updated 2021.11.23

updated 2021.12.11

 

しんざい・たかしさん

2021年11月16日死去、92歳。札幌市厚別区在住、元高校教員、「負けるな!北星の会」(マケルナ会)呼びかけ人。2014年に北星学園と植村隆さんへのバッシングが起きた時から市民グループの先頭に立ち、裁判が終結するまで植村さんを支え続けた。

植村さんが札幌訴訟の一審判決で敗訴した日の夜開かれた報告集会で、新西さんは登壇して植村さんを励ました。植村さんが、「新西さんは北海道の僕のおやじ。新西さんの書斎は僕の応接間代わりだった」と紹介すると、新西さんは「子どもがいない私は、喜んで一種の疑似親子を演じてきたが、今日から本当の親子になったし孫もできた。相手は安倍政権や右翼勢力という妖怪をバックにした櫻井よしこだ。これからも一緒に闘いを広げていきましょう」と語りかけた(2018年11月9日、写真右が新西さん)

 

追悼 新西孝司さん

 

高橋 一抵抗と闘いの証人

植村隆さんを支援する「負けるな北星!の会(マケルナ会)」の集会で初めてお目にかかり、いくつかの場でお話しする機会を与えられたことを、今あらためて感謝をもって思い起こしています。特に、終始マケルナ会の活動を支援してくださった玖村敦彦さん(東京大学名誉教授)の琴似のご自宅をいっしょにお訪ねした際、新西さんは私に、玖村先生のご著書である『かえりみる日本近代史とその負の遺産 原爆を体験した戦中派からの《遺言》』(寿郎社、2015年)を読んだ感想を玖村先生にぜひとも手紙で書き送りなさい」と繰り返し語ってくださいました。歴史の証人たる教師として、年下の私への宿題を与えてくださったのだと思っています。

背筋を伸ばして、終始穏やかに、しかし毅然として発言なさっていたお姿を思い浮かべます。新西さんのお働きは、札幌における『北星学園大学バッシング 市民はかく闘った』に記された闘いの記録と共に、歴史を歪めようとする一連の勢力への札幌での抵抗と闘いの証人として、必ずや後世に遺る種を撒かれたと信じています。

心からの哀悼と感謝を申し上げ、ご遺族の皆様の上に、天来の平安と慰めを切に祈り上げております。(学校法人北星学園・元理事)

 

原島正衛共に闘った「同志」

新西さんには北星脅迫事件では大変お世話になり、共に闘った「同志」の死にショックと哀悼の気持ちでいっぱいです。先頭に立って地域住民の組織化に力を注いで頂いた事を思い出しています。(北星学園大学教授)

本庄十喜運動史に名を残す

最近のご様子、気になっておりましたので大変ショックです。今年は、李鶴来さん、俵義文さん、そして新西さん…と、個人的に敬愛し運動史に名を残されるような偉大な方々が次々に亡くなる、そんな忘れられない年となってしまいました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

(北海道教育大学准教授、植村裁判を支える市民の会共同代表)

 

植村 隆最強の支援者だった

札幌の元高校教師、新西孝司さんが、亡くなられた。悲しくてならない。

新西先生は、植村バッシングの最初の頃から、私を励まし、応援してくれた最強の支援者であった。そして、私にとっては札幌のおやじだった。

私は最強の支援者を失い、そして、おやじも失ったのだ。

深い深い喪失感に襲われている。

今から10年前の2011年、当時、朝日新聞記者だった私は取材で新西先生に出会った。その瞬間から、心が通じ、仲良くなった。そして、新西先生はわたしの札幌のおやじとなった。

私が幼児の時、母が離婚したので、私は母一人子一人の母子家庭で育った。私が高校生の時に母親は再婚した。母は連れ合いを亡くした後、札幌で私と一緒に暮らしていた。そんな頃に、私は新西先生と会った。

私が北星学園大学の非常勤講師を兼務し、韓国からの留学生を教えていた時、毎学期私は蕎麦打ち体験授業をしていた。そのゲスト講師はおやじさんだった。おやじさんは、蕎麦打ちが得意だった。明るいおやじさんは留学生からも慕われ、とても楽しい授業だった。

