログ」を基にしている
updated: 2021年8月25日
updated: 2021年10月18日