私が神戸の大学の専任教授に採用された時は、とても喜んでくれた。しかし、2014年からの植村バッシングで、そのポストは失われた。おやじさんはとても残念がったけれど、持ち前の闘志のスイッチが入り、すぐに私の応援団長となった。

高齢にもかかわらず、活発に動き、植村バッシングの不当性をたくさんの人に訴えてくれた。

日本のマスコミが植村バッシングを報じない中、ジャーナリストの青木理さん、ニューヨークタイムズや朝鮮日報の東京特派員たち、北海道新聞の徃住嘉文、長谷川綾両記者らが、私の話を聞いてくれて、大きく報じてくれた。

そうした取材を受けた場所はすべておやじさんの書斎だった。おやじさんの書斎から、植村バッシングへの反撃が始まったのである。

当時の私は激しいバッシングにビビっており、一人で取材を受ける「勇気」がなかったのだ。

だから、おやじさんに見守ってもらったのだ。

「自分が間違ってないと思ったら、ひるむな」。幾度か、こうした励ましを受けた。おやじさん自身、若い頃に不当逮捕され、裁判で無罪を勝ち取った経験があるので、その言葉には迫力があった。

支援の輪は広がり、私の心もどんどん強くなっていった。

今回の入院の前に、おやじさんから電話をいただいた。

「わしの病気のことは心配するな。それより、頑張れよ」と話していた。

それが最後の励ましの言葉となった。

退院したら、おやじさんとゆっくり話をしたいと思っていたが、それもかなわない。

残念でならない。

札幌のおやじさんはあの世に行ってしまわれたけれど、おやじさんの闘志は、二代目の私がしっかりと受け継いでいる。

おやじさんを偲びながら、空に向かって、つぶやいている。

――おやじさん、ありがとう。もう怖いものはないですよ。闘い続けますよ。

(植村裁判原告、「週刊金曜日」発行人)

 

油谷 良清しなやかな挑戦者

新西孝司さんとは短く太いご縁でした。

初めてお目にかかったのは、201412月北大学術交流会館で開かれた「マケルナ会 第2回シンポジウム」で。その後何度か植村隆さんらと一緒にご自宅にお邪魔しました。植村裁判支援の会議で、押しかけタコ焼きパーティーで、大手術成功後の退院祝賀会で。お連れ合いの良子さんは私が卒業した高校の大先輩と知り親近感も倍増しました。ある時、私の父が19458月樺太国境戦闘の当事者だったと告げると、日本と戦争について熱く語っておられたのが強く印象に残っています。もちろん、戦後日本の問題点と野党共闘の展望についても。

その面立ち、明朗闊達で話し好きなお人柄、直球勝負の生き方などから、いつか、樺太戦とシベリア抑留を生き延びた亡父を重ね合わせていました。父は1915年生まれですから、一回りちょっと年下の伯父さんになります。ただし父との決定的な違いが一つあります。それは、新西孝司さんが、第二次大戦中は兵学校を目指した軍国少年でありながら、敗戦後、天皇制と訣別して共産主義に向かったこと。父は死ぬまで「天皇陛下万歳!」でした。若き孝司少年が、テンノーヘイカバンザイ!から、いかにしてマルクス・レーニンに開眼したのか。いつかじっくりお聞きしたいと思っていましたが、いまや叶いません。

お目にかかるたびに熱く語られていた「より良き社会」への道。新西孝司さんはその道を力強く、かつ、とてもしなやかに進んでおられたと思います。そして何事にも前向きに挑戦しておられました。ここ数年でもパソコンを新型に変え、大きな手術を乗り越えられ、がんに対しても最後まで闘い続けられたと聞きました。

こちらの世界ではもうお会いできないのは残念でなりませんが、あちらの世界では、もしかして今ごろ小林多喜二さんらと会って語り合っていらっしゃるのでしょうか。

 「油谷さん、何を夢物語りを云ってるんですか、カカカカッ!」とお笑いになるでしょうか。

いつか再会した時は、尽きぬ話題をとことん語り明かしたいものです。

植村裁判を支える市民の会・会員 2021.12.10記)

 

 

 

 

 

 

新西さんのメッセージ

 

新西さんが呼びかけ人のひとりとなった「負けるな!北星の会」は、活動を終えるにあたって、2016年6月12日に総括シンポジウムを開いた。会場の北大学術交流会館小講堂は160人の出席者で満員となっていた。新西さんは、中野晃一さん(上智大教授)の基調講演と、北星学園大学学長の田村信一さんの報告の後、自身の長いたたかい、植村さんとの出会い、マケルナ会の活動を振り返り、次のように語った。

 

 

きょうはこういうところに来るなんて、2日前までは思ってもみませんでした。山本伸夫さん(編注=このシンポジウムの開催呼びかけ人)からお招きがありまして、説得されて、ああそうか、私にもまだ出番があるのかと出てきたんですが、考えてみれば、この会場も、植村さんとの深いつながりの始まりの場所でもあるんです。

 

65年前、ここは当時、北大で、学生会館という木造の2階建てがありましてね。そこに学生団体がそれぞれたむろして。私は、そこのなかの社会科学研究会、しゃけんで、そこがいろんな学生運動のいわば拠点になっていたんですね。そういう運動のなかで、66年前になりますか、大事件がおこった。これは、日本の大学の歴史においても、まだまだ考えて知らせていかなければならないイールズ事件というんですね。アメリカの占領軍から、当時レッドパージで、国内から共産主義者がどんどん追われ、国会議員も議席をはく奪され、そういう激しい弾圧のなかで、大学のいわば共産党教員を追いだせと。イールズ(編注=GHQ連合国軍総司令部の教育顧問)が各地を回って歩いた。北大にくるっていうんで、私たちはどう迎え撃つかということで、実は、しゃけんのメンバーを中心に、大きな、それこそ教職員、市民を巻き込んだ闘いをやったのがイールズ事件で、今から66年前の5月15、16日の2日間やりました。

 

で、そういう闘いは、今から考えたらよくやったと思うんですが、とうとうイールズの野望は挫折させてですね、終わりました。ただし、そのときに処分者が出まして、5人か6人、退学処分になりました。その退学処分になった方の奥さんが、現在も生きておりまして、北星学園の短大の最初のころの卒業生なんです。そういったような曰く因縁があるんですけれども、そういうところで、会場で私が話をするということ自体が、私にとって思いもしなかった。そういう場なんですね。しかも、ここで植村さんと会ったのも、この会館のすぐとなりのレストランがあって、そこで植村さんと私は、イールズ事件の記念集会を60年たった時、いまから6年前にやったんです。

 

多数の人が、むこうの会場で満杯になって集まりました。その集会の流れで、植村さんが私たちを取材ということでこられて。どういうわけか、植村さんが、これは匂いでしょうか、なんでしょうか。私にまとわりついて離れなくなりました(会場笑)。そのうちに、私を親父なんて言い出して。自分の家に連れて行ったり、韓国人の学生を我が家に連れて来て、私はそばを打っているもんで、そば打ち講習をやって、日本文化研究をやって、彼の授業の穴埋めまでさせられて。まあそういったような感じのつながりで(会場笑)、3年間は非常に楽しかったですね。

 

私も北星大学に行って、初めて若い、しかも北大の学生とは違って、非常に自由で闊達で伸びやかなんです。そういう北星の学生たちと話ができたんでね、これは私の第二の青春ということで、植村さんに熱をいれて、北星大学、しかも家の近くの地元の大学ですから。

そこへ実は、2年前の3月5日、彼が神戸の大学へいくというので、我が家で送別を祝おうというんで、待っていた。そうしたら女性の記者をつれてきましてね、「いやー、先生、あれ、流れた」と座り込んで、まあ、やけ食いではないけど、用意した食事をとった。「で、どうするんだ」と。「俺は闘うよ」と。ああ、いい。私は闘うんだと。これが私がこの問題にかかわる出発点といっていいと思うんです。

私は「植村さん、かえって北星でよかったじゃないか」と。僕は北星にこれからも行けると思ったもんですからね、喜んだんです。そうしたら、「先生、うちのかーちゃんだけが喜んでいる」と。僕は、「いいんじゃないか。おかあちゃん、神戸にいったら、テロにあうかもしれないよ。よかったじゃないか。こっちで一緒にやろうよ」と。それから彼の招きで、しばしば北星にお邪魔をした。

 

しかし、やがて、ものすごいバッシングが起こりました。バッシングが起きた時に、まずひとつは、植村さんがこのままでは追い出されるという事実を知って、彼はかなりショックだったろうと思います。ですけども、彼の、坂本龍馬ばりの、平気な顔をしながらも耐え抜いていく姿に、これはなんとかしなければならんと。そう思っていましたら、北星のなかで非常に大事なんですが、原島先生はきょうここにいらっしゃると思いますが、ある集まりで原島先生にお会いして、原島先生から攻撃の実態と、それに対する反撃を周辺からやってくれということをお聞きしました。

それからもう一つはですね、後宮さんという、北星の理事をやっておられる北光教会の牧師が町内に住んでおりまして、私とつきあいがあって、植村さんと一緒に支援をお願いしにいったときに、「北星大学には平和宣言というものがあるんだよ」と。私ははじめてそれを聞きました。それを読んだ。感動しました。そのときに。日本の憲法の精神と、さらにもっと徹底しているのは、戦前の日本の侵略に対する反省もうたっているんですね。こんなもの、北大には、昔の「都の弥生」はあるけれども、こういうのは聞いたことがないということで、この大学は地域の宝だということで、この運動を立ち上げることを決心した。

 

どうやるか。さまざまな、私は歴史を勉強している仲間がおりましたから、そういう方たちとも協力して、署名活動を始めようということをですね。わりと、格調の高い呼びかけ文をつくりましてね。きのうも読んでみたら、ああ、自分ながらこういう文章をかけるんだなと自画自賛したが。実は植村さんや、長谷川さん、新聞記者で文筆家の長谷川さんからも名文だとおだてられまして。それで地域での署名運動をやりました。

その時にですね、実はいろいろなことがありました。私ははっきり申し上げますけれども、労働組合とかそういうところは頼りになりませんでした(会場笑)。どうしたらいいか、というときに、燦然と表れてくれたのが、当時、共産党の厚別区地区からでていた共産党の村上さんという方が、落選して浪人でいた。しかも彼は、ここの高校のPTAの副会長をされていたということで、「区民の会」(編注=北星学園の平和宣言を支持する厚別区民の会)を立ち上げて、また区民集会も計画され、大規模な運動を地域で展開できたんですね。

 

そのときの支えになったのは、北星の平和宣言であり、建学の精神ですね。それをみますと、なんと新渡戸稲造が、北星という名前と、北星の学校の創立当時を援助しているんです。われわれの先輩なんです、北大のね、農学校です。だから、実は北星とわれわれと、糸がつながっている。会場でもつながっている。理念でも精神でもつながった。

まあそういうことで、私はこの運動で非常に大事なのは、日本でいえば憲法が非常に大事ですけども、大学でも運動でも、理念を明確に持つということですね。そして、それに確信を持って、多くの人に広める。「八紘一宇」と三原じゅん子がいってましたけれども、あんな狭い民族感覚で、世界を受け入れることはできません。

そして最終的には、わたしたちは、安倍政権を倒して、入れ替えない限りは、本当のいわば北星の自由自治、植村さんのアジアで羽ばたく仕事はできないと思っています。

去年から5区補選(編注=2016年4月にあった町村信孝衆院議員死去に伴う補欠選挙)に取りかかりました。統一戦線をつくりまして、非常に立派な働きをする仲間がさらに増えた。北星から、戦争をさせない北海道の会とかですね、支える会とか、そういう仲間がさらに増えて、いま日本というのはね、大きな僕は新しい変わり目にきている。

その先駆けを、北星の市民運動がやった。

植村さんはその中核になった。北星の先生がたは、がんばって耐え抜いてくれた。僕は、学長(編注=田村信一学長)に会ったときから、決して攻撃的に敵意をむき出しにせずに励ましたつもりです。学長の話を聞いて、私はひじょうに、今後の運動に展望と確信を持てると思いました。どうもありがとうございました。